其処は安住の地になってくれるのか
馬車に揺られること、十二日。
あの説明の後に一度馬車は歩みを止め、お兄様が御者台に、御者台の小窓から顔を覗かせながらアルトやエリナと話を弾ませていた甥であるグレンが馬車の中へと移り、再び南に向けて走り始めました。
二つ年上、それだけでもアルトから見れば、しっかりと兄という風格を放て見えるグレンは大好きで尊敬出来る兄の立ち位置に以前からずっと居る。そんなグレンの登場と、これからは一緒に生活することになるという話を聞かされ、屋敷を出てから表情を引き締めたままだったアルトの表情が見事に綻んだ。
そんな子供らしい表情と反応が可愛くて、そしてホッと心が和みました。
明るいグレン、御者台から時折チャチャを入れてくるお兄様の存在が、緊張を隠しきれていなかった私のせいで重苦しくなっていた空間を明るく、軽やかなものにしてくれて。
本当は、アルトよりは年上とはいえ子供でしかグレンにそんな事を感じてはいけないと分かっていても、お兄様とグレンという二人の存在がとても心強く思うのです。
王都から真っ直ぐに伸びる街道は相変わらず、王都と少ない領地だけ知らない、しかも財と家格に相応しいものをと準備された馬車しか使用してこなかった私には酷く揺れ、腰を始めとする体に痛みや疲れを感じるものでした。けれど、これでも四方大公の領地へと向かう街道は王家と大公家の管理下にあり、その他の道というものに比べれば、比較にならない程整備されて馬車の行き来がしやすいのだと、お兄様に教えてもらいました。この南への街道はその四本の街道の中で、南大公の政治への影響力が他の大公達よりも一歩下がった場所にあるということで、一番整備が後回しになっている。だから私やアルト、グレンが通った事のある他の街道に比べれば揺れは酷くなる、とそれぞれの街道の特徴などを上げ、自身が体験したことを面白可笑しく話ながらの説明は本当に面白かった。
それを目をキラキラと輝かせながら、小窓から聞こえてくるお兄様の声を感動と感心、興味深く聞いているアルトとグレン。その後ろで大人である私までも「まぁそうなの」と小さな声を漏らしてしまったことが、後から考え直さなくとも恥ずかしいことでした。
知識としてなら、それは知っていました。
でも、実際にどうなのか、と言われれば軍人として色々な場所に赴いているお兄様と比べようも無い程に、私は知らないことばかりで。
これからは子供達の疑問に何時でも答えられるように、そして子供達を護っていけるように、しっかりと学び成長していかないと。
改めて、思いを新たにしたのです。
馬車に不調があったと歩みが止まること、慣れぬ長旅に疲れを見せたアルトやエリナの為に長めの休息を入れること、それらの事がありながら私達が南大公領を越え、それまで以上に酷い道行きとなった街道を通り、南大公領と辺境伯との境境に指しかかれたのは、王都を出立して十一日目になってから。
辺境伯領へと入る為の許可を得る為に関所で待つ間、軍人が鍛えられた軍馬で駆け抜けた場合はこの三分の一以下になるというお兄様の暇潰しの話はまた子供達の興味を引き、長旅の疲れに苛立っているように見えた様子を鎮めてくれました。
お兄様と関所に配置されていた辺境伯軍の部隊長との間で幾つかの話し合いが持たれた後、私達を此処まで送り届けてくれた馬車と御者は帰路につき、私達は一泊、関所の脇に設置されていた兵士達の詰め所という建物に泊まることとなりました。
道中、村や町などで宿を取り泊まることもありましたが、それよりも多くの場合は馬車の中で身を寄せ合って眠りました。雪が降る冬じゃなくて幸いだったと兄は冗談のようにして言いましたが、本当にその通りだと私も思ったものです。
まさかお金があっても使えない、なんて事があるなんて。
これも私が世間知らずであると実感させました。
手切れ金として渡されたその袋の中は全て金貨。平民からすれば一財産だぞ、と言われたそれらは王都から離れれば離れる程、使いようがなかった。宿に泊まろうと一枚の金貨を出すと、そのお釣りを用意することが出来ずに大騒ぎになってしまう。そう説明され、初めてのことに声も出ない程驚いてしまいました。
