その覚悟は速やかに撤回させられ。
馬車を走らせ王都を出た御者へ、御者台と中とを繋ぐ小窓を通し南の辺境伯領へ向かって欲しいと伝えれば、中年の御者はすぐさま了承の意を示してくれた。
侯爵家から十分な報酬をすでに受けており、王都を離れ不穏な動きを見せない限りは、私達の指示する場所へと向かうよう命じられていたと、御者は口にした。
そして一刻ほどの時間、あまり質の良くないと実感する揺れに身を委ねれば、窓の外にはまばらにあった人影もより少なくなった森の中の街道に差し掛かる。
何時、戦火が巻き起こるかも分からない状況にある南に向かう者は、他の地方に比べれば少ない。それは知識としては知ってはいたけれど、実家の本邸が存在する西へ向かう街道や、侯爵家の別邸のある東へ向かう街道と実際に見比べてみると、人影がまばらで寂れても見える光景はまるで違う国の風景を見ているような気分にさせました。
けれど、ひっそりと暮らすには丁度いいのかも知れないわね。
そんな風にぼんやりと木々の緑が溢れる窓の外を見ていた時、それは訪れました。
ガタンッ
ヒヒンッ
馬の蹄の音が乱れ、馬車の扉の外側で大きな物音が上がりました。
御者の小さな悲鳴に、馬車は前へと動き続けたままだというのに、扉の引手が下へとおりていく。それはとても、バクバクという私の心の臓の音とは真逆に、ゆっくりとした動きに見えたのです。
もしや盗賊か。
そう身構えた中、外に向けてゆっくりと開かれていった扉からするりと、一人の人影が中へ侵入してきたのです。
よっ!
こんな時だというのに、私の驚きも恐怖も、何もかもを馬鹿にするように、まるで平時と何も変わらない様子で。
まだ未来の事など何も考えてはいなかった、そんな幼い頃を思い出させるその笑い顔、軽い声音に、知らず知らずの内に涙が溢れ、頬を流れ落ちていく感触があることに気づく。
まだまだドキドキと五月蝿く鳴り響く音は耳から消えてはくれないけれど、硬く冷えた手足の先に温度が戻っていくような気がします。
「あっ…は、走る馬車に飛び乗ってくるなんて、危ないではありませんか」
何とか言葉として吐き出せたのは、そんな脳裏に駆け巡る言葉の中で一番どうでもいいもので。
悪い悪いと謝りながらも笑う顔に反省の色は見えない。
これも昔のまま。
これで何十人という部下を率いて幾つもの戦果を連ねている軍人で、名門ジュール侯爵家の次期当主となる人などと、それが事実と知る私も疑いの目を何度向けたくなったことか。
西大公家の次男として生まれ、自ら進んで学園卒業後には軍部に属することを選んだ私のすぐ上の兄、ハンス・クルーダは数々の功績を立てていった。本人が言うには、実家が凄いと色々と気を使って貰える、ということなのだそうだが、タリウ様が教えて下さった話では実力によるもので、家格に関わらない親交を築き、上からも下からも慕われているとか。
娘が一人だけ、というジュール伯爵家に望まれて婿入りし、今年七歳となる息子にも恵まれて…。そんな幸せを掴んでいらしたハンスお兄様が此処に居ると言うことは…。
「本当に心の臓が張り裂けるかと思ったのですからね」
本当に兄の仕業と分かっても呼吸が暫くの間止まったままになる程、驚いたのだ。
人は驚き過ぎると死に至ることもあると聞く。今さっきの私がそうなっても可笑しくなかった、と馬車の中に無断で侵入してきた兄を睨みつけた。
「悪い、悪い。でも俺だったんだ。もう、そいつらを離してやってもいいんじゃないか?」
苦しそうだぞ、と意地の悪い笑みを浮かべて。
兄、ハンスに言われて、自分の腕の中にきつく押し込めた子供達の事を思い出した。
侵入してきた不逞の輩から子供達だけでも護らねば、と腕の中に抱き抱えたアルトとエリナ。
ハッと思い出して見下ろせば、まだしっかりと回したままの腕の中でもごもごと動き、特にアルトが離すようにと訴えている。
危険は無いのだし、と腕を外す。
ぷはぁ。
きつく抱き締め過ぎたようで、アルトはすぐに大きく息を吸い、そして吐いて。その後には慌てるように、ハンスお兄様へとキラキラと輝く目を向けたのです。
「おじさん!」
「よっ、アルト。エリナも、元気そうで何よりだ」
