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126.幻覚


 全ての準備を済ませたマリンが訪ねた時、ヴィオレットはソファの上にペタンと座り込んでいた。呆然とクッションを抱いて、一点を見たまま固まっている。慌てて駆け寄り、その肩に触れたら、汗ばんでいるのに冷たくなっている。


「ヴィオレット様……! どうなさったのですか、ッどこか痛い所が」


「マリン」


「少し待っていてください、今医者を」


「さっき、エレファ様が来たわ」


「────」


 視線はずっと同じ場所から動く事なく、取り乱すマリンを落ち着けせる平坦な声色が、マリンの足を縫い付ける。油の注されていないブリキの人形の様に、ぎこちない動きでヴィオレットの隣に座り込んだ。見開かれた目は驚愕と、背後から迫る何かへの恐怖で青白く染まっていた。

 クッションを握り締める指に手を添えて、何とかヴィオレットを宥めようとしているが、本当はマリン自身が波立つ心を宥めたかったのかもしれない。岩が落ちて来た水面の様に、いくつもの飛沫が音を立てる。何度も何度も、警告の様に。


「笑っていたわ。綺麗な顔で、可愛い表情で、優しい声だった。色んな人が思い浮かべる、お母さんそのものだったの。痛い事もされてないし、酷い事も言われていない。ただ、心配してるって、言われただけなの……それだけ、なのに」


 マリンがあまりにも酷い顔をしていたからか、出来るだけ穏やかで剣の無い声色を意識した。そうしないと取り乱して、文脈の整理もなく、箇条書きを投げつけるみたいな事をしてしまいそうだったから。

 でも言葉にしたら、余計に混乱して意味が分からなかった。笑っている、含みを持たせる事もなく、声の端々に隠された凶器だって見つからず、真実ただ心配しに来ただけの人。どこにも恐れる必要のない相手に、この心臓は息を潜めて死んだふりをした。頭から丸のみにされて、咀嚼もされずにゆっくりと融かされるんじゃないかって。蛙にとっての蛇とか、魚にとってのペリカンとか、そういうものを目の前にしている恐怖。空っぽの胃が、よく分からない不快感で膨らんでいく。


 思い出した光景に飲み込まれない様に、ぎゅっと目を閉ざしたヴィオレットに、マリンは朝の事を思い出していた。

 言い知れない恐怖、気が付いたら背後にくっ付いているかのような、不気味さ。それが今ヴィオレットが感じている物と同等のそれかは分からないが、エレファに対して得体の知れない感情が噴き出したのは確かだ。


「……ヴィオレット様」


「…………」


 ゆっくりと顔を上げて、マリンを見る目は頼りなく揺れている。顔色が悪いのも、体調より精神的な要因が大きいだろう。そんな人に、これから自分の言う言葉は、慰めなんて優しいものではない。むしろその逆、傷口を広げかねないものだと、理解した上で。


「奥様には、お気を付けください」


 言わねばならないと思った。それが例え、マリンの不安が見せた幻覚であったとしても。根拠なんてまるでない、杞憂であったとして。胸に巣食うこの全てが、今のマリンの現実だから。


「分かりません、私にも、何も分からない。でも……、でも、ッ」


 霧ががかった森では、岩が熊に見える事だってある。恐怖に駆られた人間が、足元の罠に気付かない事だって。正常でない脳は、いつだって目に見えない何かを作り出す。まるでそれが、実体を持つ何かの様に、錯覚させる。


「こんな事、言ってはいけない事だと分かっています。いたずらに、ヴィオレット様を不安にさせるもので、証拠なんてない、私の思い過ごしかもしれません。先入観のせいで目が曇っているのかもしれない……でも」


 ──あの人は怖い。あの人は、何かが、怖いのだ。


「お願いです、どうか気を付けて、おねがい、お願いします」


 何も求めないから、今更、改心も反省もいらないから、どうか放っておいて。

 誰も、何も、この人を脅かさないで。 


「おねがいだから、きずつけないで」


 この世の何より、どんな痛みよりどんな不幸より。

 この弱く脆い人が、笑えなくなる事が恐ろしい。

 

「……マリン」


 肩に縋り付くマリンの腕と、俯いた旋毛が小刻みに震えている。クッションを握り締めていた手で、ゆっくりとその背を撫でた。いつもとは逆、まるで子供がお化けを恐れている時の様に、二人で身を寄せ合って体温を感じあった。安心をくれるはずの人の温もりに手を伸ばして、ただずっと、『何か分からない怖い物』から隠れる様に。

 

 全部、疑心が見せた影であれば良いと、在りもしない神に願いながら。

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