馬車の中で体を横にすることも出来ずに眠る、まだまだ慣れることの出来そうにない事態に比べれば、兵士の方々が「こんな所で悪いが」と前置きを口にした木枠の二段ベットが素っ気無く並ぶ部屋に、何の文句をつけれるのか。枕があって、体に掛ける布団がある。エリナを抱き締めても、足をまっすぐに伸ばしても余裕をもって寝転ぶことの出来る広さ。案内してくれた兵士の方に「そんなことはない」とお礼を言ったのですが、ベットで眠れることに思わず綻んだ頬を引き締めることも出来なかった私の表情があまりにもだらしなかったからでしょう、呆気に取られて表情で顔を背けられてしまいました。
後から考えれば、なんとも恥ずかしい話です。
それでも、その時は嬉しくて嬉しくて、そんな事を考えることも出来なかったのです。
翌日、辺境伯が用意したという馬車に揺られて一刻程。
忠誠深き武家と建国の時より史実に名と力、勇猛なる姿を刻むセンシル辺境伯が治めている辺境伯領。その中心は南の大国リデッラとの国境線に最も近い、この国の最南の町と言われているアガサの町。辺境伯の屋敷もそこにある。傭兵や商人が集まり、様々な人種に文化が集まっている。
何時戦端が開くとも分からない場所だというのに、そんな様子を億尾にも出さずに賑わい、たくさんの子供達が楽しそうに戯れている様子が馬車の中からも見ることが出来た。
王都のように華やかで美しく整っていると感じるところは無い。けれど活気に溢れたその町並みは、王都とは違う魅力に溢れているように見えた。
「北のエリノア、東の劉煉、そして南のリデッラ。西は海に面している為、常に警戒せねばならない国家というものは無いものの、海路を利用する人買い共に海賊、海の先に存在するゲル諸島連合による被害も絶えない状況。大国や油断のならない組織に囲まれる形で、山地から採掘される鉱石などの豊かな資源、豊かで広大な土壌から生まれる作物を抱え、常に脅威に晒されて一つの国家を保ってきたのが我等がアルデヒル皇国。貴族の勢力争いなど、他国に付け入る隙を見せるだけの馬鹿げた遊戯だと常々、私や我が辺境伯家は南大公や王に進言してきたが。どうやら、それらは無駄の何ものでしか無かったようだな」
西大公家には期待していたのに、失望させてくれた。
会って早々、真っ直ぐにお兄様を睨みつけて強い非難の言葉を吐き捨て、深い溜息を吐き出して見せたのは、お兄様よりも背が高く、がっしりとした体格の男性。短く刈り上げている髪のすぐ下に覗く額や頬、首や手首、パッと見で見つける事が出来るだけでも幾つもの傷痕を持つ、その方は如何にも軍人という姿形、背筋と同じようにピンと張り詰めた空気を放っている。けれど、これでも軍人の家に嫁ぎ暮らしていたのです。その様子や空気に怖いとは思わず、まだつい最近の事だというのに懐かしいという思いさえ生まれてきました。
「それに関しては申し訳ないと思ってはいますよ、センシル辺境伯殿。王妃によって強まった北の影響を和らげる為だったというのに、こちらが隙を見せたせいで駄目にしてしまったんだ。だが、こっちとしても笑いたくなる程のことだったんだ。もう少し、王が上手く動いてくれるって我が父も考えていたことだろうよ」
「確かにな。王が王妃と北大公家を抑えることが出来ていたなら、王妃の息のかかっていないマトモな教育係を王太子につけていたのなら、と私も報告を聞いて思った。だが、あの王にしてみても、王位を継ぐ際の争いに北大公家の力を借りているんだ。強く動くことは出来ないだろうさ」
「北の隆盛は益々極まり、そしてこれからも益々強く、エリノアとの関係は深まっていく。多くの貴族は恭順の意を表向きは王家に、そして真意としては北大公家に向けていく。王太子が目を覚まし、母親から巣立ってくれれば、と貴族でも何でもなくなった俺は願うだけ」
お兄様が肩を竦め、センシル辺境伯はそこで始めて硬く引き結ばれていた口元を動かし、笑うという表情を見せて下さいました。
