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豆腐屋の社長さん  作者: ふとん
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紙切れの社長さん

 豆腐屋を拠点に、商店街に一陣の風の如く話題をさらった社長さんが去ることになった。


 豆腐屋さんの奥さんが退院してきたからだ。

 忙しい中でも病院にもお見舞いに行っていたらしい期間限定の従業員を奥さんはいたく気に入ったが、彼は奥さんが職場復帰するのを見届けて豆腐屋を去ることにしたらしい。

 元々約束は奥さんが入院している間のことだったし、その間に豆腐屋は随分と賑わった。いつの間にか家を出ていたご主人の本当の息子も手伝いに戻ってきていて、彼は自分の役目は終わったとばかりに退職を申し出たのだという。


 その日も彼はいつも通りに早朝三時から豆腐屋で働いて夕方に最後の接客をすると仕事を終えるというので、商店街中から彼を見送りに人が集まっていた。


 いつもなら夜の営業の仕込みをしている三軒隣の我が食堂からも母と私、それから珍しく父までもその集団を覗いている。少し痩せたけれど元気そうになった奥さんから花束をもらった彼は嬉しそうに顔をほころばせた。


「皆さんありがとうございます。お世話になりました」


 彼のさほど大きくもない声がよく透る。

 すっかり見慣れたゴムエプロンはなく、長身によく似合う紺のスーツが古い商店街には不釣り合いなほど上等に見えたが、不思議なほど彼はこの商店街の人々に馴染んでいた。

 堅物の八百屋のおじさんまで彼の肩を叩いて惜しんでいる姿を眺めていると、まるで昔から彼がここに居たかのような錯覚をしてしまいそうになる。


――もしも本当に彼が社長でもなく、豆腐屋さんだったなら。


 私の目に黒川社長はどう映っていたのだろう。


 ありもしない、もしものことが私の錯覚を彩って離れない。


「花、おいで」


 イケメン店員のお別れに、最前列へ行っていたはずの母に手招きされる。

 何だろうと近寄ってみるとばさりと花束を渡された。

 なんだなんだ。

 どうしたんだ、と母を見返すと周りに居た人たちが笑顔で道を開けている。

 どこへ続くのかは顔を上げれば一目瞭然だった。


 少し苦笑気味のすらりとした長身がこちらをじっと見つめている。

 熱いような冷たいような、その瞳に吸い込まれるように彼の目の前に立つと足が竦んだ。

 いったいどうした私の足。

 しかし動けなくなった私の代わりに長い脚が一歩、二歩と歩き出し、とうとう私の目の前に立った。

 見上げれば、やはり逃げ出したくなるほど静かな彼が私を見つめていた。

 目の中に焼きつけようとするかのような彼を見上げていると、いつのまにか集まっていた人たちのざわめきがどこかへ引いていく。

 待って、と言おうにも喉が何故か仕事をしない。なんて怠け者。声まで無職になるなんて。

 そんな私を見て取ってか、彼の方が「花さん」と口を開く。


「――結婚してください」


 今や挨拶代わりになってしまったプロポーズ。

 昼時の忙しい店の中で聞くその言葉が、今は静かな夕焼けにふわりと浮いて私に届く。

 豆腐屋の奥さんにもらった花束を抱えたその人がなぜかとても眩しくて遠かった。


「――お断りします」


 ようやく仕事を思い出した言葉を声にすると、自然と顔がほころんだ。そうしてやっと私の顔が思っていた以上に強張っていたことを知らされる。

 

(どうしてこの人はこんな風に気付いてしまうんだろう)


 私よりもほっと息をついて目を細めた社長さんがおかしくて笑ってしまうと、彼も嬉しそうに笑った。


「お疲れ様です。ありがとうございました」


 母から預かった花束を差し出すと、「ありがとうございます」と彼は微笑んだ。

 



 けれど、後で気付いた。

 その日、彼はいつもの言葉を口にしなかった。


――また昼に来ます。


 そう言って、いつも挨拶を綺麗に結んでしまうのに。







 私のとりとめもない考えが証明されたのは、翌日からのことだ。

 

 次の日から社長さんは食堂に顔を見せなくなった。


 そして、もう少し経ったある日。

 彼の会社からおからドーナツが発売されることになった。









 

 商品がたまたま一緒だっただけよ、と母は言うが、そのドーナツは私が初めて食べたものと似通っていて、どうしても疑いを捨てられなかった。

 社長は、商店街に調査目的で来たのではないか。

 最近は土地を買い上げて商店街をショッピングモールに取りこんでしまう事業が多い。

 商店街側も集客を望んでショッピングモールに出店したものの高い賃料を払えなくて撤退してしまう店も多い。


 私が会社員時代に手掛けたプロジェクトの中にもそういった事業もあって、開店当初はうまく経営できていても年月が経つにつれてうまくいかなくなった例はいくつも見ている。

 私のかつての仕事はプロジェクトを上手くクライアントに認めさせて成功させるまでで、あとの経営はその店の努力次第だ。けれど、無職になって実家の食堂へ戻った今はそれで本当に良かったのかと思う。