大好きな伯父に会えて、本当にアルトは嬉しそうに笑い、そしてハンスお兄様に抱きついた。そんな兄の真似をするように、エリナもまた飛びついていく。
「僕も居るよ」
パタンと御者台に繋がる小窓が開かれ、無邪気な笑顔を浮かべて覗き込んで来たのは、ハンスお兄様の息子であるグレン。
「まぁ、貴方まで?」
兄が此処に居る理由は何となく理解出来た。私達が此処にあるのとそう変わらぬであろう、と。でも、その息子であるグレンまで居るなんて…。
でも、そうね。アルトとエリナも私と共に此処に居るのだもの、そうなっていても可笑しくないのよね。
「こんにちは、叔母様。アルトもエリナも、やっほぉー」
「グレン兄様!」
「お兄様」
アルトは兄と慕うグレンの顔が見えたことで喜びの声を上げているけれど、彼が父親であるハンスお兄様と共に居ることの理由を考えれば、胸が痛くなる。
「俺の、クルーダの血はいらんとさ」
「お兄様も、ですか」
「おぉ。仕事もクビ、実家も無くなっちまったようなタダ飯喰らいにしかなれない男の面倒を見る甲斐性なぞ無いと言われてしまった」
ジュール侯爵家にも、私が義母から見せられた一報と同じ物が届いたのでしょう。
そもそもが政略結婚。私の場合はそう割り切れるものですが、お兄様の場合はあちらから望まれての婿入りだったのに。
「まぁ、それも理解出来ないことでも無い。厄介事を抱え込んで睨まれるのは誰だって嫌だしな」
でも、とお兄様は少しだけ口篭りました。
「まさか、こんな所でお前達の乗った馬車を見ることになるとは思わなかったよ」
-あの人がそんな事する訳ないと思ってたんだがな。
どんな事を言っていたのか。もごもごと口の中で話しているようなお兄様の声は、言葉として私の耳には届いてきません。
「何か言いましたか?」
「いや。…丁度よく兄貴はシグルス王国に留学中、帰ってくんなっていう手紙は送っておいた。親父や義母上殿、ライナがどう動くかは分からんが、子供じゃないんだ。上手く動くだろう」
瞬き一つ。
お兄様の表情が真面目なものへと変化して。
その表情を見ていると、あぁ戦いに身を置いていた人なのだと、タリウ様と同じ面影が見い出せる。
「理由は聞いたか?」
「いえ。ライナが不祥事を起こした事。それに他国の王族が深く関わっている事。お父様達が犯していた多くの罪が露見し、クルーダ西大公家を追われ貴族位から排籍される事。私が知らされたのは、その程度。後は離縁を言い渡されて」
「そっか。じゃあ、まぁ簡潔に説明するとな、」
そう言って、私が知らなかった出来事をお兄様は説明してくれました。
父を始めとして西大公家が多くの罪を重ねていた事。
ライナがその立場を笠にきて、横暴の限りを尽くしていた事。
そして、そのライナの横暴の被害を受けた方の中に、他国の王族というやんごとなき身分の令嬢がいらっしゃった事。
それらが要因となり、今回の断罪が行われたのだと。
「まぁ、こういっちゃぁなんだが、親父が重ねていた罪ってぇのは大あれ小あれ、貴族のどの家だって少しは手を染めているようなもんだ。それを罪に問おうっていうんなら、他の大公家も断罪しろよって話になる」
なんてことはない、西大公家はただ勢力争いに負けたってだけの話だ。
「お兄様」
あんまりといえばあんまりな兄の言葉に、つい声が低くなる。
「ライナの件だってな、怪しいもんだ」
別に庇うわけじゃないがな、とお兄様は吐き捨てるように言葉を続けた。
「ライナが最後に苛めの標的にしてたのは、国の東に小さな領地を持つワルナ子爵家当主の妹が、未婚のまま産んだ娘だ。皇太子と親しい関わりを持ったことがライナには許せなかったらしい」
「王族の方では無かったのですか?」
王族であろうと、平民であろうと苛めを行うなど良くないことだとは分かっている。けれど、今の兄の言葉と先程の説明が大きく食い違うことは不思議で仕方無い。
「その誰やも知れなかった父親がエリノアの王弟だったのだと、ライナを断罪する際に皇太子が公にしたんだ」
「エリノア?というと、あの北の?」
エリノアという名を持つ国はただ一つ。そうとは分かっていても、中々頭がその言葉を受け付けなかった。
「そう我が国の北に存在する同盟国、北の大国エリノア。皇太子生母である現王妃の実家、北大公家が何かと懇意にしている、かの大国だ」
