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125.覗かれた深淵に選択肢はない


 この人は誰だろう──そんな、素っ頓狂な事を思ってしまった。顔も名前も知っているのに、話した事はほとんどなくとも、自分の母に当たる人なのに。

 そう思ってしまうくらい、その人は、見た事もないほど綺麗な笑みで立っていた。


「突然ごめんなさい。最近ずっと食事の席に来ないから、心配になってしまって」


「そう、ですか……申し訳ありません」


 同じ事を、彼女の娘もよく口にする。体調が悪いのかとか、忙しいのかとか……心配だと、言葉でも態度でも伝えて来る。それを適当相槌でかわしながら、自分の安息を優先してきた。メアリージュンに心配を掛けた事への小言は受けるけれど、父も誰も、ヴィオレットの出席率なんて内心はどうだっていいのだから。こちらが譲る事もないだろう、と。無理な我慢は精神にも体調にもよろしくはない。

 エレファは、父の側だと思っていた。いや、父以上にヴィオレットを透明人間だと思っているとさえ考えていた。ヴィオレットに対して、悪感情も見せない代わりに、興味もないのだと。父の様に恨み辛みをぶつけてくる事もなく、大袈裟ではなくそこにいる事すら認識していないのでは、という反応の無さで。

 嫋やかに微笑んでいる、小さくて弱くて、多くの人が守りたいと思う聖母の様な女性。

 さしずめ父は聖母に救われた信徒で、二人から生まれたメアリージュンは天使と言った所か。父はこの母子を世界の中心と定めて疑わないし、メアリージュンはその愛情を一心に受けていつでも自由に翔けている。この人はそんな二人をただ笑って、包み込んでいる人だと、思っていたのに。


「勉強も大切だけれど、お休みもしないとダメよ? 本番までに倒れてしまっては大変」


「そう、ですね。気を付けます」


 メアリージュンのそれは、真綿を押し付けられる様な息苦しさだった。善意と優しさで出来た柔らかい何かで、ゆっくりと呼吸を制限されていく様な、苦しさ。それでもそこに悪意がないのは理解出来て、だからこそ、辛くて痛くて泣きたくなる物。

 今感じるのは、まるで針金を巻き付けられた様な軋み。縄の様な食い込みはなく、体のラインに添う様に形を変えてはいるけれど、関節の動きを封じられて、身動きがとり辛い。硬質な痛み、冷たさ、それ以上に、じわりじわりと侵食する得体の知れない何かが恐ろしい。

 メアリージュンとよく似た笑顔、声、言葉。なのに、何も感じない。

 罪悪感を抱いてしまう様な柔らかさとか甘さとか、嫉妬に狂いそうになる幸福感とか、逃げ出したくなる眩しさとか。善性が滲み出た傲慢も偏見も、潔白すぎる優しさも、何一つ。


 その笑顔には、何もなかった。ただただ、こちらの何かを圧迫する、目に見えない何かが肺を押し潰して来る。

 

「今日はもう準備が終わってしまったみたいだけれど、明日からは少しくらい顔を出してね? 無理をしていないか気になってしまうもの」


「はい……そうします」


 早々に会話を終えたくて、端的な受け答えで俯いた。万人が愛らしいとする笑顔が、背筋をゆっくり這う感覚が悍ましくて。今すぐにでも、この人の目の前から消えたくて。


「急に来てごめんなさいね。それじゃあ、失礼します」


「は、はい。ありがとうございました」


 明日からは、少し自室で食事を減らさなければならない。それが少し苦ではあったけれど、父のいない分小言はない。メアリージュンの話に相槌を打つだけであれば、攻撃されないだけまだマシだろうと自分を納得させた。

 去ろうとするエレファの背に、肩の力が自然と抜ける。何がそんなに怖いのかと聞かれても分からないけれど、強いて言うなら未知が恐ろしかった、といったと所だろうか。笑顔で握手をしている逆の手に、凶器を忍ばせている『かもしれない』という、杞憂で終わるはずの不安。でもその不安で心が満ちてしまえば、空っぽの手にも拳銃が見えたりする。


「──あぁ、そうだ」


「ッ……!」


「美味しいお菓子を頂いたの。明日、一緒に食べましょう。甘い物がお好きなのよね?」


「それ、は……そうです、けど」


「楽しみにしているわね」


「ぁ……」


 子供の様な無邪気さで、にっこりと笑った。会話ではなく、一方的な言葉の雨で、ヴィオレットをずぶ濡れにして。

 水を吸った衣類の様に、体中が重い。肩が痛い、関節が痛い、そして何より、呼吸をする度に肺が潰れる様に痛い。見えなくなった影が、いつまでも纏わりついて離れない。震える手で何とか扉は閉めたけれど、その手の平はべったりと汗で湿っていた。

 知らない事が恐ろしいなら、知ってしまえばいいのかもしれない。どんな物も、理解が及べば対応出来るのかもしれない。無知であるのは愚かだ、恥なのだろうけれど。


 知らない事よりも、知らなかった頃に戻れない方が恐ろしいのだと──心の奥で誰かが叫んだ様な気がしていた。

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