王都の中心で愛を叫び
「はい。飲んで、食べて。うちのパンは王都一。あの、ライナだって、そこには否定しないんだから、確かだよ」
パンが並ぶ店内の端にはテーブルが一つだけだか置かれ、五脚の椅子がそのテーブルを囲んでいる。パンを購入した客がそのまま店内で食べても良いように、と置かれたそこには今、アルスとグレン、そして店の奥からお茶と山と積まれたパンを運んできたヒルトが座った。
先程まで少なくはない客で賑わっていた店内には客の姿は一人もなく、アルス達三人と、遠巻きにするようにその様子をじっと見ている店員の少女が一人が居るだけ。
別に客達を追い出したわけではない。
店の奥から怒りを露にして出てきた女性の、麺棒による改心の一撃がヒルトの頭へ見事に決まった際、注文途中の客は例え途中でも会計を店員を急かして済ませ、注文待ちの中だった客達は「また後で来るわね」と店を後にしていった。その時、「こんな騒ぎも久しぶりね」「また隠し子かしら」と客同士が口にしているのを、アルスとグレンは聞き逃さなかった。
えっ、それって僕達のこと?
………まさか、修羅場に巻き込まれる、なんてことはないよね?
帰りたい。
なんて事を思い、実際にヒルトを睨む女性と必死に誤解を解こうとするヒルト、という光景の横で静かに足を滑らせ、店から出ようとしたのだ。
だが、それは客が帰り、年が上の店員が店を後にしたその後も残っていた少女によって発覚してしまうことになった。
自分の無罪を一緒に晴らして、とグレンとアルスの腕を掴み引き留めるヒルト。
どうぞ、ごゆっくり。と凄みのある笑顔で引き留めるヒルトの妻だという女性。
そっと二人と店の入り口の間に立ち、出て行くことを不可能にした少女。
二人は成す術もなく、入り口から一番遠い場所に置かれていたテーブルへと案内されたのだ。
そして今、目の前に絶対に食べきれない量のパンが積まれ、食べ終わるまで帰さない、なんて目で語っている叔父を目の前にしている。
パクッ
「…美味しい」
帰りたくて仕方ないが、目の前に美味しい匂いを漂わせたパンがあって、食べ盛りの少年達が我慢出来る訳がない。ヒルトの期待の視線を浴びながら、積まれたパンの一つに手を伸ばすと、示し合わせたかのようにほど同時に口へ運んだ。
すると、そのパンはとても柔らかく、噛めば噛むほど口の中に広がってくる甘味があった。
作り立てというのもあるのだろうが、貴族の家、王宮で出されたといっても過言ではない美味しさがあった。
辺境伯領にもパン屋は数店あるが、そのどれもこの柔らかさはなく、味もお世辞でも勝るなんて言えないものだった。だが、普通なのは辺境伯領で食していたパンなのだ。保存が効く様にと旅人用に塩気が強いもの以外でも、固めで、ぱさつきのある。
王立学園や二人が住んでいる辺境伯が用意してくれた家は、王都でも端の方にあり、食事や買い物もその近辺で終わらせていた。そこで開かれているパン屋もまた、辺境伯領よりは質はいいとは言うものの、硬くパサつきのあるパンを売っている。
今食べたパンを知ってしまうと、これからは遠くて面倒でも、この表通りまで買いに来ようという気持ちになる。
「そうだろ、そうだろぉ!なんたって、この俺が丹精込めて作ったんだから!」
美味しい。
値段は?
