歩み出した生活は大変、でも喜びがある。
「すまない、少しいいか?」
ギギッという少し立て付けの悪い音を出す玄関の扉の開く音と共に、センシル辺境伯の声が聞こえた。
懐かしい夢に移ろいでいた私の思考が、段々と靄が晴れていくように、目覚めていく。
でも、私が現実の世界へと戻るよりも先に、騒がしい辺境伯の声が耳を打ち、気持ちの良い目覚めを物理的に揺さぶられた。
「セリンサ!?大丈夫か!?」
体調が悪いのか、医者を、何て焦りを隠さない声が近くに聞こえ、ゆっくりとした目覚めを放棄して、慌てて起きなければならなくなってしまった。
「少し休んでいただけです」
起き上がり、そう告げると、あからさまにホッと息をついて安堵した
本当にこの人が、王都にまで様々な戦歴と逸話を轟かせた『南の番人』なのか。二月前に初めてお会いした時には感心と共に「この人が」と思いはした。でも、それからのちょくちょくこの家を訪ねてきては見せる、コロコロを表情を感情豊かに変える様子や、領主だというのに毎晩毎晩、ヘタをすると朝も昼も領民達と席を並べて食堂や酒屋で食事をしている姿を見ると、リデッラとの激しい戦歴を乗り越えた『南の番人』という名が重なりそうにない。
「最近、なんだか眠くて眠くて。まだまだ新しい生活が始まったばかりで戸惑いと失敗が一杯で、そんな暇は無いのに」
あんな啖呵を切ったのに不甲斐ないです。
頑張るなんて言い切った相手が目の前に居るというのに、見せてしまった失態。
落ち込むなと言う方が無理なことです。
「一度、本当に医者に見てもらった方がいいんじゃないか?」
「ただ眠いというだけで?大袈裟だと笑われてしまいます。料理に掃除、生活の中で必要な家事、そしてセンシル様から頂いたお仕事に疲れが出ただけです。もう一月、二月も経てば慣れると思いますので、呆れずに見守ってください」
この地での暮らしが始まったばかりの頃は、お兄様を訪ねてきては顔をお見せになる辺境伯の事は、領主様、辺境伯様と呼んでいたのですが、堅苦しいのはキライだと言われてしまいました。その為、センシル様と姓にてお呼びするようなはしているのだけど、それでも不満のようで私がそう呼ぶ度に顔をしかめる。一瞬のことではあったけれど、今も。
二月の間に随分と友情を築いたというお兄様のように呼び捨てとまではいかないまでも、何時かは慣れて名前をお呼び出来るようにならなくては、なんて思ってしまう一瞬の表情が心苦しい。
「生活環境も何もかもが初めての生活を始めて、まだ二月だ。貴女はよくやっている。それは俺だけでなく、皆も褒めている」
辺境伯の言葉はとても嬉しいものです。これからも頑張ろうという糧となる、温かい言葉。
「嬉しい。ご近所の皆さんに何かと助けて貰ってばかりなんですよ。何かお礼が出来ればいいのですが」
辺境伯が用意して下さった建物に子供達を集めて、始めたばかりの今は簡単な読み書きや算術、ちょっとした常識と呼ばれるものを教えている。少しやんちゃな子も居るけれど、皆、可愛らしく目を輝かせて、真剣な様子で私の拙い授業に耳を傾けてくれる。
近所のお母さん方や、町で買い物中に話しかけてきて下さる方々も、「先生様々だ」と仰って下さるけれど、それらは子供達のおかげなところが大きい。
本当に大丈夫なのか、役に立てているか、と不安は絶えることは無かった。
でも、辺境伯の言葉は嘘がないと思えるから、本当に嬉しい。この方が私に不要な嘘を言う必要は無いことだし、期待に添えていないのなら厳しい言葉を下さると思うもの。
「いや、女達に聞いたが、礼は十分にしているだろう」
「えっ?」
そんなこと、したかしら?
前の生活でお礼と言えば、花や御菓子などだった。けれど、勿論作ったことなど無くて、最近教えて貰いながらクッキーやパイに挑戦してみてはいるけど、決して他人にお渡し出来るレベルには至らない。焦げてしまったり、生焼けだったり、グレンやアルトは食べれるよと言ってくれるけど、まだまだ特訓が必要なものなのは作った本人の私が分かってる。
「刺繍。女達のスカートや小物とかに、随分と華やかで美しい刺繍を行ったのだろ?」
「それは、貴族の子女の嗜みとして、幼い頃から教わっていましたから」
切っ掛けは些細なこと。
慕っていた傭兵の方にデートを申し込まれたのだという少女が、着ていく服が無いと慌てていて。普段着にも使っているという服を小さな刺繍を入れてあげた。少しはイメージが変わるかと思ってしたことだけど、それから時間があったらと色々な人に頼まれるようになった。ただ、それだけのことで。
「あぁいったものは、この地では滅多に見えるものではないからな。皆、生活が優先で華やかな服を買う余裕も、必要もないから」
なんだったら、金を取ってもいいんじゃないか?