「無理だろう。何度か会ったことはあるが、あれは母親の人形みたいなものだろう。あんなマザコンじゃ、嫁になる奴が可哀想ってもんだ。まぁ、今度の嫁も王妃の人形みたいなもんだっていうのなら、お似合いの夫婦になるんだろうがな。勉強の方は立派なもんでも、あれじゃあ王妃の後ろ盾が無ければ、側妃達の産んだ第二、第三王子、第二王女にすら立場を追われるだろうよ」
この国には現在、王妃の他に側妃がお二人いらっしゃる。王妃の子は王太子である第一王子ただ一人。二人の側妃との間に、王は二人の王子と三人の王女を設けている。栄華を誇る北大公家に憚り、成りを潜めてはいるものの、王太子の弟妹にあたる王子、王女達も優秀なのだと話に聞いています。特に第二王女は教育係が「王子であったのなら」と口を滑らせた程であるとか。
今回の事で王妃と北大公家はその勢力をより確かなものにし、王子、王女とその外戚による脅威を完全に退けれた、ということなのでしょう。
大国と言われるエリノアはこの国よりも広大な領土を誇り、鉱石などの資源に恵まれてはいるものの、その国土の多くは少数民族が点在する山岳地で、気候も冬が長く雪深い。農業には向いていない土壌でもある為に、農作物の半数以上はこの国や周囲の国々からの輸入に頼るしかない状況だと学びました。その分、かの国は豊富な資源を元に他国にはない遠距離攻撃を可能とする武器、影人と呼ばれる裏事を得意とする王直属の組織などを始めとする独自の文化・技術などを作り上げ、それを脅威として周囲の小国を属国とし大国としての地位を誇っている。
「この国を滅ぼして自国の領土にしようっていう劉煉やリデッラとは違い、あの国はこの国有きで支配下に置こうとしているからな。王達からしてみれば"まだいい・まだマシ"とでも思っているのだろうさ」
「農地にして、リデッラに対する壁。エリノアが考えているこの国の価値はそんなもんって所か」
下がどれだけ踏ん張ろうと、上がそうではどうしようもない。
お兄様と辺境伯の意見はそう一致したようで、ニヤリと笑い合っています。
「辺境伯軍は貴殿を歓迎しよう、ハンス殿。地獄耳には定評のあるリデッラがすでに、この国のこれから起こる大嵐を察して動こうとしている。使える手は幾つあっても困ることは無いからな」
「ありがたい。感謝しますよ、辺境伯殿。此処が駄目なら、他国に出るくらいしかマトモに生活出来そうに無いと、これでも内心ドキドキしてたんだよ」
「それは困るな。リデッラには力さえあれば素性を気にしない、傭兵部隊というものがある。貴殿ならば、この国を出た瞬間に勧誘が来ただろう」
「おっと。それはそれで、面白そうだったな」
ハッハハと笑い声が起き、二人は固く手を握りあった。
「フォスター・センシル。此処はあまり堅苦しいのは好まない。正式の場はさすがに少しまずいが、普段では気軽にフォスターと呼んでくれ」
「ハンスだ。姓は無い。こっちは妹のセリンサ。俺の息子のグレンと、セリンサの息子のアルト、娘のエリナだ」
お兄様による紹介を受けて向けられた辺境伯の視線に、ゆっくりと深く頭を下げる。
二人の話をさすがに退屈そうに聞いたいたグレンにアルトも、私に続いて頭を下げたのが音と小さく目端に写った光景で分かった。訳も分からずにエリナが、兄達を真似て少し遅れて頭を下げている様子も見えた。
「妹というと、タリウに嫁いだという…。難儀なことだな。勢力争いに巻き込まれない為に妻どころか子まで追い出したのか。タリウも変わったな、昔のあいつからは想像も出来んが」
「俺もそう思ったが、こうして此処にセリンサが子供と一緒だってことを考えると、な」
「タリウ様と、お知り合いなのですか?」
同じ貴族、軍人というだけではないような音が辺境伯の声から聞き取れて、私は此処で初めて声を出して辺境伯に話しかけました。
ただ兄の隣で立っているだけだった私が口を開いた事に少しだけ、辺境伯は驚いている様子を見せましたが、それもすぐに消え、私の問いに答えて下さいました。
「学園の同期だ」
