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134.救えるのは自分だけ


 扉の隙間から、可能な限りの周囲を把握する。人の影も気配もない事を確認してから滑り出て、後ろ手で音を立てない様に扉を閉めた。何食わぬ顔で施錠を終えたら、俯きがちに掃除道具を抱えてその場を去った。滞在時間は十五分もなかった事だろう。

 使わなかった掃除道具はそのまま片付けて、そのまま向かったのはヴィオレットの私室。仕事は全て終わっているが、人目を避けるのにこれ以上に適した場所が思い付かなかったから。


「ふぅ……」


 静まり返った、慣れ親しんだ部屋に、意識せずとも肩の力が抜ける。本来ならば一番緊張すべき主の私室だが、ここはマリンにとっての城でもあったから。多くの苦悩が詰まってはいても、細かい小さな幸福だってあった。そういう、思い出の場所。

 意識しなければほとんど動く事の無い表情筋は、いつもと同じ能面も様に固まったままだ。それでも、手を当てた胸の下にある心臓は、さっきから強く大きく早く、過剰な運動を続けている。耳の奥で響く鼓動は、本当に自分にしか聞こえていないのかと不思議になるほどうるさくて。


 ポケットの中に突っ込んだままの利き手の中で、くしゃりと音を立てた物の存在を思い出す。


「…………」


 そろそろと、まるで硝子細工でも扱う様な手つきで、ゆっくりと取り出したそれは丸くシワを寄せていた。いつも使っているメモ用紙の切れ端に、いつも使っている万年筆のインクが滲んだもの。屑籠の中身と変哲ないそれが、動悸が激しくなる程重く感じた。

 皺を一本ずつ伸ばす様に、万が一にもインクが擦れて読めなくなってしまわない様に、慎重に広げたそこにあるのは、数字の羅列の走り書き。


 クグルス家の──ユランに繋がる、唯一の連絡手段。


(後は、これを使うだけ)


 正直、ここからの計画はほとんどが真っ白だ。ただヴィオレットを逃がすという目的だけが先行して、他の事を何も考えていなかった。ただ、ここに居てはヴィオレットが殺されてしまうから、それだけは防がなければならないと躍起になっているだけ。

 力を持たない事を、これほど悔やんだ事はない。心だけはあるのに、それでは誰も救えない。

 世界を変えるのは愛ではなく、権力と金であるのだと、ずっと昔から知っている。

 ヴィオレットの幸せに動くのは、ユランも同じだ。知人未満顔見知り以上の相手ではあるが、そこだけは信頼出来る。マリンには心しかない。ユランは、心も力も持っている。身勝手に頼る結果にはなってしまうが、出来ない事にばかり目を向けて手をこまねける猶予はない。

 力が欲しい、仮初であっても、一時であっても。ただヴィオレットを、この家から引き剥がすだけの力があればそれで充分だから。


(その後の事は、お願い致します)


 無責任でも何でも、構わない。ヴィオレットをユランに放り投げるだけの形になっても、自分と彼の向く道と望む世界はきっと同じだ。外の世界でヴィオレットを守り、沢山の物を与えたのはユランで、おかげでマリンは沢山の笑顔を見る事が出来た。

 ただ唯一、彼の手の届かない場所。悪魔が蔓延るこの家で、動けるのはマリンだけしかいない。きっとユランは、まだ知らないから。弱音を吐かずに諦めるヴィオレットが、大切な人に毒にやられている事実を告げるはずがない。彼女の態度でユランが察するまで待つ時間も、無い。


(夜……夕飯の後がいいか)


 今の時間は、ユランも学生として勉学に勤しんでいる事だろう。出来れば折り返しを待たずに直通したい所だ。折り返された電話に、マリンが出られない可能性を考えれば。敵だらけの家で色んな物を警戒すると、身動きがとり辛くてかなわない。スパイか何かの様だが、実際は属している組織が敵という、何とも厳しい立ち位置だけれど。


(……どうか、成功して)


 メモを両手で挟み込み、祈りを捧げる。教会で育ったからか、自然と手を組んで天に祈ってしまうけれど、信仰心があるかと言われればそうではない。生活の中に組み込まれていたから、覚えただけの動作だ。神を信じていたら自分は今ここにはいない。

 全部が全部、良い方向に変われば良いと、無理した楽観の光景を思い描いた。救われるヴィオレットが、愛する人と笑い合う光景を。愛し、愛される未来を。当たり前に、生き続ける世界を。

 なんて幸せなのだろう。その傍らに、自分はいないかもしれないけれど、構わない。どこにいたって想う事は出来る。ヴィオレットの幸せが確約されるなら、距離の問題は無に帰す。瞼を閉じれば、思い浮かぶ笑顔だけで、幸福だ。


 愛だけで誰かを救う事は出来ないとしても。

 この愛があれば、私はどこにいても救われるのだから。

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