静かに巡った物語が一つ、
あぁ、頭が痛い。
「アルト」
目の前の長男の名を呼ぶ声が低く、重くなるのは必然でした。
「もう決めたんだ。大丈夫だよ、グレン兄も一緒なんだし。伯父さんも、フォスター小父さんも助けてくれるって言ってくれたもん」
迷いの無い目で、迷いの無い声で、アルトははっきりと宣言する。
母親の反対など何処吹く風。これも成長かと喜びを思える一方で、後押しをしているという兄やセンシル様への恨み言が胸の奥底に芽吹いていく。
二年前に出ていったグレンと同じ選択。
彼は良くて、自分が駄目な理由は無いよね。そんな風に言われてしまえば、強く反対も出来ない。
こんな事なら、グレンの時もしっかりと反対すれば良かったなんて、今更な後悔が浮かびます。
実の父親である兄と共に決めたことなら、と母親代わり、叔母なのだからと一歩下がったりするのではなかった。
「大丈夫だよ、母さん」
あぁ、頭が痛い。
「母さんや、エリナとイストを悲しませるような真似は絶対にしないから。長い休みには絶対に帰ってくるし」
苦労ばかりかけていたのは分かってる。でも、ここまでしっかりとしてくれなくても良かったのに。
「僕は王立学園に行くよ」
「アルト…もぅ、決めてしまったの?」
「うん。これが僕の今やりたいことで、役に立てることだから」
キリキリと胸が締め付けられるように、痛い。
この地に根を下ろして、もうすぐ七年の月日が経つ。
長いようで、短い日々。
けれど、 初めての経験が溢れたこの月日は、私には確かに長く、険しく、そして喜びと楽しさに溢れたものでした。
あの頃には私がする必要も無かった重い物を持ったり、真冬に冷たい水で家事をしたり。侍女に囲まれて手入れを欠かさなかった手先には皹が出来たことも、傷が目立つ爪も、あの頃には考えられない事だったと、今では笑い話に出来てしまう。
何より、月日の長さを感じさせるのは、やはり子供達のこと。
グレンは十四歳、アルトがもうすぐ十二歳、エリナ十歳。
三人ともすっかりと町の子供として馴染み、エリナに至っては同年の子供達の中でリーダー格にあるとか。茶化すようにアルトがエリナのことを女王様だと笑った後の、手も足も出る大喧嘩を見る限りは、一体誰に似たのだろうと思わずにはいられなかった。
生まれより育ち。悪い意味で使われている言葉だけど、そんな言葉が頭を過り、それでもエリナの生き生きとした元気一杯の姿を毎日見れることを思えば、良いことだとしか思えない。
それにエリナも、そして妹をからかえる程には大人しくないアルトだって、根は優しくてしっかりとした子だもの。
私が仕事をしている間、遊びに行くのも我慢して、弟妹の世話をしてくれていた。最近では邪魔だろうに、ちゃんと自分が遊びに行く時に手を繋いで、一緒に連れていっている。
遊びに夢中になって放ったらかしにしていないと、良い子だね、しっかりとした子だ、とそれを見た様々な人から親の私まで誉めてもらう事がとても誇らしい。
慣れない生活に慌ただしく月日が過ぎていき、九ヶ月程が経った頃に生まれた息子のイスト。
月日や身に覚えからしても、間違いなくタリウ様と私の子でした。
あの方のことは忘れよう、そう思っていた中で発覚した妊娠。
よくぞ、あの慌ただしさと環境の変化の中で流れることなく、無事に大きくなっていてくれたと感動さえ覚えました。
まだまだ慣れぬことも多く、ただでさえ忙しない日々を送って疲れの見えていた私の事を案じて、降ろした方がいい、と仰って下さる方も居たけれど、折角の命、渋い顔をしながらも好きにしろと言ってくれた兄や、今まで以上に手伝いを頑張ると言ってくれたアルトにエリナ、グレンの笑顔に、産もうと決意出来ました。