見た目からいえば、やはり戦いに近い場所に常に身を置いている苦労などがある為なのでしょうか、タリウ様よりも辺境伯の方が大きく年嵩に見えていた為、その答えにとても驚いてしまいました。
「…此処は辺境の地だ。男も女も何かしらの役目を担って働かねば、生きてはいけない。ハンスには戦ってもらうが、貴女は何が出来る?」
「何も」
真っ直ぐに、強い眼光を放ちながら細められた辺境伯の目が、私を見下ろしながら問い掛けてきた。
それに対して瞬時に思い浮かび、そのまま口から飛び出たのは、そんな一言でした。
返す早さも、そんな言葉も予想してはいなかったのでしょう。
辺境伯どころか、お兄様まで、呆気に取られたと間抜けにも思える表情を浮かべて、は?と声を漏らしていました。
「な、何も?」
「えぇ、何も。お恥ずかしいことだと今なら分かるのですが、幼い頃より貴族の娘として良き妻、良き母になれと、誇り高くあれと育てられてきました。ザルス家に嫁ぐと決まっておりましたから、軍事に関わる簡単な知識程度は教わってはきましたが、本職の方々の前で語るには馬鹿らしい浅く広いものでしか、ありません。学園で学んだこともありますが、それも誇ることでもありませんでしょうし。あとは、家内のことをつつがなく取り纏めれるようにと学びはしましたが、それも広く浅く、自分で行う為ではなく使用人達を動かし間違いの無いようにという為のもの。貴族ではなくなった身で此方の生活でお役に立てるようなことは、私は何一つ持ってはおりません」
本当にこれからの生活を思うと、家事もままならないだろうと予想が出来、兄の足手纏いにしかなれないだろうと申し訳なく思うのです。
でも、と溜息のような一呼吸を置いて、言葉に出す内に自然と下がっていってしまっていた視線をもう一度、辺境伯から浴びせられている視線に合わせます。
「でも、それでも頑張って学んでいきたいと思っています。どんな事でも一から学びます。ですから、頑張らせて下さい。何か、私でもお役に立てるような仕事があれば、どんな事でも構いません。教えて頂けないでしょうか」
辺境伯に聞くようなことではない、図々しい頼みだとは分かっています。
でも、どんな仕事があるのかも分からない私に出来ることは、まず聞く事だと思ったのです。
「っ」
はっははははは!!!
私を見下ろす目を逸らすことなく、突然大きく笑い出した辺境伯に驚いたのはきっと、私だけではない筈です。
「貴女にぴったりな仕事を思いついた」
「まぁ、本当ですか?」
「あぁ」
笑い声はすぐに収まり、辺境伯の表情はとても柔らかなものになったように感じました。
私にぴったりだという仕事とは一体、何なのでしょうか。
もったいぶるように辺境伯が生んだ間がとても長く感じます。
「町の子供達に勉強を教えてやって欲しい」
「先生を?でも、私にはそんな経験はありません」
「だが、使用人を動かす為、軍人の妻である為に、広く浅い教えは受けたと今、自分で言っただろう。それを、子供達にそのまま教えて貰いたい。その教えを深めるかは、貴女の教えから卒業した後に考えるということにすればいいことだ。兵士、傭兵になるにしても、馬鹿よりは学んだ経験のある者の方が使い勝手がいい。浅くとも知識があれば、戦う以外の何か自分に向いている仕事という奴を見つけれる子供も出てくるかも知れない」
貴女は十分、我が領に貢献してくれる人だ。
にっこりと辺境伯が満面の笑顔を浮かべ、私の手をとりブンブンと振り回してくる。
その喜びようは、九つも年上で屈強な軍人に向かって言うべきではないでしょうが、何だかとても可愛らしいという思いが浮かぶものでした。
喜んでいいのか、悪いのか。
いえ、何も無いのだと思っていた私でも役に立てる仕事があるのなら、喜ぶべきなのでしょう。
どうなるかも予想出来ない、初めての仕事。
でも宣言通り、頑張ってみようと想います。
子供達を護る為に、お兄様を助ける為にも、そして私自身を強く変える為に。
頑張ろう。
そう声には出さず、何度も何度も心の中で誓いました。