122.ジャスミンが咲いている
一日に食事は三回。学園で取るお昼は除外するにしても、一日に二回は団欒の席に着かなければならない計算となる。欠席するにしても下手な理由付けで心配を掛けたとなれば、素直に出席していた方がマシな事態になりかねない。協調の意味をはき違えた者の強要ほど質が悪い物はないのだから。
何にしても、ヴィオレットにとって一日に二度ある食事の席は、電気椅子に近い物だった。誰の気まぐれでスイッチが押され、処刑が開始されるか分からない。
たった一週間、それでも解放されたという事実は、思っていたよりもずっとずっと清々しかった。
「ヴィオレット様、まだお時間がありますし、折角ですから何かアレンジでもしてみましょうか」
「え?」
自室にて朝食を取り、登校時間までの時間をのんびり過ごしていた時。いつの間に持っていたのか、両手にブラシと髪飾りを手にしたマリンがソファの傍に立っていた。さっきまで扉の傍で片付けをしていた様に見えたのだが、時折マリンの行動力と速度が人並み外れている様に思えるのは気のせいだろうか。
「いつものでも素敵な事に変わりはありませんが、この機会に色々試すのも良いのではないかと」
「それは、確かに良いかもしれないけれど……マリンはいつの間にそんな技術を習得していたの?」
「手先の器用さには自信がありまして」
出会った頃から、マリンの髪がショートカットから変わった事はない。長いと仕事の邪魔だから、なんて言って伸ばした事はなく、定期的に自分で伸びた分を切っているらしい。ヴィオレットに対しての献身とは打って変わって、自分の事には無頓着というか興味がないのだとか。求めるのは清潔さ一点だと言い切っている。
もっと自分に時間もお金も掛けた方が良いのではないかと提案したら、「好きな物と、自分でしたい事はまた別なんです」と言って楽しそうにヴィオレットを磨き上げていた。本人が望んでいるなら、ヴィオレットが言う事は何もないのだけれど。
「痛かったら言ってくださいね」
触れる手は迷いなく、完成形を思い描いた上での行動であるのが伺える。道具の用意と良い、言い出さなかっただけで準備は万端だったのだろう。立っているだけで目立ってしまうから、飾るのを遠ざけているのだと、知っていて。鼻歌まで歌い出しそうな上機嫌は、冷静さを崩さないマリンにしては珍しい。それくらいに、嬉しいと思ってくれているなら、その心がヴィオレットにとっては嬉しい。
「……はい、出来ました」
「ありがとう」
手慣れているな、と思ったのは手際の良さゆえだが、実際は手慣れているからとか器用だからではなく、自分の為に頑張ってくれたのだと分かっている。梳かすだけでヘアピン一つ使おうとしないマリンが、こんな可愛いバレッタを持っていた事だって、同じ理由なのだろう。
崩れない程度に編まれた髪をなぞった。首筋がいつになく涼しくて違和感があるけれど、顔周りがすっきりとして楽だった。
渡された手鏡で後ろを確認すると、編みこまれた髪が青い鼈甲のバレッタで綺麗にまとめられたお団子になっていた。正面から見ると、左右の編みこみ部分しか見えない。いつもなら顔周りに散らばっている灰色がなくて、視界には少しの前髪だけが残っている。
「凄い……凄く素敵ね、綺麗だしとても楽だわ」
「良かった。まとめ髪は沢山覚えましたので、明日は別のを披露出来ますよ」
「それは楽しみね」
髪が伸びたのは、幼少期からの恐怖心が原因だ。母の目の前で、理容師に切り落とされる髪を見る度、自分が切り捨てられていく様な気がして。散らばる髪の一本一本が、ヴィオレットの死体なんじゃないかって。神経の通っていないはずの髪に鋏が触れる度、自我も一緒に削がれる様な痛みを感じていた。だから今でも髪を切るのは苦手だ。
可哀想な、私の一部。痛い痛いと声を上げるのにさえ疲れてしまったこの子達を、優しい手で撫でて、労わってくれる人がいる。それだけで、無意味に時を伸ばしてただけの日々にも意味があった様に思える。
