151.乞い願い望む
無駄に広い廊下を走って、走って、開け放たれた玄関口を抜ける。
少し開いた門を抜けた所で、急に見えた人影に足を止める。一瞬固まって、すぐにその影が誰の物であったのか気付いて、肩の力が抜けた。
「シスイさん、どうしてここに」
「ん、食べな」
「え……」
門柱に背を預けて、銀紙で半分覆われたチョコレートを口にしたシスイが、いつも通りチョコレートを一本差し出して。思わず呆気に取られて、今までの勢いを急激に削がれて、反射的に受け取ってしまった。
こんな事をしている場合ではない。玄関だけでなく、門まで開いていたという事は、ヴィオレットは既に敷地を出てしまったという事で。空にはもう光なんてなく、暗闇を照らすのは街頭だけ。月も星も見えないから、曇っているのは明白で。もしかしたら雨が降るかもしれない。この時期に濡れたらきっと凍えてしまう。風邪程度では済まないかもしれない。
「シスイさん、私急いで」
「お嬢様なら大丈夫だ」
「ッ! どこに行ったか、知って」
「マリはあっちな。中の事は俺に任せてほっとけばいいから」
あっち、と指差された方には、艶やかな黒を纏う車体が一つ。ヴィオレットの送り迎えにも用いられる、見慣れているけれど、きっとマリンの見慣れたそれと同個体ではない。
「外では寒いから、中で待ってろって。後はそっちで説明してもらいな」
事態を飲み込めていないマリンへの配慮はなく、シスイの方は食べ終わった銀紙をくしゃくしゃに丸めてポケットに閉まっていた。車とシスイの間で左見右見しているマリンを置いて、門柱から背を起こす。長身のマリンよりも更に高い場所にあるその顔には、焦りも困惑もない。いつも通り過ぎて、こちらが混乱してしまうくらいに。
「お嬢様には、坊ちゃんが付いてるから」
「っ……!」
ヴィオレットを幼い時から見ているシスイは、当然その幼馴染の事だって知っている。昔からずっと、その小さな男の子は、お嬢様の後ろを付いて回って。嬉しい時も悲しい時も、誰かが一人にしてあげようとしても、その少年だけは絶対に傍を離れようとはしなかった。
そして今、青年になったその幼馴染は、ヴィオレットが誰よりも傍にいて欲しい人になっている。
シスイでも、マリンでも駄目なのだ。自分達では、きっとヴィオレットは笑顔しか見せようとしない。悲しそうに、辛そうに、でもそれを必死になかった事にして。全部全部諦めて、大丈夫よと笑うのだ。
ユランでなければ、ヴィオレットを泣かせてあげられない。
「じゃ、俺は戻る。マリ達の荷物とかもこっちで確保しとくから心配すんな」
守れなかった不甲斐なさと、救われる希望と、同じだけの不安と。既に火蓋は切られ、後戻り出来るラインは過ぎている。天国と地獄、ここはその狭間であり、最後の分岐点。もし、これでしくじれば、ヴィオレットは地獄の呵責の中で生きる事になる。恐ろしい、怖い、もし駄目だったらと、想像するだけで死にたくなる、のに。
ぽんぽん、と軽いタッチでマリンの頭を撫でた大きな手が、色んな安心を連れて来た。
「だから、マリは坊ちゃんにちゃんと約束しといてくれ」
「約束?」
「雇い主を殴ってクビになったら、ちゃんとそっちで働ける様に」
「…………」
いつもと変わらない口調で、凪いだ表情のままで、さらりと物騒な発言をするシスイに、マリンはきょとんとするしかなかった。不安しかない現状なのに、彼は既に、天国への道を見ている。ヴィオレットがちゃんと、幸せになれる日が来ると、信じている。
「……それは、私も約束してもらわないとですね」
不安しかないけれど、無理矢理に口角を上げた。きっと引き攣って苦みを含んだものになっただろうけれど、それでも笑おうと思えたのは、シスイと同じ道を信じると決めたから。
ヴィオレットが幸せに微笑み、その隣にはユランがいて、自分はそれを少し後ろから見守っている。
そういう幸せな未来が、あるかもしれない。勝ち取れる日が、来るかもしれない。そんな希望と、怖い、今すぐにでも駆け出して、ヴィオレットを探しに行きたいという不安が波となって交互に襲ってくる。ユランが間に合わず、ヴィオレットが全てを諦めて拒絶してしまったら、生きる事すら放棄してしまったらどうしよう。そう思ったら、泣き出してしまいたくなる。
それでも、もうマリンに選択肢は残っていない。仮に不安を優先したヴィオレットを追い掛けたとして、マリンでは彼女を救う術がない。寄り添い一緒に堕ちる事は出来ても、幸福へ導く手段がない。
所詮ここが、力を持たない自分の限界だ。
だったら、他力本願で構わない。自分の手でなくとも、何の力になれずとも、問題はない。使える者は全部使う、利用だってする、過程がどうであろうと関係ない。結果ヴィオレットが幸せになるなら、それが全てを凌駕する。
祈りはしない。ただ、望むだけ。
強く激しく、重く痛く、願うだけだ。
(お願いします……ユラン様)
どうか、彼女を泣かせてあげて欲しい。大きな声で痛いと、苦しいと、辛いと叫ばせて上げて欲しい。色んな人への憎しみを、恨みを、吐き出させてあげて欲しい。傷だらけの心を剥き出しにして、傷付いても悲しんでも良いから、全部全部尽きるまで吐露した後で。
どうか晴やかに、麗らかに、心から笑わせてあげて欲しい。




