121.一つ減った
降り積もる物がある。ゆっくりと、少しづつ、沈殿していく物がある。それは軽くて、積もっている事にすら気が付かないくらいに小さくて。物置に積もった埃みたいに、大した事はないと、つい気付かないふりをしてしまう。
少しずつ、少しずつ、でも確実に重なっていって、その重みに耐えきれなくなった時になってから漸く、気付くのだ。
気付いていないのではなく、気付きたくなかっただけなのだと。
× × × ×
それは、テストが近付いて、勉強を口実に夕食の席をよく休む様になった頃。
「え、明日からあの人いないの?」
「はい。何でも先代様に呼ばれたそうで」
「お祖父様が?」
ヴァーハン家の先代当主、つまりはヴィオレットの祖父であり、ベルローズの実父でオールドの義父だ。今は領地の奥深くに屋敷を構えて隠居生活をしているが、王からの信頼も厚く未だに多くの権限と力を持っている。世代交代をした後であっても、逆らう事は許されないくらいに。
ヴィオレットと名付けたのも彼だと聞いているが、実の所、ほとんど記憶にないくらいに遠い人だった。母の葬儀の時に顔を見た、程度の人。名前を貰ったと言っても、あの母がきちんと名付けられるとは思えないので、代理の様な形だったのかもしれない。正直、あまり関わりたくないのが本音だ。話した記憶もない相手にこういった印象を持つのもどうかと思うが、今も昔もこの家の内情をある程度察しているはずなのに音沙汰もなく、実の娘が亡くなった時も後も形式と義務だけで終えてしまう人なのだから。
ただ嫌いとか、恨み辛みを抱くとかでもなく。むしろ存在を忘れていたレベルで関心がない。
それは向こうも同じだと思っていたのだけれど。
「珍しい事もあるのね。お祖父様があの人に連絡を取るなんて……私が知らないだけで、別宅に住んでる時もよくあった事なのかしら」
「そうではなさそうです。ご本人もとても驚いていたそうですから」
「忙しいのね。マリンはいいの?」
「ヴィオレット様の専属の私には関係のない話ですよ」
鏡越しに梳かされた髪が編まれるのを眺める。祖父からの連絡には驚いたが、父の不在に関してはラッキーくらいの感想しかなかった。生まれてから今まで、一緒に住んでた期間の方が圧倒的に短い相手。いる事に違和感を覚える事はあっても、いない事に戸惑う事はない。
「一週間ほど時間を取られたそうなので、その間の食事はお部屋にお持ち致しますね」
「随分長いのね。お屋敷が遠いのは聞いていたけれど」
祖父の隠居先までは片道、十時間以上かかる。交通手段さえ選ばなければ一日で行って帰っては来られるが、生まれも育ちも大人になっても貴族の世界で生きて来た父に、そんな旅路が耐えられるはずはない。それを加味すればある程度の余裕は必要だろう。暫く屋敷の中が忙しないと思っていたけれど、仕事のスケジュール調整や護衛の手配に勤しんでいたらしい。
「行くのは一人?」
「メアリージュン様は学園がありますし、奥様は残られるそうです。長旅になってしまいますし、楽しい旅行ではありませんから」
「あの人、お祖父様だけは苦手だものね」
それは不倫や妾腹、ベルローズの死が抱かせる物だろうが、一番は、そのどちらに対しても『何も言わない』という態度が恐ろしいのだと思う。いっそ罵詈雑言でも浴びせられたら、同じだけ返してやれるのに、と。あの二人が今更何を話そうというのか、想像する材料は豊富なのにそのどれもがしっくり来なかった。
「……まぁでも、少しの間はのんびり出来るのね」
「はい。テスト期間でなければ、もっとぐうたらして頂けたんですけど」
「悩みの種が遠ざかったおかげで勉強が捗るわ」
といっても、放課後をロゼットと過ごしているので家でする事はそんなに多くはないのだけれど。家に帰る足取りがほんの少しだけ軽くなったのは事実だ。どうして帰って来てくれないのかと、父親に救いを期待していた幼いヴィオレットはもういないのだから。いるだけ重荷にしかならないので、本当は一週間といわずいつまでだって滞在すればいいのにと思う。
「それでは、お休みなさいませ」
「えぇ、お休み」
ベッドに入って、いつになく穏やかな微笑みで睡眠を促したマリンに、同じ様な気持ちでゆっくりと目を閉じた。
一週間というつかの間の安寧に、期待を抱きながら。