うわ、安。
買い食いしているいつもの所とそう変わらないね。
ちょっとした運動だと思って、買いに来るか。
そんな事を二人で話していると、ヒルトが大袈裟な演技にも見える喜びようを見せ、誇らしげに自分の胸を叩いた。
「えっ!?叔父さんが作ってんの?」
「嘘、えっ、本当に!?」
「本当さ!この店のパンは全部、正真正銘、俺が作ってるのさ」
ふふん、と胸を張って鼻高々に誇ってみせる姿に、嘘は見つからない。
当時はまだ幼かった二人だって知っている問題児だったヒルトが、表通りという良質な立地にある店の一国一城の主となっているなんて。
信じられない思いに襲われた二人だったが、その姿に見えた嘘偽りの無い様子には、信じざるを得なかった。
「あんたに姪っ子なんて、居たっけ?」
ポンッポンッと麺棒で肩を叩きながら近づいてきた先程の女性が首を傾げて二人を見下ろしてきても、その驚きは覚めることなく、本来は感じていたであろう恐怖も何も掻き消してしまった。
夫であるヒルトを一度は麺棒を武器に殴った女性だったが、まだ大切な作業の途中だからと、一度店の奥へと戻っていた。ゆっくりしておいき、という言葉と視線、後でゆっくりと話を聞かせてもらうとと釘を刺していったのだ。
その作業が無事に終わったらしく、女性は戻ってきた。
肩幅が広く、ふくよかという事ではないが、女性にしてはがっしりとした貫禄のある体型。
髪は頭の後ろで一結びにかっちりと結ばれ、その上で大きな布で頭を覆っている。
貴族の女達のように化粧をしていることもなく、怒っている為に釣りあがってしまった目は二人の身を竦ませるに十分な威力があった。
綺麗、美しい、可愛いという、女性を褒める言葉を口にしたとしても、馬鹿にするなと怒鳴り返されそうな人だ。
幼い頃から元からの素地を磨きに磨いていたライナや、異母妹とは方向性は違うものの整った顔立ちをしているセリンサという姉妹を見て育ち、貴族の女性に囲まれて続けてきたヒルトが選ぶ人だとは、失礼ではあるが思うことは二人には出来なかった。
そもそも、貴族には平民よりも見目の整った者が多い。
これは長く続く、財力や地位のある血筋だからこそ必然な事で、その持つ財産や地位が大きければ大きい程、高ければ高い程、見目は整い、美貌を誇れる者が生まれてくる。政略結婚とはいえ、見目が良い方が相手からも望まれ、喜ばれるもの。貴族階級において、顔立ちがあまり、と陰口を叩かれてしまうような者でも、貴族以外の市井から見れば十分に見目の整った部類に入るのだ。そんな笑い話が平民の中にはあるらしく、しかもそれは様々な形で各国に存在しているのだと言われている。
「信じて、ノエル。こんなに君を愛している俺が浮気なんてするわけないじゃん!こいつらは正真正銘…ほら、ノエル…」
必死に無実を訴えていたヒルトが突然声を潜ませ、むっつりと不機嫌な妻の耳元で何かを囁いた。
「あぁ、あの。ふぅん」
何を言ったのか。
ヒルトの妻だという、ノエルという女性は若干目端を緩ませて、グレンとアルスを見た。特にグレンを長いこと見ていた。
「あんたの母親が店に来たことがあるよ」
面白いくらいにそっくりだね。先程まで不機嫌そのものだったノエルは、一瞬にして、ニッと威力のある笑みを浮かべたのだ、
「………なんで?」
どう答えていいのか。絵に書いたような貴族の女性が平民の店に何の用があったのか。
色々と聞きたいことはあるが、どれを聞いたらいいのかの考えが纏まらない。その為、グレンはそれらを一纏めにして、首を傾げてノエル、そしてヒルトへと一言で問い掛けた。
「まぁ、簡単に言うと、助けて欲しい、ってこと?」
「まどろっこしい。金貸せ、繋ぎをとれ、っていうのが簡単に言うってことだろ」
