ブラックカードの社長さん
私の再就職先は、派遣会社から紹介された事務だ。
以前の総合職から比べると、企画もプレゼンもしなくていい環境は少しだけ物足りなさも感じる居場所だったが、決まったことをやって決まった時間に帰ることのできる仕事は、実家の食堂を手伝っている私にとって都合のいい職場だった。
今回の職場の人達はいい意味で気の抜けた、気楽で良い人たちばかりなので、私の毒舌が火を噴く機会は今のところない。
私の再就職を父母は応援してくれた。
嫁にも行かず、無職で実家に居候しているのはよくないと背中を押してくれたのだ。
しかし、ただ一つだけ尋ねられた。
じっと私の話を聞いていただけの、無口で頑固な父がぽつりと言った。
「お前はそれでいいのか」
それ、が何で、どれがいいのか。
固有名詞の入らない言葉に私は少しだけ押し黙ってしまった。
――本当にそれでいいの?
父の言葉を自分でも確かめてみて、やはりそれでいいのだと思った私は父に頷いていた。
私の顔を見ていた父は「お前がそれでいいならいい」とそれだけ言って仕込みに戻っていった。
母は私の顔をしばらくじっと見つめていたが「変なところでお父さん似ね」と苦笑した。
私は、とても恵まれているのだと思う。
騒がしいが優しい家族がいて、実家があって、食堂があって、なかなか会えないけれど友達も居て、こうして仕事も手に入れた。
優しい人たちに囲まれて、命にかかわるような最低なこともなく、悲しいことがあってもきっと誰かが助けてくれると思えるから。
だから私はきっと贅沢なのだ。
「……またそのドーナツですか?」
私より年下の、正社員の女の子が私の手元を覗きこんでそんなことを言ってくる。
昼休みに私は自分のデスクで食べることが多いので、弁当と一緒に取り出されるパッケージを見て彼女は笑ったのだ。
「好きですよね。そのドーナツ」
年上の派遣社員にも物怖じしない彼女が私は結構好きだった。
「井川さんも一つ食べますか?」とパッケージを開けようとするが、彼女は慌てて私を制する。
「いえいえ。いくらおからだからって、食べたら太りますから」
太っているようには見えないのに痩せたいのだという彼女、井川は、昼ごはんはスズメのご飯のような小さなサラダ一つだ。
「神埼さんは太ってないからそんなこと言うんですよー」
しゃくしゃくとサラダを食べる井川を眺めながら、私も食堂の残りを詰めた弁当を開いた。
肉じゃが、漬物、卵焼き、唐揚げのあんかけに豆ご飯。
デザートは、最近流行りのおからドーナツ。
「――あら、高校生男子みたいなお弁当ね」
ずばりと私の茶色い弁当をそう評したのは綺麗なネイルの爪だった。
財布だけ持った華奢な彼女はくすくす笑って他の女子社員と昼休みの職場を出て行く。今日も外でランチなのだろう。彼女たちは私と同じ派遣社員だが、美貌を買われて来客の接待も時々申しつけられている。忙しい彼女たちのサポートが、主な私の仕事であった。
くるくるとコテの入れられた巻髪の先を見送っていると、井川が「ふぅ」と大げさな溜息をつく。
「神崎さんと同じ派遣なのに、ああしてこれ見よがしにランチ行くんですよっ」
派遣社員の給料のことを指さしているのだろうが、微妙に失礼な井川を私は笑う。
「見栄だって必要ですから」
今でこそ実家のおかずを拝借している私だが、以前の職場ではおしゃれなランチに出かけていたものだ。仲間と出かけて情報交換をするためでもあったが、大きな理由は見栄だった。私の仕事は他人からどう見えているのかも重要で、その評価が仕事にも直結していたから。
井川は納得いかないような顔をしていたが、思いなおしたように「神埼さんは仕事が早くて助かってます」と付け足した。
他の派遣社員の仕事を請け負ったからといって、別に難しい仕事をしているわけではないので何の苦にもなっていないのだが、「ありがとうございます」と返しておくと井川は素直に満足そうな顔をしてサラダに意識を戻してくれた。可愛いものだ。
(――ちゃんと、食べてるのかな)
おからドーナツの包装を眺めながら、私はいつもとりとめもない不安に心の底を焦がされる。
(社長さん)
昼間の食堂には変わらず通い続けているのだと母や常連さんから聞かされているが、そういえば昼以外の食事はどうしているのだろうか、と再就職してみて初めて思い至ったのだ。
もちろん彼一人の体ではないのだから体調管理はきちんと誰かがやってくれているのだろうが。
彼の周りにはたくさん人がいるはずだ。
家族、部下、秘書――もしかしたら恋人も。
結婚を申し込んでいた相手と会えないのだ。
きっと手近な人間がいなくなったら他の人に目が向かう。
食堂に通い続けているのは、うちの食堂の味が気に入ったから。
それでいいのだ。
パッケージをばりばりと開けて、今日も私はドーナツを食べてやろう。
甘い思い出だけあれば、それでいいのだから。
――今でもよく覚えている。
その頃の私は、最悪だった。
依願退職だったとはいえ、上司からの肩たたきで事実上解雇となった私は、実家に帰ってからもくさくさした気持ちを捨て切れずにいた。
