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豆腐屋の社長さん  作者: ふとん
8/13

困惑の社長さん

 それは、一本の電話から始まった。


「……これからですか?」


 いつものように事務仕事を終え、定時で帰ろうとしていた私の携帯に一本の電話が入った。登録している派遣会社からだ。

 こういう場合、何かしらのトラブルがあったか何かなので用件を聞き出そうとしたが、


『とにかくこちらへ来てもらえませんか』


 この一点張りで話にならない。

 仕方なく私は実家の母に今日は食堂に出られないと連絡してから、派遣会社の呼び出しに応じることにした。


 今の会社から派遣会社までは電車を乗り継いでいかなければならない。面倒事に付き合わされそうだという勘から私は駅ナカにある立ち食いそばをかきこんで向かうことにした。空きっ腹ではどうしても忍耐力が足りなくなるからだ。お腹が空くと早く帰りたくて面倒なことを安易に引き受けてしまうことがある。


 そういう類の面倒なことが待ち構えているという妙な勘が働いていた。


 そしてそれは案の定、当たったのである。



「こちらに、移っていただけませんか」


 今流行りの足長スーツに身を包んだ若い男性社員が神妙で、かつ何となく偉そうな面持ちで私の前に書類を差し出してきた。

 

 派遣会社に着いた私は受付からすぐに会議室の一室に通された。プレゼンでもやれそうなほど広くてプロジェクターが奥に見える、広い会議室だ。普通の面談であるなら幾つも備えてある狭い面談室を使うはずだが、今日に限って背の高い派遣会社のビルの上部にあるちょっと上等な会議室のようだった。

 オシャレなデザインチェアに座らされたかと思えば、挨拶もそこそこに足長スーツが書類を差し出して妙なことを言いだしたのである。

 警戒しない方がおかしいだろう。


「あなたにとっても悪い条件ではないはずです」


 悪いかどうかは私が決めることなので、とりあえず書面に視線を滑らせることにした。

 そこには、


「……転職?」


 そこには、転職希望と書かれてあった。そんなもの出した覚えが無い。


「あの、これはどういう…」


「こちらの会社があなたを引き抜きたいとおっしゃっているんです。業務内容はご覧の通り、秘書となります」


 いやいや、ご覧になっていますがこれはどういう話なんだ。

 まるで決定事項みたいに言うんじゃないよ。

 

 書面から顔を上げてみると、足長スーツの綺麗に整えた顔が少し曇る。私の反応が鈍いのが気に入らないんだろう。困った。とんがり頭の紳士靴も香水の匂いまで鬱陶しくなってきた。

 仕事は目の前の人で決めるわけじゃない、と私は再び書類に目を走らせる。


 転職希望、と書かれてあるが書類の内容は業務の説明と給料の内容だ。業務は秘書、給料はなんと今の職場の三倍。秘書検定級を持たない場合は資格取得に必要な講座の受講料から試験費用まで負担するとある。なんだこれは。


 懐疑心いっぱいで最後まで読み進めた私はとりあえず書類をテーブルに置いて足長スーツに返した。


「どういう理由でこの書類が作られたのか説明していただけませんか」


 理由を尋ねられると思っていなかったのか、足長スーツは慌てたように返された書類と私を見比べた。


「ですから、今の職場よりも条件が破格で…」


「転職希望を私は出していません」


「これを機に秘書への転向も…」


「考えておりません。元々秘書になる気はなくて検定を受けたこともありませんので」


「こちらの会社ではあなたの能力を高く買っておられるようで…」


「そちらの会社に私は面接を受けたこともありません」


「転職すれば、あなたのスキルアップも見込めますし…」


「今、実家の方で経営を学んでいる途中ですので、ゆくゆくは事務員も辞める予定です」


 最近では料理学校に通って一から料理を学ぶのもいいなと思っている。経営学は大学で少しかじったが、もっと専門的な講座でもないかと探している。


 立て板に水を流すように答える私に、とうとう足長スーツは横板に雨水を垂らすように黙りこんだが、書類を睨みながら彼は唸った。


「……何が気に入らないんですか。あなたが優秀だからとこんな大会社が誘っているんですよ! 黒川コーポレーションが!」


 何が気に入らないって、どれも気に入らないに決まっているだろう。

 一番気に入らないのは黒川コーポレーションだ。

 何であんな大会社が派遣で秘書なんか欲しがるんだよ。


「この話を蹴ればあなたの心証が悪くなって、今の仕事も続けられなくなりますよ」


 今の会社は悪い会社ではないが、そこまで忠義心を捧げている仕事でもない。


「事務員を辞める時期が早くなるだけですね」 

 

 怒鳴っても強請っても無駄だとやっと分かったのか、足長スーツは縋るように言い募る。


「お願いします、助けると思って転職してください! 黒川コーポレーションとの付き合いが無くなると我が社の派遣先の多くが無くなることになるかもしれないんです…!」


 泣き落としにまで入ってくると香水もとんがり靴も憐れになってきた。


「わかりました」


「じゃあ…!」


「この派遣会社を辞めます」


 足長スーツの顔から血の気が失せた。

 彼は意外と会社に尽くす真面目な社会人だったようだ。格好で判断して悪かった。

  