ヒルトの答えも手短で分かりやすいものの筈だが、ノエルのそれはそれ以上に明け透けで、子供でも理解出来る簡単さだった。
「それは、えっと。ご迷惑おかけしました」
ノエルの言った言葉を理解できれば、ただ来た、というだけでは収まらなかっただろうと予想がついた。自分で歩いて買い物に行くなんて、考えにも浮かばないであろう、母を思い出す。
七年前に生き別れたグレンの母は、名門侯爵家の一人娘だった。
建国から続き、時には宰相や重要官僚、王妃、王母となった側妃などを輩出してきた名門ではあるものの、近年ではそんな事もなく、領地からの収入と名門という矜持だけの家。そんな家に生まれた彼女は高位貴族として不足など有り得ない程の教育を受け、育った。
身の回りのことは、着替えも入浴も、何一つとっても侍女が行うことが当たり前。欲しいものは一言で命じさえすれば、すぐに部屋へと用意されてるいる。自分で何かするなんてはしたないことなのだ。そんな人が、パン屋という一生無縁であろう店に来たなんて。
迷惑を掛けなかった可能性の少しはあるかも知れないが、不快な思いをさせてしまった可能性は高い。
別れたのは七年前。グレンが七歳の頃だ。
子供だが、もうしっかりとした自己を持っていた。
その頃の記憶からも、あの人に常識とかを求めても無駄だと理解している。
家を昔のように盛り立てる為に必要なことだと父に言われ、西大公家と縁続きになる為に次男を婿にとり、子を産んだ。ただ、それだけのこと。西大公家との縁が望めないのならこの結婚は不用。不利益しかないのなら、その血を持つ子だって跡継ぎだろうと必要ないでしょう?
確かにその考えは、今までも、そしてこれからもきっと、貴族の娘としては極普通の考え、身の振り方ではあるのだろう。
だが、それを子供の見ている目の前で、冷たい声音で言い捨ててしまうのは、どう考えてもおかしいだろう。
たった一回だけグレンを見た目にはもう、無関心の冷たい色しか無かった。グレンにとって、それが母の最後の姿だ。今でも忘れることは出来ない。
そして、その姿、その声、その光景を思い出す度にグレンは思うのだ。
父が「俺にはお前が必要だからな」と抱き締めてくれて、叔母が自分達親子だけでも大変だという中で実子と変わらない愛を注いでくれて、アルトとエリナがその純粋さ全てで兄と慕ってくれた。それが無かったら、きっと自分は堕ちるところまで堕ちて、荒れ果てていただろう、と。
母性は女性が皆、持っているものではないらしい。
それは子供を産んで、子供を育てている内に共に育っていくものだと、学園に入り、この国一番の蔵書量を誇る図書館の中に見つけた本に記してあった。
それならば、あの人があぁだったのも仕方ない、とは少しだけだがグレンは思えるようになってきた、
子供を産むとすぐに、乳母をつけるのは貴族の常識だ。
赤子に乳を飲ませるのは乳母が。おしめを替えるのも、服を着せるのも、乳母の仕事。
初めて子供が言葉を出した瞬間を見るのも、はいはいした瞬間も、歩いた瞬間も、見るのは乳母や教育係達。
母と子の接触は、あまり子供に興味のない母親ならば、一日一度有れば良い方。その際に、自分の腕に抱くこともしない母親も居るらしい。
きっと、最良の教育を受けたあの母はそんな母親の一人だったのだろう。
それならば、自分を完全に他人を見る目で見ていたことも、仕方ないことだろうと諦めがつけれそうだった。
「繋ぎって、何?ハンス叔父さんやグレンを探してた、ってこと?」
細かいことなど知る筈のないアルスは簡単にそう言うが、グレンはそんな事は無いと信じている。
「さぁ。でも、北大公派がほぼ瓦解した感じになってるから、大分、苦しい立場にあるみたいだって話だし。だけど、なんで叔父さん?」
肩を竦めて分からないなと、ハンスは表現した。