「そろそろ出るわ。残してしまってごめんなさい」
「料理長が多く作り過ぎただけなので、大丈夫ですよ」
テーブルにはまだ手の付けられていないお茶請けがいくつか残っているが、元々食べ切れる想定でない事は明白な量だ。朝食の後だから少なくして欲しいと進言はしているが、シスイはヴィオレットの好物を作るのに夢中になってしまう節がある。食べかけでもない限りはそのままマリンのおやつになるので、ヴィオレットが気にするほど無駄にはなっていないはずだ。
「それでは、行ってきます」
「お気を付けて、行ってらっしゃいませ」
玄関先まで見送りに来てくれたマリンに手を振って、送りの車に乗り込んだ。走り出した振動に身を任せながら、鞄から手鏡を取り出す。手の平サイズの円盤に移る、いつもと少しだけ違う自分にくすぐったい気持ちになりながら、小さな期待が胸に広がるのを感じていた。
(ユランは、なんて言うかしら)
少しでも、話す事が出来たら──似合っていると、笑ってくれたりしないかな、なんて。
× × × ×
ヴィオレットを乗せた車の影が遠ざかるのを眺めながら、マリンはさっきの事を思い出していた。ずっとずっとしてあげたいと願っていた事を、漸く叶える事が出来た喜びを。
こうやって少しずつ、ヴィオレットが自分の価値を取り戻してくれればいい。自分を好きになるのは、まだまだ難しいのかもしれないけれど。嫌いじゃない部分が増えて、いつの日か、『好きになれる自分像』を思い描ける様になればいいと。その手伝いならいくらだって出来るから。
(明日はどうしよう……今日は初めてだからシンプルめにしたけど、大きなリボンとかも絶対似合うし。あんまり高い位置にすると重さで痛くなってしまうかな)
脳内では、様々な髪形をしたヴィオレットが笑っている。そのどれもが可愛いし綺麗だし素晴らしいのだけれど、本人の希望もあるし、優先すべきは見た目ではない。お洒落には我慢も必要だろうが、何に天秤が傾くかは人それぞれだ。ヴィオレットにとって苦しかったり痛かったりするのは、マリンの信条に反してしまう。
(一度部屋に戻ってから……ッ)
仕事に戻ろうと、踵を返して玄関をくぐろうと思った、時。
音もなく、気配もなく、その人は立っていた。
「奥、様」
「お見送りは終わったの?」
「はい。これから仕事に戻ります」
「そう……頑張ってね」
にこやかに笑う、少女の様な女性。メアリージュンが成長したらこうなるだろうと、簡単に想像出来るくらい、顔だけでなく纏う空気感までもが母子でよく似ていた。誰もが慈愛と癒しを連想する、柔らかな包容力と寛容さ。おっとりとした笑みに穢れなどなく、誰も嫌わず、嫌われずに生きて来たのではないかと錯覚しそうになる様な、愛らしい人。
間違っても暴力など振るえず、同性にすら簡単に組み敷かれそうな、華奢でか弱い存在に、見えるのに。
(な、に……今のは)
ゆったりとした歩調で、マリンから離れていく背中が扉の向こうに消えるまで、動く事が出来なかった。暑くもないのに、背中と額に汗が滲む。指先が震えている事に気が付いて、両手を擦り合わせる様に握り絞めた。ドッドッと耳の奥で鳴り続ける心臓の音が、恐怖を煽り立てる様で。
──怖い? 何が?
一体自分は、何が怖かったというのか。危害を加えられた事もなければ、罵倒された事もない。いつだって物静かにオールドの隣で微笑んでいるだけの人に。
嫌いであるのは間違いないし、何なら憎み恨みを募らせる事はあるだろうけど、恐怖を抱く様な相手ではないはずだろう。
「ッ……!」
何度も何度も首を振って、芽生えた感情を振り払う。気の迷い、気のせい、思い違い。全部ただの勘違いだと、深呼吸一つで植え付けて、思考を仕事へと切り替える。
掃除に洗濯にと走り回って、忙しなく動き回る内に、震えも心臓の音も治まっていったけれど。
腹の底に溜まった重く冷たい不安だけは、いつまでも残ったままだった。




