139.思い込みという武器
ヴィオレットにとって学園は、ある意味では楽園だった。外敵の少なさ、一定の規律、教育者として中立に立つ者の存在。勿論言葉ほど簡単な図ではないが、家庭という壁で隠された閉鎖空間よりはずっとずっと人目が多い。皆少しだけ、自分の行いを客観視する機会に恵まれる。ヴィオレットに攻撃する事に益を見出す思考が迷宮回路な人間は今の所見た事がない。
「はー……」
思わず大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。肩の重荷は消えないが、少しだけ軽く感じるのは、きっとただの錯覚。一日の内、唯一と言っても良い心穏やかに過ごせる場所。勉強が好きな訳ではないが、あの家で過ごすくらいなら机に齧り付いていたいと思う。何よりここに来れば、心の支えにしている大切な者達に会う事が出来たから。
大切な友人、好きな人。誰かに心を寄せるというのは、想像よりもずっと幸せで、ずっとずっと苦しくものなる。
(一人で来るのは、久しぶり)
前までは、校内にある人気のない場所を転々をしていた。そこにいるだけで人目を集める自覚をしていたから、下手に話しかけられて、以前の様に煽てられて調子に乗りたくはなかった。それを突っ撥ねられる強さがあるなんて、信じられるはずもない。
そうして色んな所で一人を満喫していた時に、ロゼットと出会って。誰かといる楽しさも知って、心傾ける意味を知って。
「……つまんないなぁ」
口にした言葉に、くすくすと笑ってしまった。誰かといる時を思い出して、一人でいる自由と比べて、楽しくないと思う日が自分に訪れるなんて。詰まらないと思うという事は、楽しかった証拠。そう思える自分が何だか可笑しくて、嬉しくて。一年前に自分に、今の気持ちを伝えたとして、信じるはずはないしきっと鼻で笑われる。随分と甘くなった物だと、嘲る自分の姿が簡単に想像出来た。
あれだけ傷付けられて、まだ人を信じるのか。誰も愛さなかった、誰も必要としなかった。なのに、また誰かを想い手を伸ばそうというのか。どうせまた、無様に踏み潰されて終わるだけなのに。
強い言葉で否定して、必死に咎めるだろう。もう止めろ、諦めろと。誰も、ヴィオレットを愛しはしないのだと。
かつての自分は、そう信じてやまなかった。そして事実、その通りの結末はあった。遠い過去ではない、自分はまだあの頃の年齢と同じで、二度目の日々を過ごしている。
それが今や、誰かの傍に楽しさを、大切な弟分に恋心を、抱く様になった。
(……二人とも、何をしているのかしら)
ユランは今日も休みだろうか。理由は分からないが、体調の問題でない事には安心した。
ロゼットは、前に見掛けた知人達とランチでも取っている頃だろうか。ヴィオレットが断ってしまったからといって、周りは彼女を一人にはしないだろう。今は義母の要求もあって放課後も一緒にいる事はない。お昼も別にしてしまえば、クラスも違う二人の関わりはゼロになる。あの日出会わなければ、今も顔と名前を知るだけの他人だった。
今のぐらぐら揺れる心では、心配を掛けてしまうから、なんて。らしくない考えに苦笑してしまう。
心配して欲しかった。慮って欲しかった。ヴィオレットの事だけを考えて、一番に思って、行動して欲しがった。自分はそんな人間だったはずなのに、心配を掛けたくないと、思う日が来るなんて。
(……そろそろ、戻らないと)
人気の無い場所は、時間の感覚が曖昧になりやすい。注意して、早めの行動を取らないとあっという間に遅刻が決定してしまう。
ゆっくりと立ち上がり、中庭から外廊下を通って、校内へと進んでいく。人は増えたが昼食を取っている人の少なさを見ると、どうやらヴィオレットの時間感覚は思っていたよりも正確であったらしい。昔からの癖であり、慣れでもあるのだろうけれど。
「あ……」
向かい側の窓に、純白の影が見えた。穢れを知らないパール色の髪に、祝福された天使の輪っかが輝いている。いつ見ても、どこに居ても、平和と幸福を連想させる姿で、メアリージュンが笑っていた。
そばに居るのは、いつもユランと共に勉強会をしているメンバーだろうか。少し離れた所にギアの姿も見えたから、きっと正解だ。思っていたよりも人数が多く感じるのは、いつもユランとギアくらいしかちゃんと認識していなかったからだろう。それでなくとも長身のユランと褐色のギアは目立つから。そのユランの影が見えないという事は、やはり今日も休みらしい。
あそこにもしユランがいたら、自分はどんな気持ちになったのか。
「………」
浮かびそうになった気持ちと一緒に、メアリージュン達からも視線を逸らす。見ない事が、平穏に続く事だってある。知らない方が良い事も、知らないふりをした方が良い事も。
そこに傷があると知らなければ、痛みだって、感じずに済むのだから。