150.祈る事を止めた者
神様、かみさま。あなたは、そんなに私が嫌いですか。
× × × ×
血が沸騰する感覚と、急激に冷めていく感覚を同時に味わう事が出来るとは思わなかった。床にへたり込んでいるヴィオレットを見て、その頬と唇に赤い物を見て、絶望と憤怒が脳内を充満した。全力で走ったせいで息は絶え絶えだし、今にも座り込んでしまいそうな膝を叱咤して、それでも足りずに扉に縋り付いた不格好な姿だけれど。
抱きしめて差し上げないと。この背で庇い、敵から守ってあげないと。
目が合った。茫然自失としているヴィオレットがしっかりこちらを見ていて、真っ暗な瞳は感情を窺わせない。いいや、見えないのではなく、既に捨ててしまった様な、色で。
伸ばした手が届くよりも早く、その人はすり抜けていった。
「ヴィオレット様……ッ‼」
遠ざかる影を追い掛けたくても、震える足は上手く動いてくれない。
待って、お願いだから、置いていかないで。そう叫びたいのに、それが出来ない、してはいけないと分かる。呼び止めたって救われない、立ち止まったら、あの人は死んでしまう。ならば一緒に行かせてくれ、どうかその逃避に、連れて行ってくれと願うのに、この足は煩わしくなる程に重い。
それでも必死に、転ばない様に、急いて仕方がない気持ちに身を任せて踏み出そうとした時、自分と同じ方へ駆け出そうとする影を見て。
「え……ッ?」
「どこに、行かれるつもりですか」
思わず、その腕を掴んでいた。同性ではあるが、小さなメアリージュンと長身で力仕事もこなすマリンでは、力の差は歴然で。加減もせずに掴んだ手首は、きっと痛いのだろう。わずかに歪んだ表情が、苦痛と疑問を訴えて来る。その表情に、更なる黒く重い何かが心の奥で溢れ出す。
長い年月の間に腐り、溶け、ドロドロに崩れて境界線を無くした何か。一つ一つがどんな形をして、どんな理由で生まれたかなんてもう判別出来ないけれど。ただどうしようもなく、目の前の人を傷付けたいという欲求が、踏み止まれない程に加速していた。
「何をするつもりですか。何を、言うつもりですか。今度は、どんな顔で、どんな言葉で、あの人を傷付けるつもりですか」
自分の言葉が針になって降り注ぐ瞬間を、自覚する日が来るなんて思わなかった。無意識だから許される事ではないけれど、自覚を持って人を言葉の刃で切るのは、もっと許されない事であるはずなのに。人を傷付けてはいけませんという理性は思っているよりずっと脆くて弱くて、怒りの前では容易く折れる枝切れに等しい。
「思い上がるのもいい加減にしろ……ッ」
ぎろりと睨み上げれば、それだけで肩を震わせる。そんなつもりはないなんて、言わせない。どんなつもりかなんて興味もない。メアリージュンがどんな気持ちで、どんな優しさで、ヴィオレットを思い遣っていても関係ない。
「あんた達は、必要ない」
今の今まで、あの方の傍で、その傷を労わってきたのは、私だ。
お前らが捨てたから、私が貰った。あの人の家族としての位置を、今更返してなんてやるものか。
はらはらと泣き出したメアリージュンの腕を乱暴に開放すれば、ふらふらと数歩後退ってからへたり込んだ。娘の様子に父親が気が付いて面倒な事になる前に、落ち着きを取り戻した足をしっかりと踏み締める。
誰かの怒鳴り声が聞こえた気がしたけれど、振り返る事はしなかった。