だが、何をしようにしたとしてと、まだ信じられないのだがパン屋の店主、パン職人らしいヒルト相手に、どんな貴族や有力者へと繋ぎをとれなどと言うのか。
「うちの顧客には、貴族の家もあるからねぇ。知らぬ仲ではないのだから取り持てって言われてさ。その微妙な言葉のせいで、ノエルにも、ルシータにも、疑われて。俺、ちょーショックだったんだから」
「それについては謝っただろ。元々、疑われるような事の多いあんたが悪いんじゃないかっ」
「全部、過去のことだよ。七年前に、君とこの店と、あのパンに出会ってから、他になんか目が行く訳ないじゃん」
ていうか忙しくて、そんな事してる暇ないのは知ってるじゃん。
そうだけど。やっぱり、あんたみたいな奴が私なんかとって。こんな十も年上の女…。
もぅ、信じてよ。俺の今なによりも大切なのは、君と、この家族連れと、この店なんだよ。
アルスとグレンがすぐ目の前に居ることも忘れ、ノエルとヒルトは夫婦の、口を一切挟ませない話し合いに突入してしまった。
口は挟めないし、暫く二人の世界から戻ってきてくれそうにもない。
「食べて、待ってる?」
「そうだな」
ジュール家の話の続きも気になるし、先程知ってしまったパンの美味しさのせいで目の前のパンの山を放って帰るなんて考えられない。
目の前の夫婦が戻ってきてくれるまで、とアルスとグレンは手を伸ばし、パンを口へと運び始めた。
「お茶、冷めたと思うから」
ぶっきらぼうな声で二人の前に置かれたカップを引き、温かな湯気をあげるカップを置き直してくれたのは、店員の片割れで、店の入り口近くでずっと様子を窺っていた少女だった。
グレンよりも少しだけ背の高いことから、何となく14歳のグレンよりも年上かな、とは思うのだが、正確のところはまだ分からないな。
分からないなから、一応は、と丁寧な言葉を心掛けた。
「ありがとうございます。えっと」
「ノエルよ。ここの娘」
「………つまり、叔父さんの娘?」
「義理のね」
二人は叔父に聞きたかったことの一部を聞いてしまおうと考えた。
「ねぇ、あの人はどういった経緯で此処に?」
「本当の父親は私が小さい頃にいなくなって、その後は母と二人でこの店を営んでいたの。そこに七年前、お父さんが押し掛けてきたのよ」
第一声は「何このパン、まずっ」だったわ。
思わず、まだまだ夫婦の会話の終わりそうにない叔父を、アルスとグレンは凝視した。
王宮に勤めている際には、配属された部署における上司の頭を儚くし、胃を真っ赤に染め上げたという、あの叔父ならばやりそうだとは思う。一応、話に聞いたところ、仕事が出来ない訳ではない。それ相応の勉強を修めてきたのだがら、無能という訳でもない。ただ、きちんと仕事をした上でのふざけや悪戯、何よりも上司よりも他の多くの官吏達よりも背後に聳える階級の高さによる弊害というものが凄かっただけなのだ。
「えっと、ごめんなさい」
自分のことではないが、身内の不始末に身がすくんだ。
「別に。昔の事だし、今のお父さんが作ってるパンを食べちゃうと、あぁ不味かったなって思うもの」
「えぇ、本当に作ってるんだ!でも、料理なんて作ったことも無い筈なのに…」
ヒルトは、王族に次ぐ地位にあった大貴族の、三男とはいえ息子。軍人ならば訓練の一環で野外での調理などを体験するのだが、文官にその機会は無い。料理なんてする必要も、機会も無かった筈だ。
「うん。口だけは凄いこと言うんだけど、全然だったわ。でも、二・三日姿を見なかったと思ったら、パン作りの基本を完璧にしてきたり、あの柔らかいパンの作り方を調べてきたり。たった半年で、元々のパンより美味しいのを作っちゃったの」
それから段々、お客も増えていって。
七年はあっという間だった、とルシータは苦笑を浮かべた。