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135.期待


 その日、ヴィオレットの帰宅はいつもと同じ……少し遅かったかもしれない。家に居たくないという思いが足を重くさせているのは間違いない。食事も部屋で取る様に、こちらで勝手に変更したのだと伝えたら、ホッとした様なでも不安そうな顔で微笑んでいた。エレファの言葉が、ヴィオレットの中で毒を撒き散らしている。出来るだけ一緒に、といった言葉に深い意味はなかったらしく、欠席を伝えてもただ笑顔で頷くだけだったけれど。その余裕が、余計に恐ろしく思う。

 執着している様で、独占したがる訳ではない。目の前にいるヴィオレットを愛ではしても、束縛を強いる訳でもない。一見すると、義理の娘との距離を縮めたい義母の図だ。内に秘めている感情は、そんな可愛らしい物ではないだろうに。


「シスイさん、ヴィオレット様の分、もう盛り付けてしまいましたか?」


「いや、今からだけど」


「食欲がないそうなので、少な目でお願いします」


「了解。……なぁ、マリ」


「……まだ、大丈夫かと思います」


「なら良い。マジになる前に言いに来いよ」


「はい」


 てきぱきと作業をこなしながら、マリンの表情を一瞥して、静かな声は責めるでもなくそう言った。ヴィオレットの食欲不振の原因は、今の所精神的な物だろう。他の者には体調不良だと言ってあるが、それが事実になるのも時間の問題だ。ヴィオレットは病弱ではないけれど、心と体は密接で、気持ちが弱ると体もゆっくりと沈んでいく。

 ヴィオレットの身体を支えるシスイとしては、出来るだけ早い段階で対策が取りたい。人の血肉は食べた物の末路で、心と体が密接だから、体の好調が心を立て直す事もある。そこを担うのがシスイの責務で、何よりも優先すべき仕事だ。


 そして揺らぐ精神を支えるのは、マリンの使命で本分だ。


× × × ×



 昼と同じ、人が廊下に少ない時間帯。ヴィオレットの夕食後の片付けを済まし、空いたお皿達をキッチンに運んだ後。いつもならそのままお皿洗いを手伝って、その後でヴィオレットの入浴を手伝うか、入浴後の準備をするか。ただ今日は、手伝う時間を別の事に当てなければならない。


「シスイさん、ここをはお願いしても構いませんか」


「あぁ、構わないけど」


「ありがとうございます、失礼いたします」


 挨拶もそこそこに、速足でキッチンに背を向けた。急いでいるつもりはなかったが、焦りでどうしても気持ちが逸る。皆がそれぞれの持ち場で片付けに勤しんでいるであろうこの時間は、それほど長くは続かない。食事の後片付けと、入浴の準備が終われば、廊下を行き来する人は増える。四人の世話をするのに余りある人数だと常々思っているが、ヴィオレットが多くを自分でしてしまうだけで、本来は一人に何人もの侍女や執事が付くものだ。ヴィオレットの場合は母がヴィオレットに近付く者を極端なまでに嫌ったから、今もマリン以外を傍に置こうとしないけれど。


 カツカツカツと、鼓動と同じリズムで足を動かす。それほど大きな音ではないが、人目を意識しているせいか嫌に耳に障った。絨毯もあるのだから、実際はほとんど無音であるはずなのに。

 この屋敷に電話は三つ。一つはオールドの仕事場である執務室、二つ目は事務室。こちらの二つはマリンが使うにはリスクが高い。一つ目は言わずもがな、二つ目は部屋の用途上、人に聞かれやすいという難点がある。結果として、マリンが選べるのは三つ目の、ホールに置かれた物だけだ。ほとんど受ける為だけに置かれたそれは人が使う事が少なく、声が響くのさえ気を付ければ内容を聞かれる事もない。


 吹き抜けのホールに出ると、予想通り誰もいない。人の気配や音は遠くにあるけれど、静まり返っているよりも安心出来る気がした。日の沈んだ後の人気の無さは、逆に不安と恐怖を誘うから。

 猫足のチェストの上に乗った、無駄にごてごてとした受話器を取る。性能はどれでも同じであるはずなのに、マリンが教会にいた頃見た物よりずっと大きく、正直重い。正直、支えがないとすぐに手が疲れてしまう。ダイヤルを回して、送話口に手を添える。

 何度目かの発信音の後、プツ、と何かが途切れて繋がる音がした。


 ──クグルス邸です。


 柔らかで静かで、それでいて正しい響き。一文字一文字の発音が美しいからか、電話口でも聞こえやすい女性の声。少し高めに設定するのは、きっとどこの人間でも同じだろう。顔が見えない相手に、少しでも自分の機嫌を正しく認識してもらう為の術だ。


「突然のお電話で失礼いたします。私、ご子息であるユラン様の知人で、マリンと申します。この度は、ユラン様にお話したい事がありまして、お取次ぎ願えますでしょうか」


 一息で言い終えた文章を顧みるだけの冷静さは、もう残っていなかった。限界まで急いた心臓の音が響いて、数秒の沈黙でさえ終わりがない様に感じる。弾みそうになる息を何とか耐えて、まず何を言うべきか脳をフル稼働して選び出す。

 額に滲んだ汗が、滑り落ちて。電話口の声が、不安定に揺れた。


 ──申し訳ございません……ユラン様は今外出をしておりまして。


「え……?」


 ──ご帰宅の予定は二日後となっております。


「……そう、ですか」


 ──言付けがございましたら、承ります。


「い、え……大丈夫です。また電話します」


 ──畏まりました。


「ありがとうございました。失礼いたします」


 見えない相手に頭を下げて、人の声の聞こえなくなった受話器を元に戻す。重い機械を下ろせたはずなのに、今の方がずっとずっと、心が重い。


(大丈夫、落ち着け、まだ大丈夫。二日後ならまだあいつは帰ってきてないし、まだ何も気付かれていない。時間さえあればまた──)


 胸を突き破りそうな鼓動に手を当てて、何度も息を吐いた。大丈夫だと、自分に言い聞かせて。ぐるぐると攪拌された脳が、焦りと混乱でゆっくりと冷やされていく。


「あら、マリンちゃん」


「ッ……⁉」


 それは一見冷静になれていると錯覚するけれど、実は普通に焦るよりもずっと視野が狭くなっているのに。

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