そんなことを辺境伯は仰るけれど、所詮は手慰みの技術。しかも、言葉に甘えて時間が出来たらと進めている為、中々頼まれた分を終わらせていくことが出来ない。
それに、食材のお裾分けや子供達の服などを、皆さんが毎日のように下さる。子供達ももう沢山の友達が出来て、おやつなどを貰って帰ってくるし、お兄様も頻繁に飲みに誘われ、時にはお酒の瓶やおつまみを分けて貰って帰ってくる。
家事の仕方に、子供達が喜ぶ料理、長持ちして食事の一品になる漬物の作り方、二月の間なんとかやってこれたのは近所のお母さん達のおかげ。
あんなことがお礼になっているのなら、良かったと胸のつかえが取れます。
「上手くやってるみたいで良かった。いや、此処に来る度に大丈夫そうだとは思ってはいたんだが、……もう誰も貴女が高位貴族の貴婦人だったなんて思わないだろう」
「まぁ、嬉しい」
それは何よりの誉め言葉。
頬が緩みます。
「やっぱり、変わってる。普通の貴族の女は、この家を見て可愛いだの丁度良い大きさだの、すぐに口にはしないし、貴婦人に見えないと言われて嬉しいなんて言わない」
「あら、まだそれを言うのですか?だって、子供達の姿がすぐ近くに見えるのは嬉しいことですし、慣れない家事をするのですから家が大きすぎないのは良いことでしょう?」
二月前。
丁度良い空き家があると、辺境伯自らが案内して下さったのが、この家でした。
辺境伯の屋敷から真っ直ぐに伸びる通りから一本横道に入った所に建つ一軒家。台所と食事をとったり、寛いだりするリビングが一つになっている一階部分。貴族の広く、台所に食堂、リビングは完全に別になっている屋敷を見慣れている私には、そこでまず驚きがありました。でも、家族皆の顔を間近に見ることが出来て、温かな団欒が作れるのだと思えば素晴らしいとさえ感じました。一階にはその他に一部屋あり、そこはお兄様の部屋に。二階には三部屋。一つはグレン。一つはアルト。その二つより広い一部屋に、私とエリナが入ることに。空き家になっていたことで汚れや壊れた箇所も幾つものあり、後日それらを辺境伯の依頼で直しにきて下さった大工のおじいさんが言うには、エリナが大きくなれば真ん中に壁を作って二部屋にすればいい。その時は任せておけ、と教えてくれました。
そもそも、子供と一緒に眠るなんて屋敷では経験が無かった事。エリナや、時にはアルトやグレンまで加わって一つのベットで眠るという経験が楽しくて、エリナ達の成長が楽しみで仕方ないという中で、一抹の寂しさなんてものを今から感じてしまいました。なんとも気の早い、とお兄様には笑われてしまったけれど、近所のお母さん達は皆さん、共感してくれた。
「そういえば、今日は一体どんな御用件なのです?」
兄は兵としての仕事で国境の森沿いにある砦の一つに。
子供達はそれぞれの友達と遊ぶために留守。
私は、子供達への授業は三日に一度休みとしていて、今日は休みの日にあたる。その為、ゆっくりと家事をして、頼まれている刺繍の続きでもと思い、いつの間にか転寝をしていた。
辺境伯が訪ねてくるとしたら兄への用事でしかなく、何時もなら夜が更けてからという事が多い。こんな昼中から来るなんて、何かあったのだろうかと少しだけ不安が生まれました。
「あぁ、さっき言った刺繍のことで、貴女に頼みがあってきたんだ」
「頼み?」
「これなんだが」
辺境伯は床に落ちていた袋を持ち上げ、開いかれた口の中からは衣服が一着出てきました。
黒い軍服、それも儀礼の際に着用する礼装のものであると、兄やタリウ様が時折纏っていたものを思い出し、気づきました。
荒事にはあまり向かない、美しい縁取りや家紋などの刺繍が施されている、装飾の多い実用的ではない、儀礼用の軍部の礼装。
これが私への、どんな頼みに繋がるのか。
気不味い表情で差し出されたそれを手に取り、まじまじと観察すると、それを知ることが出来ました。
辺境伯の大きな体格にあったその服はとても大きく、もしも私が纏えば子供が大人の服を着てみたというような光景になるでしょう。その大きな服を彩っている刺繍の数々が、遠目には分からないかも知れない、という程度に解れていました。もっと見れば、ボタンなども無くなっている場所がある。
これは、と言葉を無くして、辺境伯の顔を見上げれば、すっと顔を背けたのです。
「いや、こんなものを着る機会なんて滅多になくて。仕舞いこんでいたのを、必要になって取り出してみたら、こんな事に…」
「これを、私が直す、ということなのですか?」
刺繍について頼みがあるということは、そういうことなのだろう。
でも、それならちゃんとした職人に頼んだ方がいいのでは。
そう思って尋ねると、服を作ったり、直したりは得意でも、刺繍なんてものは好きではないと断られてしまった、と。
「頼めない、か?」
「…何時までなんです?」
儀礼用のこれが必要になった、というのなら期限があるということ。
この国境で果たしている役目もあり特例として、貴族に対して存在している国の催事などへの出席の義務が免除されている。そんな辺境伯である彼が出なくてはいけない事とは何かは分からないけれど、それでも重要なものであるということは考えなくても理解出来る。
「十日、なんだが。出来ないか?」
「十、日…」
酷い解れもある。これを十日で、というとギリギリなところ。授業は何とかなるかも知れないけれど、家事などは後回しにして、多分。
食事はお兄様に食堂などに連れていってもらって…。
そんな言葉を知らず知らずの内に声に出していると、当たり前ではありますが辺境伯も随分と焦っているのでしょう、驚くしかない言葉が返ってきました。
「その間、家のことは俺が何とかしよう。これでも掃除や簡単なものにはなるが料理は得意だ!」
何とかしよう、そこまで聞いたところでは使用人の方などを便宜してくださるのかと思ったのですが、辺境伯は自分が全て代わりに行うのだと、言うのです。
…この方は名のある軍人で、辺境伯という爵位をお持ちの方なのよね?
