優しい社長さん
きっと、私は何か言いかけたんだろう。
だって唇は頭で考えるより先に開いていたのだから。
けれど私の言葉はどこか彼方へ消えてしまった。
「……会いたかった」
いったい何が起こったのか。
気が付いた時には柔らかく大きな人に抱きしめられていた。
言葉にならなかった言葉の代わりに吐息を漏らすと私を囲う腕はいっそう強く私を閉じ込めた。
「花さん」
どさり、と慰みにもらった送別のお菓子と自分の鞄がどこか遠くで落ちていく。
慈しむように頬に冷たい手を添えられて見上げるとこちらを痛いほど見つめる視線が降ってくる。
現実感の薄いその人の鼓動が私の体を包みこんでいた。
――この人は、目の前の社長さんは幻じゃない。
ようやく現実を得た私が彼を見つめ返すと、問いかけるように彼の双眸が細められる。
こんな薄闇で相手の表情が分かるほど近いのだ、と分かると急に身の置き所が迷い出す。
「あの…」
頬が熱くなるのは焦りだけではないと分かっていてもこれは決して乙女じみた恥じらいではないと自分に言い聞かせ、困ったように見上げると社長さんも困ったように微笑んだ。
「花さん」
「……はい」
「ごめんなさい」
何に対しての謝罪なんだろう。
そうぼんやり思った今日の私はやっぱりのろまだった。
声を上げる前にお綺麗な顔があっという間に近付いて、私の唇を薄めの唇が攫っていった。
焼けるほど熱い唇が這い、冷たい手が私の頬を包んで放さない。
ねぶるように、食むように、味わうように、口付けられた唇は私を逃がさず周到で執拗だった。
ようやく離された時には息が上がって体の芯が熱い。
ふらつきそうになる体を自力で支えようとするが、私の体温をすっかり吸って温かくなった冷たかったはずの手が頑丈に私を支えた。
何だこれは。
どうしたんだ。
私はさっきまで皆が一目置くようなキャリアウーマンだったんじゃないのか。
派遣会社にだって今や腫れもの扱いされるほど、肩で風を切って歩いていたはずだ。
それがこんなキス一つで支えがなければ立っていられないなんて。
恥ずかしさと悔しさと、あとは得体の知れないものがない交ぜになって私はどうしたらいいのか分からなくなって、思わず手の甲で唇を隠していた。唇が熱いのが、なぶられて腫れていると分かりたくもなかった。目には薄い油膜が張って滲んでいる。溢してしまえば、きっと元には戻らない。
自分が情けなくてどうしようもなかった。
全部自分で出来ると思っていたものが、全部思いこみだったと思い知らされるようで。
「……花さん」
社長さんは以前の優しい顔のまま、以前とはまるで違う強引さで私を抱え込んだままだ。この人は、私の知る社長さんなのだろうか。
自分のことで手一杯の私に、社長さんはゆったりとこちらに視線を合わせて覗きこむ。
「どうか、逃げないで」
ゆっくり、じわじわとした彼の吐息が、私が唇を覆う手の平をなぞっていく。
「花さん」と吐息が私の手に軌跡を描き、その熱さに私はびくりと体を震わせた。
「――あなたが好きです」
告げられた言葉よりも雄弁に語る唇が、私の手に刻むように「好きです」と繰り返す。
(あつい、こわい)
私は熱く揺れる瞳と唇に呑まれておののいていた。
本当に、この人はあの優しい社長さんなのだろうか。
同じ顔をした別人ではないのか。
ならば知らない人なのに、どうして私はこの人を振り払えないのか。
――この人が、どうしてこんなにも恐ろしいと思うのだろうか。
まるで何も知らない少女のように、私は震えていた。
目の前の人の激情に襲いかかられて、恐怖に足が竦んでいる。
(しっかりしろ)
なけなしの勇気を書き集められたのは、私のプライドのせいだろうか。
兎だって狼に狙われれば必死で逃げる。
そういう本能めいたものだったのかもしれない。
喉はからからに乾いていたが、私はかすれた声を上げていた。
「……どうして」
手の平に口付けられたまま、私は熱に揺れる瞳に問いかける。
「どうして、私を捕まえようとするの」
私を見つめる瞳が見開かれた。
緩くなった拘束をすり抜けて、私は何も考えずに走り出していた。
誰も居ない会社を一人で走る。
そんな馬鹿げたことをしているなんて、自分が自分で信じられない。
どうしてここに彼がいるのか。
