140.夢を見た
慢心せず、油断せず、細心の注意を払って事を進める。そうして得た結果は満足に足るものだった。予定よりも時間はかかったが、それでも想定した通りの道筋で。
計画は成功した。後は、この成功を、君と共に喜び合えるかどうかだけ。
× × × ×
揺れる車体と一緒に、流れる景色も振動する。遠くを見た方が酔わずに済むと言ったのは誰だったか。本で読んだだけだったかもしれないが、そもそも遠出する機会など無かったから、今まですっかり忘れていた。夕日に染まった空が、紺に侵食され始めている。もうすぐ夜が来るし、きっと家につく頃には太陽の光が差し始めているはずだ。滞在時間よりも移動時間の方がずっと長いはずなのに、一人で列車に揺られている時の方が気分がずっと楽なのは、会っていた人に対する心持ちの問題だろう。
緊迫した一年だった。ユランが今まで生きていた中で、そしてこれから生きるであろう年月の中で一番。
(疲れた……)
全身に絡み付く倦怠感、肩こり頭痛と、満身創痍ではある。今までの寝不足も祟っているし、何なら食事だって疎かにした自覚もあった。ただ今はそれ以上に、満足感の方が大きい。
ずっとずっと望んでいた、きっとこの一年よりも昔から。抑え込んでいただけで、本当はずっと自分の手の中に収めたかったのだ。この手で幸せにしたかった。この手の中で幸せになるあの人を見たかった。それが叶わないと思ったから、誰かに託して見守りたいなんて夢を見たのだ。本当に大切なら、夢ではなく現実を見据えて、全部自分でやり遂げるべきだった。
だから今回は、やり遂げて見せた。
(後は……俺が撒いた種はどうなってるかだな)
自分がいては育たない、小さな故意を置いて来た。どれだけ育っているかは分からないが、自分の周りには善良な人間が溢れているから、彼らが勝手に水をやってくれている事だろう。優しくて、正義感が強くて、ユランへの信頼値が高い者達だから。
こちらに関しては誰の幸せの為でもない、大義名分なんて欠片もなく、強いて言うならユランが望んだ復讐の一環。最優先事項はヴィオレットを幸せにする事だから、こちらは番外編と言った所か。許す事が尊いなら、愚かでも構わない。煮え滾る様な負の感情が、ユランをここまで押し上げたのだから。
そうでなければユランはこの方法を選んでいない。誰も恨まず、ただ幸せだけを願える人間だったなら。自分がすべきはクローディアがヴィオレットの心根を知り、捕らわれた環境を知り、彼女を選ぶ様に画策していたはずなのだ。事実、あの男はヴィオレットの美しさに気が付いた。向ける目には確かな好意があった。ヴィオレットにそれを伝えれば、彼女がかつて望んだ未来が手に入る。
それをしないと決めたのは、今もまだ許せないからだ。恨み続けているからだ。改心とか反省とか後悔とか、興味がない。そんなものを貰っても、価値を見出せない。だってこちらの心は、何一つ報われていないのに。
そうして勝手に、進めた。ヴィオレットが夢見ていた未来を潰してまで。
「……謝ったら、許してくれるかなぁ」
──もう、しょうがないわね。
ちょっと困った様な笑い方と、小さい子供を叱るみたいな声。ごめんねと謝るユランを、ヴィオレットはいつもそうやって許していた。しょうがないわね、もうしちゃダメよ。幼い弟を叱るお姉さんみたいな、そんな姿を想像してしまうくらいに、最後に叱られた日が遠いのだと今更気が付いた。二人で手を繋いで歩いた日、その手を引っ張って、二人して転んでしまった時。泣きそうになるユランを、葉っぱの付いた顔で笑いながら窘めて。誰にも邪魔されずに、二人の世界は平和だった。
あれから二人とも大きくなって、少女と少年は女性と男性になって、手を繋ぐ事も、顔を寄せ合って話す事も憚られる様になったけれど。きっと今も、ヴィオレットはそうして叱ってくれる。
(笑って欲しいなぁ……)
夜を迎えようとする窓には、列車内の灯りもあって自分の顔が映っている。モノクロの鏡を見ている気分になって伏せた視界には組んだ手足が見えて、不規則な揺れに身を任せる様に目を閉じた。自覚はなかったが、肉体は不足していた睡眠を求めていたらしい。スイッチが切られたかの様に、ストンと意識が落ちていた。
──夢を見た。久しぶりに、とてもとても、美しい夢を。
小さな子供達が、手を繋いで木々の間を走り抜ける。人気がなくて、危ないからと大人は近付けたがらない様な、森の奥。緑と茶色ばかりの中、腐りかけた巣箱や変な方向に曲がって生えた木なんかを、右に一回左に二回その後右にまた一回曲がる。そうしたら、森の真ん中に、一際目立つ紫の絨毯。小さな菫がいくつも連なって、子供二人には充分なピクニックシートが出来ていた。花壇の様な綺麗さはなく、木々の隙間、苔や泥の中にある僅かな花畑。季節を変えて雑草が生えても、また咲くその日を想像して地面に絵を描いたりして。
自分達だけで生きて枯れる、誰の手も入らないし、手助けもしない野草を、ただ眺める為だけに何度も通った記憶。
平凡で温かくて、ただ優しいだけの、美しい日の夢だった。




