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149.哀れな仔羊


 きっと前までの自分なら、こういう局面になった時、もっと慌てていたのだと思う。怒髪冠を衝いている父が目の前にいて、メアリージュンが泣いていて、次に何が起こるかなんて火を見るより明らかで。何故こんなにも凪いだ心持ちでいられるのか、自分でも不思議なくらいだった。ただ、冷静なのかと聞かれたら、それはまた違う。平坦で、波がなく、風もなく、揺れる事がない精神。それは何が起こっても対処出来るという自信や、状況判断からではなく。何が起ころうとどうでもいいという、思考放棄だったのだろう。

 表情と同じ鋭さの足音を立てて近付いて来たオールドが、躊躇いもせずに、ヴィオレットの胸元に手を伸ばす。立ち上がったのではなく、無理矢理に引き摺り上げられた耳元で、火花が散る音がして。


 揺れる視界と脳と、急に遠ざかった音。踏ん張る間も与えられず、衝撃のまま床に崩れ落ちて──漸く、殴られたのだと気が付いた。


「──‼ ──、──‼‼」

「──! ──‼」

 

 音を拾いづらくなった耳に、誰かの叫ぶ声が届く。内容を上手く理解出来ないのは、揺さぶられた脳が上手く機能していないからか。目の前がチカチカするし、口の中は鉄の味がした。歯が折れたりはしていないみたいだから、頬か口の端かを切ったのだろう。頬に手をやると、腫れてはなかったが火傷した様な熱を持っていた。

 女を殴るくらいには興奮していても、拳ではなく平手にする程度の知性はあったらしい。残念な事に、理性は働かなかったらしけれど。

 目を剥いて怒る父には、ヴィオレットが血を流している事なんて意識にも止まらないらしい。必死になって止めるメアリージュンがいなければ、あのまま二回三回叩かれていてもおかしくはなかったかの知れない。それくらいに、今の父には抑制という機関が存在していないらしかった。


 まるで、いつかの記憶をなぞるかの様に。


 脳ではなく心に支配された体は、コントロールを失ったロボットと同じ。色んなものが遠くなって、まるで自分が世界の中心になった様に感じる。価値観の概念が、全部自分に添っているかの様に、錯覚する。善は自分、悪は、己が悪と定めた物。正統性なんて、顧みる必要を感じない。それはそれは、醜悪な獣だ。人間と呼ぶに相応しい、考える事を放棄した姿は、言葉を話すだけの畜生でしかなくて。

 お前のせいだと、詰る声がする。少しずつ戻ってきた聴覚が、怒りと蔑みと、恨み辛み憎しみを込めた音を余すことなく拾い上げて。ペキ、と小さな音で入ったヒビが、ゆっくりと確実に、広がってく。


「どれだけ邪魔をすれば……、どれだけ俺を、苦しめれば気が済むッ! お前がいなければ、お前さえ、生まれて来なければ、俺は……ッ‼」


 苦しいと歪んだ顔で、呪詛が零れる度に、耳の奥で何かが砕ける音がする。それは心であり、ヴィオレットが作り上げた壁の崩れる音だった。生きていく為に、目を背けていた事。


「これ以上、俺の幸せの邪魔をするなッ‼‼」


 同じ事を、思った事がある。同じ様に、怒り憎み、恨んだ事がある。目の前の男とよく似た顔で、刃を手にした事がある。なるほどやっぱり、自分とこの男は正しく親子であったらしい。母譲りとばかり思っていたが、どうやら両親ともに素質はあったようだ。


「止めて、お父様ッ! 止めてください!」

「離れなさいメアリー、危ないだろう!」

「離れるのはお父様の方です! お姉様に近付かないで‼」

「何を言ってるんだ……! メアリー、騙されてはいけない、その女は」

「お父様こそ何を言っているのですか……ッ!」


 言い合う二人を見て、完成された世界を眺めて、破片になった自分を振り返る。


(はは……ッ)


 自然と浮かんだ自嘲の笑みで、口元にピリッとした痛みが走った。それさえも、どこか遠い。自分の事が、自分を取り巻く全てが、急激に遠ざかっていく。もう何もない。どこにも、何も、存在しない。弾き飛ばされた自分は、もうどこにもはまらず飛び出したまま。


 ──あぁ、なんて、哀れな命だろう。


「ヴィオ、ッ、様……ッ、⁉」


 開け放たれた扉の外に、息を弾ませて言葉も出ない様子のマリンが見えた。きっと全速力で駆け付けてくれたのだろう、もう立っているのも辛いといった様子なのに、必死にヴィオレットの名を呼んで手を伸ばしてくれる。

 それが嬉しくて、悲しくて──張り詰めていた何かが、ぷつんと音を立てて千切れた。

 

「ッ……!」


「ッお姉様……⁉」


 低い体勢のまま、這いずる様にしてオールドとメアリージュンの横をすり抜けた。足に纏わりつくスカートが煩わしいけれど、走ってしまえばそんなものどうって事はない。ただ足を動かす事にだけ集中してしまえば、喧騒はどれも遠のいた。

 行きたい所なんて、ない。ただここではないどこかへ、誰の目も、手も、声も届かない場所へとだけ、考えて。


「ヴィオレット様……ッ‼」


 足が縺れて転びそうになったマリンの声だけが、最後まで耳に残っていた。

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