131.カウントダウン
「ヴィオレット様……? ッ、‼」
どれだけ待っても戻ってこない主を探して、色々な所を探し回った。エレファとお茶会をしたというパーラーはもう片付けが入っていたし、自室との距離を考えても未だ戻っていないのはおかしいと。エレファの自室付近まで探しに行ったが、その気配はなく、安心したと同時に心配も増した。
そうして、駆けずり回って見つけた人は、ヒビの入った鏡の前でへたり込んでいた。
「ヴィオレット様ッ、血が……っ、すぐに手当てをしないと」
糸の切れたマリオネットの様に、だらんと垂れた腕の先、掌外沿から滲む血がスカートに小さなシミを作っていた。切ったというより潰した様な傷口と、薄い赤の判子が重なった鏡。その二つだけで、ヴィオレットが何をしたのか、マリンには簡単に想像が付く。
華奢で白かった手を、痛々しい青紫と絞り出される赤黒い血が染める。ゆっくりと、出来るだけ刺激の無い様に触れた指先は、作り物の様に冷たくなっていた。
「ヴィオレット、様……」
触れても、呼んでも、答えがない。顔に掛かる髪を避けて、その頬に触れた。そこで初めて、弾かれた様にヴィオレットがマリンの方を向く。泣いているかの様に悲しくて、でも涙の枯れた地では流れる物などなくて。ただ深く、暗い、感情の削ぎ落した果てが二つ。
いつか扉の隙間から見た、今でも夢に見る、絶望の中の救えなかった少女がいた。耐えて耐えて、願って、いつの間にか全部を諦めていた人。諦めた事にすら気付けないくらい、その心を蹂躙された人。優しくて幼くて、でもきっと、ずっとずっと大人で。笑うとこの世の何よりも美しくて、可愛い人、なのに。
どうして誰も、この人を大切にしてくれない。
「ぁ、あ……、いや……嫌です、いかないで」
悪夢が、彼女を連れて行ってしまう。やっと、やっと心を取り戻した人を、頭から飲み込んでしまう。癒える事のない傷口を無理矢理にこじ開けて、いくつもの記憶が絡めとろうとしている。
必死に両手を回して、加減もせずに抱き締めた。その背中に立てた爪が、彼女の服にしわを付けてしまっても。ただ縋り付き、誰にも奪わせない様に閉じ込める。どうかここに居て、戻ってしまわないで。もうあの時の様に、見ているだけの子供ではないから。頼って、助けを呼んで、どうか自分にも、守らせてくれと。
「……マリン」
「ッ……!」
「大丈夫……大丈夫よ。私は、大丈夫」
何が、大丈夫だというのか。誰が、何が、何一つ。大丈夫な物なんて何もないのに。
「どこにも行かないわ。私は大丈夫……だから、泣かないで、マリン」
いくつもの水玉が頬を滑り落ちていく。視界が歪んで、鼻の奥が痛い。そして何より、胸の奥の奥が潰れた様だった。痛くて、痛くて、息をするのも辛くて。体温の名残を持った涙は、さしずめ血液の様だと思った。切り刻まれて、磨り潰されて、絞り出した痛みの証。
誰よりも大切なこの人の中で、自分は今も、巻き込んでしまった少女の形をしている。
弱みを見せて、頼って、愛してくれる。でもきっと、同じ痛みを持たせては貰えない。
あの日自分は、ヴィオレットに命を貰った。でもきっとヴィオレットにとってッマリンは、痛みと苦しみを与えてしまった相手。ヴァーハンという毒沼に、引きずり込んでしまった子。
幸せを望まれている。傷付かないでと、想われている。愛されている。十二分に、伝わっている。だからこそ、悲しくなる。幸せになって欲しい。傷付かないで欲しい。誰よりも愛している。同じ事を、自分も彼女に抱いているのだと。
あなたが痛いと、私も痛い。あなたが苦しいと、私も苦しい。
あなたが一人耐えていると、私の心は張り裂けそうになる。
伝わらないのが悲しい。でもそれ以上に、その可能性にも至らないくらいに、ヴィオレットの心を踏み躙る全てが憎い。
(ここでは、ダメだ)
この家は、害だ。じわりじわりと蝕む毒だ。そしてすでに、致死量を超える日が迫っている。
王子様を、ヴィオレットを愛する人を、ただ待っていられる日はもう残っていない。きっと、これが最後のチャンスだ。敵が一人少ない今しか、出来ない。ヴィオレットの卒業までの時間を想定していたが、あの男が戻った後では、マリンの腕はヴィオレットを庇う盾にすらなれなくなってしまう。
(何とかして、彼に連絡を取らないと)
学も力も持たない自分だけでは、夜逃げしたとしてもすぐに連れ戻されてしまう。準備に時間は取れない、コネを作っている時間もない。唯一信用出来るのは、あらゆる力と、ヴィオレットへの気持ちを持つ顔見知りの共犯者。
ユランに取り次げさえすれば、彼は命を懸けてでもヴィオレットを守るだろう。
最悪、マリンが捕まったとして、ヴィオレットが逃げられたらそれで目的は達成される。
(あの男が戻るまで、後五日)
天国か地獄か──天秤の傾く先は、どちらか。
意地でも天国にして見せると、抱く腕に力を込めた。