可笑しな事に、アルトとエリナという二人の子供が居る癖に私にとっては初めての子育て。
あやすのも、おしめを変えるのも、乳をやるのも、夜泣きを体験するのも、何もかもが初めてで。
呆れずに助言をくれた、時には手も貸してくれた皆さんには本当に感謝の思いしか生まれません。
あの日々を思えば、子供達の成長と自立はより素晴らしいと感じられます。
だから、三人から「こんな事がしたい」「将来、あぁなりたい」なんて、意気揚々に語られれば、叶えてやりたい、自分の思い通りに頑張ってみなさいと背中を押してあげたくなる。
でも、これは別。
家を離れ、王都に在る王立学園に入るなんて、そんな事をあっさりと許してしまえる訳などない。
あれから七年。
王都はまだ、不安定な状態だと聞きます。
お兄様もセンシル様もあまり声高に、少なくともこの家、私の耳に入るところでは口に出すことはありませんでしたが、事はたかが貴族の争いという醜聞を越えて、これからの生活に関わるという民達にも重要な死活問題にまで及ぶもの。何より、此処には他国からも腕に自信のある傭兵や、一旗揚げようという者達が集まってくる。そんな人達が小さなものから、大きなものも、各地で起こり鎮圧されていった小競り合いの話や、知られる前に消されていった噂話をもたらしてくれる。
勢力争いに負け、北大公派におされて不遇の浮き世を見た貴族の一部が起こした反乱。
北大公とエリノアによる王家という主君を剰りにも馬鹿にした所業の数々に義憤に駆られ、そして不平不満を溜め込んだ、忠義に溢れる貴族達。
国内の不和に乗じて領土を増そうという、東に南。
遠縁の小父が当主となった西大公領では、纏まりきらないその隙を良いことに海賊などが猛威を奮っていると耳にした。
七年の内にこの南の辺境伯領でも何度となく、リデッラとの戦いがあった。正規の兵も傭兵たちも怪我をしていない人が一人もいない、センシル様やお兄様も大きくはないとはいえ怪我を負って帰ってくる。それでも、長く此処に住んでいる人達に言わせると、今までとそう被害などに変わったところの無い状況ではある、とか。
それでも、私には何時までも慣れることのない光景で。
軍人一門の当主の妻、軍人の妻だなんて名ばかり。あの、王都の屋敷で自分が何れだけ、目を覆い隠させて貰っていたかを突きつけられるばかりでした。
そんな光景が、いえ戦いに慣れているこの辺境伯領以外では、もしかしたら、もっと酷い被害が出ているのかも。
まだ、一年目、二年目よりもマシだと思えるのは、北の纏まりが欠けていることかしら。
二年目には北大公が急病で亡くなり、五年経った二年前には王妃が亡くなったとセンシル様も葬儀に列席された。
それからは、まるで人が変わったのではと言われる程、王太子の伝え聞く話の全てがひっくり返った。
まるで長年準備を整えていたかのような手際の良さで北の意向を反映した人事を一新、不遇の目を見ていた貴族達、学園を卒業した才のある平民達の積極的な登用。
王太子妃となったカガリという、エリノアの王弟の娘という少女も人が変わったかのように、王妃の後をしっかりと努め、社交界を取り仕切っていると。
北大公や王妃が存命である内よりは安心出来るとはいえ、変わり始めてからまだ二年も経っていない。変革の混乱にある王都の、貴族などの影響や余波が大きく寄り掛かる王立学園に入り、安全安心なんて保証はない。
何より、
「あの人が気づいたら、とか考えてるのなら、それこそ大丈夫だよ」
えっ?
