144.太陽は空を灼く
「へ……?」
光を放っていた笑顔に、ユランの言葉でぴきりとヒビが入る。固まって、引き攣って、どこにも喜びが見当たらなくなった表情に、ユランは笑みを深めた。
「いくら本当の事でも、口にしない程度の理性はある。籍しか繋がっていないとはいえ、ヴィオちゃんの耳に入って万が一でも気分を害させたくはないからね」
「何、言って……何で、そんなッ」
「何で、なぁ……」
酷い事だとでも言いたげに、ゆっくりと歪んでいくメアリージュンの顔。それを見ていると、この女は本当に何一つ気が付いていなかったのだと思い知る。目を塞いで生活していたのかと思うくらいに、視野が狭いというレベルを超えて、最早盲目の域だ。目を閉じても不自由なく生活出来る様に整えられた世界で、その他を知らないまま、知ろうともしないまま。だからこそ軽やかに、躍るような優雅さで、色んな物を踏み潰していけるのだろうけれど。
「妻のいる相手の不倫相手になって、子供生んで、あげく前妻が死んでそう日もたたない内に後妻に収まるなんて……悪女と呼ばれても仕方がない所業だろ。阿波ずれ、自堕落、ふしだら、どれも事実。自業自得で、身から出た錆だ」
端的に、事実だけを並べた説明文は、思っていたよりもずっと酷い出来だった。口にすると、その所業を再確認して嫌悪が倍増する。
妾や側室など呼び方は様々だが、社交界という特殊な場所に酔っているだけで、世間で言えばただの不貞だ。財力と権力があるから好き勝手に出来る事、時には世継ぎの為に仕方なく迎える者がいる事で、許されていると多くの人間が勘違いしているだけ。そんな事にも気が付かないくらい、高貴な身分の者達は色を好んで止まないらしい。勿論それで各々の家が機能するならば好きにすればいいけれど、ユランもヴィオレットも、色に負けた阿呆の失敗によってとんでもない割を食っている。
自分達に汚れ役を強いておきながら、自分達はさも穢れなど知らぬと、潔白な幸福の上で笑っている者達。
──その存在の、なんと醜い事か。
「ひ、どい……何で、そんな事……ッ、ユラン君は何も知らないからそんな風に言えるのよ! 妾とか、色眼鏡で見てるから……! お母様も、勿論お父様だって、私の事を本当に大切にしてくれ、て、ッ──‼」
嘆願にも似た叫び声が、ゾッとする様な寒気によって遮られる。澄み切った空の様な青い目と、太陽と称された黄金色がかち合って、空はその熱で焼き尽くされる。輝いているのではない、灼熱の様な光で、ユランはただメアリージュンを見下していた。全てを消し炭にする、圧倒的な炎。それは、死んでしまえという嫌悪ではなく、殺してやるという憎悪で。
喉が引き攣って、呼吸すら止まる様な。純粋で明瞭で、一縷の躊躇いもない殺意だった。
「大切、なぁ……」
柔らかい声だ、優しさを勘違いしてしまうくらいに。感情を一切合切削ぎ落した表情とはあまりにかけ離れた、穏やかな音。メアリージュンの知るユランと違う事の無い声で、見た事のない冷たい顔をして。お前の知るユランに、一つの正解もないのだと、思い知らせるかの様に。
「お前、本当に何も考えてないんだな」
「ぇ……」
「お前が家族で仲睦まじく過ごしている間、ヴィオレットはどこにいた」
嘲りを隠さない口調で、侮蔑の視線で、グサグサと容赦なくメアリージュンを刺していく。痛かろうが辛かろうが、興味はない。既に血の気は失せ、今にも倒れそうな様相だが、そのまま倒れて頭を打ち命を落とした所で知った事か。いっそ自ら首を吊りたくなるほどに傷付いてしまえばいい。
ユランに言われた事を脳内で反復して混乱するくらいに、大切に大切に育てられた箱庭の天使。泣いて助けを求める事を『傷付いた』と言う様な、綺麗に大きくなったお姫様。どうかその目と耳で、思い知るといい。
「ずっとお前ら母子に寄り添ってくれた素晴らしい父親だとして、その間、もう一人の娘がどこにいたのか、ヴィオレットとその母がどんな暮らしをしていたのか……一度でも、ほんの微かにでも、想像した事あったか?」
泣いても叫んでも藻掻いても、助けての言葉さえ出てこない場所にいる者の事を。その全てが誰のせいで、自分が、誰の上で幸せに踊っていたのかという事を。
「まさか、自分の父親が分身出来るなんて、可愛らしい想像してたとか言わないよな?」
「っ……!」
ハッと表情を変えたメアリージュンは震える手で口を覆って、見開かれた目は今にも零れ落ちそうな水分を讃えている。ユランの言葉で漸く想像した世界は、想像だけでも泣きたくなる出来だったらしい。本当に今の今まで、欠片も思い至らなかったとは、純粋を通り越し愚かの領域ではないだろうか。善良な心根を尊ぶのは勝手だが、悪意を知らない事と無視する事では、大きく意味が異なるのだけれど。
「ぁ……わ、たし」
現実を知り、同情し、涙出来る姿を、成長と呼んで美しさを見出す者もいるかもしれない。反省しているのか後悔しているのかは知らないが、己の見ていなかった世界の存在を認め、それを誰かのせいにせず、自らを省みられるメアリージュンは、真実善良な精神をしている。知らなかったから、思い至らなかったから、知った後できちんと改められるなら、それは素晴らしい事だ。
──なんて、ユランには欠片も思えないけれど。
「あぁそういえば、俺と仲良くしたいんだっけ?」
俯きがちだったメアリージュンが、弾かれた様に顔を上げた。それがユランへの恐怖からくる反射なのかは分からないが、悲しみに暮れているらしいメアリージュンに、ユランはとびっきりの笑顔を向けた。
「あの時は答える前にどっか行っちゃったけど、今度はきちんと聞いてね?」
腰を追って、同じ高さで、しっかりと交わった目線。瞳達はキラキラ輝いているけれど、その意味は全く異なっている。涙で潤み、悲哀と恐怖で崩れそうな碧眼と、憎悪と嫌悪と軽蔑と嘲笑と、あらゆる負の感情が混一した黄金の目が、交わって、歪む。
穏やかさも、優しさも、柔らかな声も笑顔も。メアリージュンの知るユランが砕けて、剥き出しになった素顔は、刃よりも鋭く氷よりもずっとずっと冷たい顔と声で。
「──死んでも嫌に決まってんだろ」
白い髪の隙間から覗く小さな耳に、致死量の毒を注ぎ込んだ。