仕事もプライベートも充実していた私がなぜ、という悔しい気持ちの方がいっぱいで、くたびれた実家の食堂を手伝っている自分がとても惨めだった。
もちろん実家の食堂を手伝うことは嫌いではなかった。むしろ食堂を今よりもっとよくしたいとまで考えていて、いずれ寿退社したら今までの稼ぎでおしゃれな食堂に大改造するのだと果てない夢を見ていた。
今から思えばひどく傲慢だったのだ。
悔し紛れにすぐに再就職してやると、失職と同時に失った恋の痛みも吹き飛ぶほど応募と面接を繰り返して自分を奮起させていたが、惨敗が続くと次第に心が折れてくる。
どうして、という埒も開かないイライラが溜まりに溜まった、そんなある日。
昼飯時の食堂で一人の客が声をかけてきたのだ。
あの、と恐る恐るといった声に見上げるとそこには、こんな場末の食堂に居てはいけないような上等なスーツとお顔をお持ちのイケメンさま。こんな人がこのような場所のこんな私に何の用かと訝ると、
「――結婚してください」
イケメンさまから放たれた言葉に冗談ではなく、食堂が一度凍った。
幸いにも一番に氷から抜け出せたのは、私の僥倖だったに違いない。
私は改めてそのイケメンさまの顔をじっと見上げてみる。
整ったお顔はこれ以上なく不安に揺れていて、しかし真剣な眼差しはふざけているようには見えなかった。
見えなかったが、
「お断りします」
ふざけているようには見えなかったが、ふざけているとしか思えない言葉に私の怒りは頂点だった。
名前も知らない何も知らない見ず知らずの客の男にふらふらとなびくような女に見えたことに腹が立ったし、そう見えている自分にも腹が立っていた。
けれど異常なほど真面目なその瞳が嘘をついているようにも見えなかったので、私は罵詈雑言を心のうちに抑えこんで一言だけ返したのだった。
しかし私の一言は非常識な男をいたく傷つけたようで、彼はまるで腹でも抉られたように顔面を蒼白にした。けれども理性は失わない性質のようで「……お会計は」とか細い声で尋ねてきた。
こんな状態で逃げ出しもせず怒りだしもしないことに少しだけ関心して、私は注文票を確かめた。
そこには母の字で日替わり定食と簡単にメモしてあったので、私も簡単に「580円です」とだけ彼に告げる。
だが、私の言葉が彼を更に恐慌に陥らせることとなる。
はっとした顔でスーツに身を包んだ全身を探る。それから持ち物を順番にレジカウンターに並べ始めたのだ。
スマホ、ハンカチ、何かのメモ一枚、万年筆。
まるで出来の悪いパントマイムを見ているような心地で彼の慌てぶりを観察していた私だが、ついにその探る手が止まってしまったのを見てとって声をかけた。
「……もしかして、お金をお持ちでないんですか?」
私の言葉に、今度は彼の時間が凍った。
氷から必死に抜け出すように冷や汗をかいて、ぎ、ぎ、ぎとぎこちなく、それでも首を横に振る。自分でも信じがたいことなのだろう。見ていて気の毒になってきた。
どうしたものかと心配になって見ていると、彼はふと自分の内ポケットに何かが入っていることに気が付いた。
震える手で取り出したそれは、小さなパスケース。
「あ、ありました…!」
慌てて彼が引きだしたのは、真っ黒いカードだった。
使い古したカウンターに置かれたそれは、およそ一般人が目に出来るカードではなかった。
漆器の如く光を吸い込む黒いカードを、私は取引先の会長さまがお持ちだったから分かっただけだ。
「……あの、すみません。ブラックカードはうちでは使えません」
うちの食堂はクレジット払いなどと洒落た支払いが出来る店ではないのだ。
私の無慈悲な解答に、彼の顔は絶望に染まった。
その後、彼は私に名刺を渡し、必ず支払うからと一旦外へ出てどこかへ電話をかけた。
名刺には、黒川コーポレーション社長の文字。
まさかそんなと一笑していたら、三十分もしないうちに黒塗りのいかつい車がやってきて、秘書らしき男が呆れ顔で彼をこう呼んだ。
「いったい何をやっているんですか、社長」と。
その日、私は秘書から渡されそうになった袖の下を回避して売上の580円を回収したわけだが、その日から社長にプロポーズをされるようになる。
まさか毎日続くと思っていなかった私だったが、あまりの妙な生真面目さに私は次第に慣れていった。
最初の頃、私は社長へ理不尽な妬みを向けていた。社長のくせにこんな食堂へ通うなんて何の嫌味かと。
しかしブラックカードを見せたのは最初の一日だけで、社長は次第に定食代を持つようになった。最初は一万円、次に五千円、と金額は下がり、きちんと財布を持つようになるまで時間はかからなかった。
不思議なことに細かいおつりを渡すたびに、私は自分の醜い心まで細かくなっているような心地となっていた。
ある日、釣銭のいらないぴったり580円の日があった。
思えばその日にそれまでの傲慢な私は消えてしまったように思う。
――私は、彼に救われたのだ。
社長にそんな気はなくとも、私は彼のお陰で人の気持ちを思い出した。
それは軽くて心地良く、そして私を自由にしてくれた。
――だから思うのだ。
社長はそろそろ私から解放されるべきだ、と。