考え込んで伏せていた視線をあげれば、父親よりも、母親よりも、何だか兄やセンシル様に似てきたのではないかという、にっこりと意地の悪い笑顔を浮かべた息子の顔。
「ちゃんと、フォスター小父さんにそれらしい経歴を作って貰って、偽名で通うし。何より、探そうともせずに、七年も放ったらかしにしてた子供なんて覚えてもないよ。学園に入れば、貴族の情報とかも集まるよ?それは、フォスター小父さんの役に立てることでしょう?」
平民の子供がその才覚を認められて王立学園に入学するには、暮らしている領地を治める貴族による推薦と後見が必要になる。
それを行う辺境伯自らが、受けの良い様にそれらを作ってしまえるのだから、アルトは西大公家ともザルス家とも一切関わり無い子にしてしまえるでしょう。
それに、アルトの言う通り。何度かセンシル様やお兄様-信じられないことに、仕事だから、任されたから、俺に一番適任だから、という理由に託けてあの兄は、髪の色を変え、服や口調、作り上げた別人格のような性格で王都に出向き、そして呆気らかんに帰ってくる。そんな事を二度、三度ともいえない回数行っているのです-が王都に足を踏み入れた際にも耳を凝らしてはみたものの、タリウ様が気にかけて下さっているという話さえ聞かなかったと仰っていた。七年。家を継ぐ身です。きっと、すでに後妻を迎え、後継となる子も生まれていることだと思います。アルトに拘る必要は無いのでしょう。
「…考えさせて」
王立学園への入学が行われる時期まで、後半年はある。
苦し紛れでしかないかも知れないけれど、今はただ、そうとしか口からは出ない。
「うん。でも、僕の決意は変わらないからね」
えぇ。曇り一つない笑顔で言い切るアルトの顔からも、それはよく分かる。
そして、半年という月日はとても早く、めまぐるしく過ぎ去ってしまって。
「アルト。準備はちゃんと終わったの?」
忘れ物はない、と聞けば「大丈夫、大丈夫」という気楽な声が返ってくる。
元々、兄やセンシル様、この辺境領で主だった人々を完全に味方につけているアルトの決意を、反対し止めさせることなんて出来るわけもなく。
学園の長期休暇を利用して戻ったグレンにまで、自分が出来るだけ助けるから、大丈夫だから、俺一人より心強いから、と頼まれしまっては心はグラグラと揺さぶられ。
半年という時間の中で、外堀を完全に埋め尽くされた私が身動き一つ取れなくなっている間に、アルトは準備を完全に整えてしまった。
今の確認の問い掛けは、私の最後の悪あがき。
と言っても心配が無い訳ではない。
この半年で多くのことが変わり始めてしまった。
泣いて泣いて、驚いて、苦しくて、泣いて。
そのせいで、今、日々の掃除を欠かさなかった家の中は慌しく散らかって見える。
この散らかりようの中では、明日旅立つアルトの荷物が紛れ込んでしまっていても、仕方無いと思えるのです。
「それと、母さん。僕の名前は、アルス。もう、アルトじゃないからね」
「…一文字しか違わないじゃない。いいわね、貴方達は。そうやって、母さんとか伯父さんって言えばいいのだから」
「拗ねないでよ」
また一つ。タリウ様の影が消えた。あの人が名付けた名前は今や、書類上では最初から居なかったかのように消されていった。七年前から、この地のこの家に住んでいたのは、アルスという子供。
それに伴って、次いでだからと私達全員の名前が、少しずつ違うものになった。
それを告げた時のお兄様とセンシル様は、それはもう、楽しそうな顔をしていました。必要があるとかではなく、あれは絶対に面白がっていただけだと今でも思います。
こちらに来てから生まれたイストの名前はそのままで。
エリナは、エリス。
お兄様はハンスから、ハルト。
ここで初めて教えられた事だったのですが、グレンは王都ではグレースという名を名乗っていると。
えぇ、グレース。
あえて深くは聞きませんでした。だって、聞いてしまったら自分が怒るのかどうなるのかの予想がつかないのですから。確かに女の私から見ても儚げで美しかった義姉に似て、年の頃にしては細身なままとは思うけれど、息子に何をさせているのかと鍋で兄の頭を殴ってしまうかも。