現王妃である皇太子殿下の母君は、北大公家の先代当主の娘であり、現当主の姉。
そういえば、とある情報が頭を過ぎる。
「妃殿下の母親、北大公家の先代当主の妻はエリノアの王家から嫁いできた、元王女。エリノアの現王とその兄弟は妃殿下にとっては従兄弟になる。妃殿下も幼少の折には、何度もエリノアを訪ね、交流を深めていたという話だな」
「エリノアとの対等な友誼を結べたのは、北大公家の功績が大きいと聞いています」
「ライナが苛め尽くしてくれた姫君は、そのエリノアの王弟が子爵家の令嬢を密かに通じた末に生まれた娘なんだそうだ。北の王族と東の子爵令嬢。何処でどう、出会ったのかは色々と謎だが、それはもう心暖まる出会いと愛の物語があったことだろう。国中の乙女が感動の涙を流すような話がすぐにでも広がるだろうさ」
真実はどうであるのか。
そんな事を深く考えることは、もう貴族でも何でも無い私達にはきっと許されない事、不用な事なのでしょう。
「北とうちは代々犬猿の仲。今頃、北と王妃殿下は内心、高笑いだろうな。北の隆盛は次代にも極まるってことだ」
娘を王妃とした事で高まった北大公家の勢力を抑え、削ぐ為にと組まれた、皇太子と西大公家令嬢の婚約。
それは誰が見ても納得のいく理由をもって、終焉を迎えた。
それに変わる相手が、友好国の王女であるのなら、文句のつけようもない。それが例え、北大公家の勢力を次代にまで確固としたものにすることになろうと。
誰も、王妃と次代の王の外戚、友好国という名の大国に睨まれたくはない。命が幾つあっても足りない。
「まぁ、何はともあれ新たな皇太子妃殿下のお手並み拝見ってとこか。たかだか貴族の末端の、その私生児として生まれて、高位貴族においては当たり前の教育どころか貴族子女としての教育もあやふやな身で、皇太子妃、ひいては一国の王妃として完璧に振る舞えるのか。いや、それだけじゃないな。他国の王族、という肩書きに相応しい振る舞いを成し遂げれるのか。全く、楽しみなことだ」
口早に放たれる言葉の数々に、お兄様が笑みを浮かべながらも内心では苛立ち、荒れ狂っていることが如実に現れていました。
「まぁ、それもこれと、最早貴族ではない俺達には遠い場所でも夢物語。俺達は俺達の、ちゃんと足を地に着けた話をしなくちゃな。で、お前はこの馬車で何処に行こうとしてたんだ?まぁ此処を走ってたんだ、何処に行くのかは容易く予想はつくが、」
表情も声も一変させて、先程までの真面目で重苦しい雰囲気を覆い隠して、お兄様はそう尋ねてきました。
「南の辺境伯領に向かうつもりです」
「おっ、そうか。それはいい。あそこなら色々と大丈夫だろ。辺境伯も、王都のいざこざに興味を示すような人では無いし」
「お知り合いなのですか?」
「いや。話だけだ。滅多に王都には出てこないし、戦場でも今まで関わったことはない。だが、俺の同期に辺境伯領出身の奴が居てさ、こんなもんを貰ってきた」
自信ありげにピラリとお兄様が懐から出して見せてきたのは、一通の封筒。
「辺境伯軍への紹介状だ。これで、喰いっぱぐれることは無い」
「まぁ」
でも、
「大丈夫だ。親父達はともかく、王妃殿下はそこまで執拗に俺やお前を仕留めにかかってはこないさ」
私の不安は顔に出てしまっていたのでしょう。
けれど、お兄様は力強く私の不安を否定してくれた。
「?」
でも、その確信を持つような否定の意味が私には分からない。
「死んだお袋と王妃殿下はな、姉妹かってくらいの親友同士だったんだ。一度、面と向かって言われたよ。"あの子の子供でなければ、どんな手を使ってでも貶めてやるものを"って。ついでに"西の娘でなければ、あの子を女官としてでも侍女としてでも傍に置いて可愛がれるというのに"だってよ。お前、お袋に瓜二つだからな」
だから、とお兄様は初めて聞いた話に驚く私を置いて、苦笑を零して話を続けていく。
「俺やお前が馬鹿みたいに目立つようなことをしない限りは、あの方は放っておいて下さるよ」
確か、確実なんて言葉を使うことは出来ない。
でも、お兄様はその予想に確信を持っているのだといいます。
私も、それを信じたいと思いました。
静かに、ひっそりと、子供達の幸せを祈って生きていこう。
そう強く強く願うだけ、なのです。