私が慌てて退職を早めたからか。
派遣会社から情報を引き出したのか。
今日ここに私が確実にいると知ったから待ち伏せていたのか。
こうやって走って逃げられれば追いかけたくなるに決まっているのに、どうして逃げているのか。
私は彼に追ってきてほしいのか。
逃げたい、逃げたくない。
気付けば私はよく音の響くパンプスすら脱ぎ捨てて走っていて、どこをどう走っているのか自分でも分からなくなっていた。
勤めていたとはいえ、自分の会社を隅から隅まで歩き回るわけではないのだ。
運動不足の現代人がビルを長く走り回れるはずもなく、私は自分でもよく分からない廊下で座り込んでしまった。
(……なんて馬鹿なことを)
いつのまにか噴き出していた汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を両手で深く覆う。
中学生じゃあるまいし、いい年した女が会社を逃げ回るなんて何の冗談だろう。
なりふり構わないことにもほどがある。
もう来ないで、来ないだろうと考えていても、心の奥では来てほしいと思っている自分がいて嫌になる。
(――どうして、ここに来たの)
私の知っている黒川社長なら、遠回りでも携帯の番号を尋ねるとか、呼びだすとかそういう穏やかな方法を取ってくれたはずだった。
派遣会社から手を回すなんて方法は大人のやることじゃない。
今だってそうだ。無理矢理にも近い形でキスをするなんて、子供が駄々をこねているようなものだ。
私たちは大人なのだ。考えることはたくさんある。
自分のこと、会社のこと、家族のこと、将来のこと。
一時の感情だけではどうにもならないことがあると、知っているはずだ。
社長にまつわる心配事なんて私でも幾らでも思い浮かぶ。
結婚だって周りに反対されやしないか、社長夫人なんて私には務まらないし、あの人と結婚してしまったら実家の食堂はどうなるんだ。
(それでも)
それでも、どうしても抑えきれないことがあるのも知っている。
理由なんてどこかへ消えて、言葉さえも届かないことがある。
そんな時は、私だって考えない。
おいで、と言われれば、きっと素直に自分で歩いていけるのに。
顔を覆っていた私は気配にも鈍感だった。
ダン! という音に気が付いた時には大きな影に囲われていた。
「――どうして捕まえようとするか、だって?」
低い、低い声が私を突き刺すようだった。
辛うじて見上げると、座りこんだ私を壁と影が覆っていた。
わずかな光を集めて揺れる瞳がこちらを捉えて離れない。
「あなたが好きだからだ」
強い言葉で縛り上げるように、彼は唸った。
「あなたが好きだ。欲しい。抱きしめていたい!」
言い訳も通じない言葉に私は息苦しくなって喘ぐしかできない。
そんな私に彼はなおも言い募る。
「あなたが好きだ。好きだから離れたくない…!」
まるで懇願を叫ぶようだった。
喉を破るような叫びに、私は耐えきれなかった。
「…お…大きな声で怒鳴らないで…!」
じわじわと湧き上がる衝動を抑える力はもうなくて、私は子供のように泣いていた。
しゃくりあげるのをやめられず、わぁわぁと泣き叫ぶ。
化粧が流れるとか、こんなのみっともないとか、常識みたいなものも流れて落ちて行くようだ。
「……すみません」
泣いた子供には勝てないからか、怒気にも似た気配は次第に失せて困り果てた顔が私を覗きこんでいた。
「花さん」
躊躇うように差し出された腕に私は逆らわなかった。
それにほっとしたように「怒鳴ってすみません」と囁いて私を胸に抱きこんだのは、私の知る優しい社長さんだった。
大きな手があやすように私の背中を撫で、乱れた髪を梳いて撫でる。
それが心地よくて彼の胸にすり寄ると、溜息のような笑い声がする。
「……可愛い。猫みたいで」
褒められているのか馬鹿にされているのかよく分からない。
猫じゃない、と拗ねるように彼のジャケットを緩くつかんだ。
素直になれない自分がもどかしくて、それでも顔をあげられなくて私は彼の胸にうずくまったまま呟く。
「……ごめんなさい」
素直になれなくて、何も言えなくて。
私の呟きを受け取ったらしい社長さんは、私を柔らかく抱えた。
「こちらこそ」
お互いさまだという彼の声がすとんと私の胸に落ち、私はその心地良さに目を閉じた。