そして、私はセリンサから、セリ。
それだけでいいのか、と思わなくもありませんでしたが、全く違うものになっても反応出来るとは思えないので、安心したのは本当です。
あぁ、本当に疲れた。
半年という月日が、いえ、そのずっと前から、とてもとても長くて短い、考えてもいなかった日々でした。
子供の頃に、こんな日々を少しでも想像したかしら。
西大公家の娘として同年の子女達の模範であれと思っていた日々。軍門ザルス家の当主の妻、女主人、次期当主の母としてしっかりと立たねばと思っていた日々。
それがこの辺境で、皸を作りながら選択に掃除に料理、乳母任せが当たり前だった子育てをして、思いがけず教師なんて役目を頂いて元気な子供達に囲まれる日々。
そして、
こんな事になるなんて、半年前にも分かってはいなかった。
運び出す為に箱詰めされた荷物の数々、まだ終わっていない山を一瞥して、口元が緩んだ。
「母さん、幸せ?」
その表情を目の前の息子にしっかりと見られてしまった事が恥ずかしく、私はその問い掛けの返事を口篭りながら顔を背け、目を閉じた。
作業の途中に一段落して休憩しようと、誕生日に皆からプレゼントされた籐の大きな背もたれのある椅子に座っていた所で、アルトが二階から降りてきて話となった為に、背けた横顔は編み込まれた籐の背もたれに沈むことになった。
「ねぇ、母さん」
いやね、そんな恥ずかしい事をしつこく聞かないでよ。
目を閉じたら、今までの疲れがドッと押し寄せてきた。ここ最近、準備の為に満足な休息は取っていなかったから。そんな言い訳が考えなくても浮かんできて、それを自分に言い聞かせながら、閉じた瞼が重みを増していくのを感じました。
「ちょっと、母さん?」
幸せだったわ。
幸せよ。
だって、普通の貴族の娘が味わうことが無い経験がたくさん出来たのだもの。
こうして子供達がしっかりと成長する姿を、身近に感じ続けることが出来たのだもの。
これ以上の幸せがあるのかしら。
人生とは、面白いものね。
忘れようと思っても、折々に思い出してしまっていたタリウ様。
政略のものだからと口にはしませんでしたが、結婚する前から貴方のことを愛していました。この人と結婚するのだと思っていたから、とばかり自分でも思っていました。ですが、お忙しい仕事の為に中々帰ってはこない貴方を待つ日々、知識としては知っていても経験の無かった軍門の妻として至らぬことが多く、辛く悲しく挫けそうになった日々、それらの事よりも貴方との暮らしの嬉しかった事、楽しかった事、貴方の姿を思い浮かべることが出来るのは、そこに愛情があったからなのだと私は思うのです。
でも、それももう終わり。
何度も何度も繰り返した宣言も、今度こそは本当にする。
だって、私は。
駄目ね。
本当に眠いわ。
瞼が瞑っているというのに重くて重くて、瞼越しに透け通ってくる明暗も遠ざかっていく。
呼びかけてくるアルト、いえアルスの声も段々と遠くなっていく。
少しだけ。少しだけ、眠ってもいいわよね。
忙しいのは分かっているから、明日はもっと忙しくなると分かっているから。
少しだけ、今は眠らせて欲しい。
「セリ、セリンサ!!」
嫌だわ。
眠りたいのに、あの人の声が聞こえる。
此処にある筈の無い、あの人の声。
どうしていらっしゃったの、と叱らないと。
でも、駄目ね。
目覚めないといけないのに、重たく下がった瞼に、力が完全に抜けた全身が言う事を聞いてはくれない。
「セリ?」
「セリンサ?」
「お母さん、お父さんが来たよ?」
「母さん?」
「ママ?」
ふふふ。
私の大好きな、大切な家族の声でも、私のこの眠りを妨げることは出来ないみたい。
文句や話は起きたら聞いてあげるから。
今は少しだけ、眠らせて?
おやすみなさい。
悪役令嬢の姉、『セリンサ・クルーダ』から始まり『セリンサ・ザルス』、そして只の『セリンサ』となった女性の物語としての本編はここで終わりとなります。
この先はまた別の人間による物語の中にて。
よろしければ、このままお付き合い頂ければ嬉しく思います。