驚きの一報と共に覚悟を決めて。
ここに、僅かですが暫くの資金は用意しました。
分かっているでしょう。
もう、私達に関わらないで頂戴。
その声は震え、その響きからは憎悪さえ感じ取れた。
たった一つの一報によって、全ては一変してしまった。
何もかも、ありとあらゆる状況が真っ逆さまに暗闇の中に吸い込まれていく。
はい。
そんな状況を理解してしまえば、そうとしか、私に返せる言葉はありません。
義母から手渡されたジャラジャラと音の立つ袋を手にした私の両側には、今年五歳となる息子と三歳の娘。
その目が不安に揺れているのを見れば、母親である私が動揺したり、声を荒らげてしまえば子供達に悪い影響を与えてしまうと分かるから。
侯爵家の嫡男として、幼いながらにしっかりとした教育を与えられ、その期待に応えて見せていた子とはいえ、これまで猫可愛がりしてくれていた祖母の決して目を合わそうとしない態度や、これまで聞いたことのない冷淡な声の前では、今にも泣き叫びそうになるのを何とか我慢しているのがやっと。一杯一杯のその様子に、取り乱しそうになる自分を何とか律してみせた。
まさか、こんな事になるなんて。
今、思えることはそれだけ。
セリンサ・クルーダとして私は二十一年前、このアルデヒル皇国に生を受けた。
生まれたのは、この皇国で王家に次ぐ地位にあるクルーダ西大公家。
王家と祖を同じくする、北、南、東、西と四家ある大公家の一つの、その当主の長女として私は生まれた。幼い内に病で母を失いはしたけれど、大公家に仕えるに相応しい優秀な家令に侍女達の何不自由ない世話を受け、二人の兄の温かい優しさを受け、父の後妻として迎えられた義母とその子である弟妹達とも世に語られる成せぬ仲の険悪さもなく、華やかで恵まれた暮らしの中で育つことが出来た。
物心ついた頃からの婚約者に嫁いだのは、十五歳の時。
タリウ・ザルス。
九歳も年上の、若くして幾つかの戦場で活躍を見せ、すでに将軍位を拝命していた勇猛な武人。
家格としては一段下がるものの、ザルス侯爵家は優秀な軍人を代々輩出し、皇国軍内において大きな影響力を発揮している事もあって、王家も四方大公家も無下には出来ない家だった。
独自の軍事力さえ保有しているようなその家との繋がりを強固にする為の、政略的な結婚。
相手が軍人ということで、何があるかも分からぬからと、皇国の法によって結婚が許される年齢になってすぐに行われた結婚。
貴族の子女が十二歳から十六歳という四年間、通うことを極力義務付けられた王立学園も、三年間しか通えなかったことが少しだけ悲しかった。
それでも家の為に嫁ぎ、私がなすべき事は一刻も早くザルス家直系の子を、特に男子を産むことで。それが貴族の家に生まれた娘の義務だと教わっていたから、その悲しみもすぐに意味の無いものとして消えていった。早い方ではあるけれど、それでも別段驚くことではない年齢から始まった結婚生活を淡々と過ぎ去り、幸運なことに私は一年目にして義務を果たすことが出来た。
それが今、私の右側の腰を小さな手でしっかりと握り締めてくる長男、アルト。
そして、その二年後に生まれたのが、左手に体を震わせてしがみ付いている長女、エリナ。
確かに、ザルス侯爵家の血を引き継いでいる、ザルスの子。
特に息子は、祖父母や古くから侯爵家に仕えている者達が感嘆する程、父であるタリウ様の幼い頃に瓜二つなのだとか。
娘も目元や耳の形に、タリウ様の面影を見ることが出来る。
でも、私のせいで。
私からクルーダ西大公家の血を受け継いでしまったせいで、ザルス侯爵家はこの子達まで要らぬと言う。
それだけのことが起こってしまったのだと、分かっている。
でも、これから今までの暮らしを捨てなければならない、苦渋に満ちた日々が待ち受けているこの子達が可哀想で、苦しくて仕方無い。
でも、此処に残ることなど出来ないことも、ちゃんと分かっているから。
「アルト、エリナ、行きましょう」
少ないけれど侍女達が纏めたという荷物が渡され、義母から渡されたお金と合わせて、しっかりと持つ。
両手がしっかりと二人の子供達によって固められ動きづらくはあったが、察しの良いアルトが自分から手を離してくれた。こんなにしっかりした子なのに、得ることを約束されていた物全てを失わなくてはいけないなんて。
悔しい。せめて子供達にだけは慈悲を、そう義母に投げ掛けようと顔を上げた。
「外に馬車を停めて置きました。何処へでも好きな場所に行きなさい」
