115.ジレンマ
ユランの眉間にシワが寄って、すぐに引き伸ばされる。三秒で機嫌が最下層まで落ちたのに、外面は笑顔の仮面というバランス感覚は流石だと思う。
ギアにとっては面白いで済む相手だが、ユランにとっては害虫と同レベルで嫌悪する対象だろう。反対にユランを訪ねて来たお客様──メアリージュンは、小花が散りそうな笑顔でんほほんとしている。それを可愛いと取るか鬱陶しいと取るかは個人の感覚の差だろうが、多くの人は可愛いと思うのだろう。残念な事にユランは少数派であり、ギアに関しては感想を抱く対象ですらないのだが。
舌打ちしたい気持ちをグッと抑えて、重い腰を上げたユランを、役目を終えた気でいるらしいギアが緩やかに手を振って見送る。ここで無理矢理巻き込んでやるのも考えたが、それはそれで更なるストレスの予感しかしない。
「何か、用かな?」
努めて冷静に、嫌悪が噴き出さないよ様に気を付けて。口元さえ作れれば脳内が花弁で埋め尽くされている少女は、勝手にご機嫌だと錯覚してくれる。友好的と勘違いされて悪循環を生む事もあり得るけれど、メアリージュンの、ひいては彼女の父親の機嫌を損ねたくない。
時折思う。目の前の少女も、その父も母も、全部纏めて吹き飛ばせたらどれほどに晴やかだろうかと。
「突然ごめんね。実はユラン君にお願いがあって……」
ほんの少しの申し訳なさを微苦笑に乗せて、それでも自分の意見を伝える意思の強さが。目の前にいる男の脳内で、自分の四肢が散る想像がされているなんて、微塵も思い描けない所が、大嫌いだ。
特に返答はせず、ただ笑顔にカテゴライズされた表情を適当に選択しているだけ。それでも勝手に話を進める辺り、笑顔と頷きをイコールしているのがよく分かる。愛想笑いや社交辞令が通じないのは、素直である証なのか愚か者の証明なのか。どちらでも、いいけれど。
「もうすぐテストでしょう? ユラン君、いつも凄く成績良いし、よかったら一緒に勉強出来ないかな」
「は?」
思わず、何にも包まれていない声が出た。怪訝な色合いを薄められなかった事には焦りを覚えたけれど、メアリージュンはそういった事にとことん鈍く出来ているらしい。ユランの声も表情も、ただの疑問として消化したらしかった。
「ここのテストのやり方は、もう分かってるわ。お姉様に頼もうとも思ったのだけど、ユラン君はなら同学年だし、一緒に出来るかなって」
笑顔の天使が、逃げ場を奪っていく。メアリージュンの口からヴィオレットの名が出る、それがどれだけ恐ろしい事か。
彼女が言っている事……過去の問題紙はすでにユランの元に来る事が決まっている。メアリージュンが今更頼んだ所でそれが覆る事はないし、ヴィオレットは先に約束をしているユランを優先するだろう。分かっているからこそ、回避したいのだから。
(めんどくせぇ……)
最近になって目的達成の兆しが見えて来て、いくつもの対策や切り札の目処も立った。ようやく寝不足が解消されるかと思ったというのに。
ヴィオレットの為に、その幸せの為に策を練り行動する事に苦を感じる事はない。睡眠時間がどれだけ溶けて消えようと、彼女にはそれだけの価値があるのだから。
ただそれは相手がヴィオレットだからであって、他の者に適応されるかと問われれ場否である。それがメアリージュンであれば尚の事、一分一秒とて消費したくない。今この時間ですら苦痛であるというのに、それをテストが終わるまで定期的にとなれば、懇切丁寧に拒絶申し上げたい所だ。
ただ、それをするにはあまりにも悪条件が揃い過ぎている。
「そうだね……考えておくよ」
頭上で暗雲を作っているユランとは裏腹に、メアリージュンは満足気に去って行った。言質が取れた事で満足した、なんて考え方はしないだろうが、つまりはそういう事だろう。
どちらに進んでも好転する事の無い選択肢というのは、往々にして存在する。その度に力の無さを嘆き、少しでも被害の少ない方で妥協し、屈辱に耐えるしかない。
(一応、ヴィオちゃんには言っておかないと)
もしメアリージュンが家で、あの父の前で余計な事を口走った時、何も知らなければユランを慮って傷付いてしまうかもしれない。以前の様にヴィオレットも含めての勉強会も手ではあるが、出来るならヴィオレットとメアリージュンを関わらせたくない。クローディア達に関しては、ユランの地獄度が増すだけなのであまり取りたい選択肢ではない。
痛む頭を押さえ、これから虫食われるスケジュールの再調整に思いを馳せた。