「先方にはすでに辞めた人だと説明してください。退職届は自分で出します。一身上の都合としますので、今の会社の方にはそちらからもお詫びを申し上げてください。有給は無しで結構です。仕事の引き継ぎなどもありますので二、三日は時間をください」


 よろしくお願いします、と挨拶もそこそこに席を立つと、足長スーツの引きとめる声を背中に私は会議室を後にした。


 足長スーツも非常にテンパっていたが、私も大分テンパっているのだ。


 なぜ。

 どうして。

 疑問符が頭の中をぐるぐるとして、普段ならばもっと慎重に根回しをするところをこちらにほぼ主導権があると見るやほとんど強引に話を断ち切って、意見を押し通してきてしまった。

 

 立ち食いそばを腹に入れていて良かった。空腹だったら倒れていたかもしれない。そして知らない間に転職していただろう。

 

(冗談じゃない)


 どうして私の仕事先まで他人の都合で左右されなくてはならないのだ。

 そしてこんな風に他人の人生を左右できてしまいそうな人に、一人だけ心当たりがある。


(社長…)


 黒川コーポレーションの、あの優しい社長の顔が浮かんで私は深い溜息の内に沈めた。





 それから私は急ピッチで退職の準備を進めた。

 退職届を出し、派遣会社の足長スーツを半ば脅して(会議室の件ですっかり怯えられた)次の派遣社員まで用意し、仕事の引き継ぎを行った。

 私の精力的な活動を見ていた上役が正社員にならないかと誘ってくれたがそれは丁重にお断りした。こうなった以上、この会社にはいられない。


「急に辞めちゃうなんて、聞いたからてっきり結婚するんだと思ってました」


 お腹が大きくなる前に、と年下で結婚に憧れている井川が悪びれもなく言うのに苦笑する。「そうだと良かったんですけどね」と実家の都合だと私は彼女に理由を並べた。会社への説明もこれで通している。引き抜きの云々は、私と派遣会社(足長スーツくん)のあいだだけの秘密だ。


 自分でも、こうも急に決めてしまうのはどうなのかと思う気持ちもある。

 第一、この面倒事にあの社長が関わっている確証はないし、本当に秘書として雇いたいという話なのかもしれない。

 私の勘違いであるならそれでいいのだ。

 私の思いこみであるのなら、きっとこれは私の岐路だったのだ。


 しかし思いこみではなかった場合。

 その答えが一番怖い。


(どうして今更こんな手段…!)


 今まで社長らしいことといえばブラックカードぐらいだった彼だ。

 こんな手段を使うと考えたくも無かったし、使って欲しくも無かった。



――私は、人生でこれ以上なく焦っていたのである。


 私は、何も言わずに派遣会社で事務員の仕事を始めた。

 何の相談もせず、彼との交流を断ち切ったのだ。

 優しいあの人のことだから、許してくれるだろうと甘い考えもあった。あったのだが、今の私は罪悪感でいっぱいだった。


 私には目標がたくさんあって、その中にプロポーズという形で突然飛び込んできたあの人が本当は怖かった。

 どうせ冗談だろう、と片付けてしまいたかった。

 逃げる理由が欲しかったのだ。


 真っ直ぐ過ぎるぐらいの言葉と、それを受け入れ始めている自分から。


 


 ようやく仕事の引き継ぎを終えて退職出来るその日、送別会をやろうという井川の誘いも断って私は定時より少し遅い時間に会社を出た。送別会をやらないということで、何人かから送別のお菓子をもらったので少し荷物が重い。

 

 残業を減らそうという企業努力をする会社なので、定時を過ぎるとほとんど人気はない。 

 けれど照明を少し落とした会社のロビーに人影がある。

 巡回中の警備員かと思ったが、それなら懐中電灯ぐらいは持っているはずで、そして柱の隣で立ち往生もしないだろう。

 柱によりかかるその人影は近付くほどに長身であることが知れ、会社ではまず見ないラフなジーンズとジャケットという姿であることが知れた。


(まさか、不審者…?)


 警戒して歩みを緩めた私に相手が気付いたのか、人影が大きくこちらへと足を踏み出してくる。

 こつこつ、と簡易照明で長く伸びた私の影を踏むようにして向かってくるその人の顔が見えるに従って、私は完全に足を止めた。 


 記憶にある整った髪よりも少し崩した髪型が彼を少し若く見せていた。

 だが、鋭い刃でも仕込んだように鈍く光る瞳が私を切り刻むように見つめていて、息をするのも苦しくなる。


 この人はこんな顔をする人だっただろうか。


「……久しぶり」


 久しぶりに再会した黒川社長は無機質な光に浮かびあがるように儚く、亡霊のように佇んでいた。




※週一の更新に遅れたので明日も続きを更新します。

※少しだけ修正しましたが内容に変更はありません。

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