でも、それを口にするよりも早く投げ落とされた最後の言葉は別れのものではなく、背中を向けての冷たいもの。
その意味を推し量れない程、愚かならば良かった。
馬車を使って、遠くへ行けと。二度と戻ってくるとな。お前も、子供達も。そんな意味なのだと、気づけなければ良かった。
沈黙の中を歩き、子供達と荷物と共に玄関を出れば、義母の言葉の通り馬車が横付けされていた。家紋もない、小さく素朴な印象のもので。二頭の馬を操る従者は全く見覚えの無い人。
今まで利用したこともない馬車だったけれど、惚けて躊躇っている暇はない。
一刻も早く遠くへと向い、私達とザルスは何の関係もないのだと示す事が私に出来る最後の役目。これ以上、ザルス家に迷惑をかけられないのだから。
アルトを乗せ、エリナを乗せ、荷物を乗せて、誰一人の手を借りることなく、手を貸してくれる者もとうに無いのだからそれも当たり前で、私も馬車に乗り込み席に着く。
そこまでの動作を一度も止めることなく、もう二度と目にすることのない光景を振り返ることはなかった。
普段乗り慣れていた馬車とは比べ物にならない乗り心地だと、席に着いてすぐに分かる。そんな感覚に苦笑を漏らす余裕も与えてはくれず、馬車は走り出した。
「おかあ様。僕達は一体、何処に行くのですか?」
「かあさま」
「何処に、行こうかしらね」
今や国の何処にも、味方はいない。
実家に帰ろうにも、あの一報から読み解く限りでは帰れる場所ではない。
家名は変わらぬものでも、もう他人でしかない。あちらも混乱の中にあるだろう。戻ったところで何が変わるわけでもない。
親類、親しかった友人達、その何処に頼ったところで、厄介事でしかない私達を受け入れてくれる場所など無い。
でも、微かな希望にすがるとするなら一つだけ、思い浮かぶ所はある。
この国の果て、王家の威光が少しでも薄れる地でなら王家の敵と成り果てたこの身でも心穏やかな日々が過ごせるかも知れない。そんな希望にすがることにしよう。
「南の、センシル辺境伯領。その果てにあるアガサの街ならば、居を構えても多分、大丈夫よね」
この国が国境を接する国々の中でも一等厄介で、長きに渡って緊張状態を保ち続けている軍事国家リデッラが南の国境の先にある。
惑わしの森という広大で危険に溢れた難所がある為に滅多なことでは開戦にまで至ることは無かった。けれど、長い両国の歴史の中では何度も火蓋は落とされているし、小さな小競り合い、密かな戦いは年に一度と言っても過言ではない程に起こっている。
国軍の将であるタリウ様も結婚生活の中で何度も、それらを治める任についていたから私には他人事てはなかった。
そんな最大敵国と接する土地を治めるのは、忠誠深き武家と建国の時より史実に名と力、勇猛なる姿を刻むセンシル辺境伯。名より実を、と荒くれ者達を束ね独自の軍を持ち、嬉々とリデッラ国とのあらゆる戦いに興じているのだと聞く。
そんな地である為、辺境伯領内に貴族が好む優美さや華やかさはほとんど無く、領民達は他の貴族の治める何処の領民達よりも逞しく、賑やかなのだと学んだ。腕に自信のある傭兵達が他国からも集まり、それらを相手に一財産を築こうと商人が集まり、街並みは混沌ともいえる多国籍ぶりだとか。
そこでなら大丈夫なのでは、と思える。
「アルト、エリナ、よくお聞きなさい。これより先は私の事を、そうね”おかあさん“と呼びなさい。そして、名を尋ねられた時にはアルト、エリナとだけ。決して、ザルスの名を名乗ってはいけません」
もっと注意すべきことはあるけれど、子供達にその全てを理解し覚えろなど無理なこと。まずは少しずつ、出来うる限りで覚えていかせればいい。
「…はい、おかあさん」
「?」
エリナはたったの三歳。
私の言っている意味が分からないのも仕方無い。まずはアルトが理解出来てくれればいい。
幸いなことに、アルトは聡い子だから子供らしくない表情で口元を引き締め、私の言葉にしっかりと頷いてくれた。
「ごめんなさいね、アルト。でも、これから先、何があろうと、どんなことがあろうと、お母さんが貴方もエリナも守り抜くと約束します。だから、三人で頑張っていきましょう」
実家も、家族も、婚家も失った私に残っているのはもう、この子達だけ。
何としても守り抜き、ささやかでもいい、私にだけ降り注ぐならばどんな苦しみだって合ってもいい、この子達を立派に育てあげて幸せにして見せる。
私はそう、心を強く引き締めたのです。