と呆気にとられ、間抜けな顔を晒してしまっていても、誰も私を責めることは出来ないと思います。
「せ、センシル様?…ふっふふ」
「セリンサ」
横に逸らしたまま渋い顔をなさって、そして、笑うな、と仰られるけれど、これを笑うなという方が酷いというもの。それでも口元を押さえて笑いを抑え様と努力はしますが、それは無駄なもので終わります。
「私を変わっていると仰いましたが、センシル様も十分に変わった方だと思います」
貴族が、それも男性が、しかも決してそんな事をするとは見えない体格や雰囲気の方が、自信有りげに家事を代わると言うなんて。
「分かりました。十日で頑張ってみますから、どうか家の事をお願いします。でも、センシル様にも御仕事がお有りになるのですから、決して無理はなさいませんよう。何時でも仰って下さい、食事なら外ででも出来ますし、掃除などは数日せずとも死にはしませんから」
男の人がこうと言ったことを否定しても良いことは無い。それに、勢いで言ったものだとばかり思っていたのですが、辺境伯の目にはやる気と自信が本当に満ちているのだと思えたのです。そうであるのなら、お断りしてしまうのは無粋なことでした。
「ですが、」
任せてくれ、と胸を叩いて仰る辺境伯に、一つだけ。注意しておかなくてはいけないことがありました。
「無茶はしなくても、あまりやり過ぎないで下さいね。子供達のハードルがあがってしまっては、私が後で困りますから」
「流石に、そこまでの事は出来ないさ。だが、心には留めておこう」
「御願いします」
「それで、これなのか」
「あぁ、味見はしっかりとしたからな、悪くはない筈だ」
「いや、悪くはないが…」
お兄様と辺境伯のそんな会話が、扉の向こうから聞こえてきます。私は針を持つ手を止めることなく、耳を澄まして夕食の席につく皆の会話を聞いていました。
美味しいよ、というアルトやグレンの声が聞こえたので、今途中となっている作業が一段落してからの食事が楽しみでなりません。
日が暮れ、帰ってきたお兄様に私は真っ先にあるお願いをしました。これから十日間だけ、お兄様の部屋を借してもらい、お兄様には私の部屋で休んで貰うということを。その間、エリナはアルトに頼むことになると、アルトにも帰ってきてすぐに頼みました。
針仕事とはいえ、何の音も無い夜遅くまで行おうとすれば嫌でも鋏の音や物音が響いてしまいます。
その為の配慮としてのお願いでしたが、姿形は見えなくても、こんな風に音だけで楽しめるのなら、途中で嫌気を覚えて手元が疎かになることはないでしょう。
まさか、嗜み、手慰みとして教えられ、続けてきた刺繍がこうして役に立つとは思ってもみませんでした。
あのままの時間が過ぎていれば、知ることも感じることも無かった、驚きと感動。
こうなって良かったのかも、なんて考えてしまう。
今回の事態に巻き込まれた貴族達や、お兄様と辺境伯が時折声を潜めて行っている話では嵐と例えられる状態になっているという王都や他の領地、そこに暮らす民達の事を思えば、決して口にはしてはいけない、出来ないことではあると分かっていますが。
隠し切れそうにない、今の私の、有りのままの気持ちです。
出来る事なら、二人が口にしていた嵐が此処まで来る事が無ければ、と。
タリウ様の姿がまだ、ふとした瞬間に頭を過ぎっていくことも多いけれど。
それでも、今のこの幸せを守っていきたいと思うのです。その為なら、これまでの何もかもを忘れなければと、改めて心に決めました。