始まりは近くて遠い、知らない所で。
「お放しなさい!私が誰か、分かっていての狼藉ですか!?」
滅多に聞くことのない叫びにも似た叱責の声が、その少女の口から飛び出る。
確かの、その言葉は大きな力を持つものだった。
少女の名は、ライナ・クルーダ。
クルーダ西大公家の末娘として生まれた彼女は、三歳にもならない内に同年に誕生した皇太子の婚約者という栄誉を得た。
王家と祖を同じくする高貴なる血に、年の離れた兄姉達は皆優秀さを知らしめ、何より結婚前には美姫として三国先にまで心酔者を生み出していたと名高い母の娘であると一目で理解出来る容貌。
その決定に声高に異を唱えることの出来る者など、同格にある四方大公家内からも出はしなかった。
このアルデヒル皇国では、王族、貴族、そして特に優秀として貴族の後見を得た平民は十二歳から四年間、王都の端に設立された王立学園に通うことを義務付けられている。女生徒の中には四年の歳月を待つことなく嫁ぐなどの事情で学園を去る場合もあったが、男子生徒においては全員が十六歳の卒業を持って、後の進路へと繋げている。
その学園の中では身分に重きを与えずという規律が存在していることになっていたが、貴族社会に生まれ育ってきた子等がそれに准じることもなく、代々学園内は将来に向けての静かな勢力争い、繋がりを得る為の戦場と化していた。
その中において、ライナ・クルーダは絶大な権力を誇り、大きな派閥さえも形勢した。
皇太子の婚約者。
それが彼女の最大にして、最高の武器であった。
同年たる皇太子自身も学園に在籍してはいたが、そう易々と護衛が常に侍る皇太子に近づこう生徒など居るわけはなく。そういった者達がそれでも皇太子との繋がりを得たい、将来の為、家の為に、と媚を売って近づくのが将来の皇太子妃、その先に王妃、国母ともなるライナだったのだ。
学園内において、皇太子の傍に侍り婚約者としての役割を果たしながら、ライナはまるで女王のような影響力を隅から隅へ伸ばし、四年という年月を過ぎようとしていた。
「放せというのが、分からないのですか!!」
そんな彼女が今、両腕を騎士服を纏った青年達に掴まれ、身動き一つ許されぬ状態に貶められていた。
何時ものように堂々とした物言いで手を放せ、無礼者と青年達に命ずるが、眉根一つ動かすことなく彼らはライナの命を無視してのける。
その光景に周囲の生徒達は皆、驚きながら、唖然としながら、あるいはホッと安堵の表情を浮かべながら、助けるような仕草も見せずに、ただ見ていた。
「ライナ」
「殿下!あぁ、殿下。どうか、この者達を」
「その者達は私の命にのみ動く。そうでなくとも、お前の言葉など、もう誰も聞きはしない」
「なっ」
愛しい将来の夫、皇太子の登場に助けを求めようとしたライナだったが、その言葉は皇太子自身によって遮られ、そして無碍に切り捨てられた。
どういうことか、とそれまでは少しの動揺だけを覗かせようと余裕のあった顔色を一変させ、ライナは皇太子に詰め寄ろうとするも、それは両腕を捕らえる騎士達によって力強く押し留められてしまう。さらには、ライナの体は力尽くに地面へと跪かされた。何より、ライナにとって許しがたかったのは侍女達に美しく整えさせた頭を鷲掴みにされるという、西大公家令嬢たるライナにとって初めてで、屈辱以外何者でもない行為だった。
だが真っ赤に燃え上がった顔色も一瞬にして、青白いものへと変化する。
見上げた皇太子の目が、とても冷たく、切り裂くような鋭さをもってライナを見下ろしていたのだ。
初めて向けられるその眼差しに、ライナは声を振り絞ることも出来ず、カタカタと体が無意識に震え出していた。
「ライナ。お前は美しい。そして、賢い。私の妻として王妃となっても不足の無い女だった。私も、父上も母上も、多くの貴族達がそう思っていた。だが、それは大きな間違いだったのだな」
「な、何をおっしゃいますの?」
「身分を笠に、傲慢の限りを尽くす。すでに調査は終わっている。お前が何を語ろうと、否定しようと、誰もお前を信じたりはしない。報告を聞いて目を疑ったよ。お前の傲慢の限りに気づきもしなかった自分の節穴さに。私の私財から、お前の非道によって学園を去った者達、心を病んだ者達への謝罪金を出すことにした。それだけでは足りぬだろうが、私に出来るせめてもの誠意としてだ」
少しでも気に入らぬと思えば自身の手を汚す事なく、ライナはその者に対する酷いいじめを起こさせ、学園を追い出す、それだけならまだしも心を病ませる事もあった。
「何よりお前はあってはならない罪を犯した。この国にとって何よりも重んずるべき友好国、エリノア王国の王族の姫に対しての度が過ぎる非道の主導。ライナ、これは国家への反逆とも取られる愚行だ」
「エリノアの、王族?」
ライナには理解できなかった。
彼女は慎重に、自分の立場が絶対に傷つくことのないように、あらゆる事を運んできた。
同盟国の王族を傷つけるなど、友人関係を築くならばまだしも、害成すことなど有り得ない。
ここ最近でいえば、ライナはある女生徒を標的とさせていた。
ライナの大切な皇太子に不相応にも近づき、馴れ馴れしくする、不逞の輩。
だが、それは正しき行いだったのだ。
貧しい子爵家の姪という、ライナからすれば不確かな立場しか持たないくせに、皇太子に媚を売ってライナを蹴落とそうと試みた不届き者に、仕置きを与えていただけ。身の程を知って立ち去れ、と示しただけ。
何が悪いのか、とライナは信じている。
「そうだ。エリノアの王弟の娘であるカガリへの愚かな行為の数々、許されることではない」
「えっ?」
それはライナが何よりも憎む、不届き者の名前。
どうして今、皇太子の口から出るのだろう。彼の言っている意味が分からない。
分からないまま、時間は確実に過ぎ去っていく。
「お前の悪事、そしてお前という存在を笠にきたクルーダ西大公家の悪事の数々、全て白日の下となった。これまでの国への献身、その立場の大きさを踏まえ、西大公家断絶の憂き目を王家は望まない。だが、現当主とそれに連なる者達を貴族籍より除名し、縁戚にあたる者を王家が選出しクルーダ西大公家の新たな当主に添えることとなった。お前が犯してきた罪を思えば、これは恩情であると思え」
クルーダ西大公家令嬢ライナ。
見目麗しく、気品と知性を持ち合わせ、未来の国母となる事を幼い頃より定められていたその人は、皇国において類を見ないスキャンダルを巻き起こし、その地位を剥奪されるという記録を残した。
地位も名誉も、何もかもを失った彼女がこの後、どんな生き様を見せ付けるのか。
それは神のみぞ知る事だった。
彼女の物語の中で局面とも言えるこの日、その物語の影でひっそりと、見定めていた人生を大きく狂わせた者達が居た。
そんな事など、稀代の悪女と歴史に名を留めることとなったライナ・クルーダや、過ちを許さぬ名君と誉れる皇太子、貧乏貴族の生活から王妃へと駆け上がり伝説と化した幸運の姫君カガリの華々しい物語に比べたなら、些細で語る価値も無いものだろう。
だが、そこには確かに一人の女性の、予想外、予定外、という驚きに満ちた物語が存在していたのだった。