 もっと何か良い方法が無かったのか、と。 


 コンビニの店頭に並んだ豆腐ドーナツを見かけるたびに自分の過去と疑心を見るようで、私は三軒先の豆腐屋さんから足が遠のいていった。


 たとえ事業の一環だとしても、社長がわざわざ出向くような調査ではないことぐらい頭では分かっている。

 けれど、どうしても私の臆病な疑心は晴れなかった。


 こうして私が悶々としている間にも彼は現れない。

 たまに出張が長くかかることがあっても、これほど長く時間があいたことはなかったのに。


(……何考えてるの。私はあの人の恋人でも婚約者でもない)


 これではまるで黒川社長に会えないことが苦しいと言っているようなものだ。


「大丈夫かい、花ちゃん」


 食堂へやってくる常連さんもぼんやりとした私にそんな言葉をかけてくる。

 大丈夫です、と笑ってみても常連さんの顔は晴れなかった。きっと私の顔が曇っているからだ。

 元気だけが取り柄の私が四六時中こんな調子だから、父も母も私の好物の肉じゃがを夕飯に出してくれたり気を使ってくれているのが申し訳ない。


 それでも店員として手伝うのが私の唯一といっていい仕事で支えだったのだが、この日ばかりは店に出るんじゃなかった。



「――話がある」


 先日、この食堂のど真ん中で告白劇をやってくれた大林がスーツ姿で再びやってきたのだ。

 


 商店街の中ではどこもかしこも聞き耳が立ててあるので、私は商店街を離れた喫茶店に大林と連れだって入ることにした。この辺りは以前勤めていた会社からも少しだけ遠くて昔の同僚に会うことも少ないと思ったからだ。

 二人で可愛げもなくコーヒーを頼むと、大林は少し苦笑する。


「お前と店に入ると、注文を待たなくていいから楽だな」


 確かにそうだな、と思うのは私の注文が決まっているからだろう。

 喫茶店に入ればコーヒー、居酒屋に入ればビール。

 普通の女の子のようにメニューを開いて決めることはあまりない。


 せっかくだからパフェでも頼もうかとメニューを手に取りかけると、大林の顔付きがビジネスマンのそれに代わる。


「――神埼、お前俺に黙ってたことがあるだろ」


「何それ」


「黒川コーポレーション」


 なるほどそれか。

 頷くと大林は「お前って本当に…」と深く溜息をついた。

 どうせネットか何かで社長のことを見かけたのだろう。目立つ顔のことだ。すぐ分かる。


「会ってすぐ分からない方が悪いと思うけど」


「それはお前…っ」


 メニューを開いた私に大林は言葉に詰まって再び溜息をつく。

 

「……今はそれより、お前に聞きたいことがあるんだ」


 何のことかと目配せすると、大林は神妙な顔で声を低くした。


「お前の住んでるあの辺りの商店街に再開発事業の話があるって知ってるか?」


「知ってるけど」


 地元の自治会の話ぐらいならすぐ耳に入る。けれど、


「あの話はずっと断ってるはずよ。うちは地価が高いし」


 比較的、駅に近い商店街なので客足は少なくなっているものの、事業者がおいそれ買い叩けるほど安い土地ではない。


「俺の会社も立地条件がいいから目をつけてるんだが、あの黒川コーポレーションも目をつけてるらしいんだ」


 メニューにあるたっぷりとクリームの乗ったパフェを見つめて、私は大林の言葉を頭の中で反芻する。


 黒川コーポレーションが、再開発事業に、あの商店街を。


 単語の羅列だけが渦巻いて、うまく考えがまとまらない。


「社内では噂程度のことになってるけど、俺は接点を知ってる」


 接点。そうだ。

 豆腐屋さんには彼が居た。


「裏が欲しい。お前、何か知らないか」


 私の知っている社長のことは、ごく僅かなことだ。

 

 背が高くてイケメンで、ブラックカードを持ってること。

 日替わり定食が好きで残さず毎回食べること。

 ドーナツをくれたこと。

 私を心配してくれること。

 挨拶代わりにプロポーズをすること。


 優しいけれど、どこか憎らしいその人のことを思い出すと私は何故か泣きたくなる。

 私の心をかき乱す、あの微笑みが見たくてたまらなくなるから。



「――すみません」


 大林を無視してチョコレートパフェを注文すると、彼は少し目を丸くする。そういえば、この男の前では甘い物なんてほとんど食べなかった。大林は甘い物が苦手なので自分では気付いていないだろうが、けっこう嫌な顔をするのだ。


「お前も、甘い物食べるんだな」


 そんなことを言ってくるので苦笑する。


「……そうだよ。私も女の子だからね」


 女性は甘い物が好きだから、とドーナツを勧めたあの人と大林は大違いだ。

 女がみんな甘い物が好きだと限らないだろう、と食ってかかりたくなるというのに。


 手持ち無沙汰でポケットに手を突っ込むと、かさりと紙が入っている。

 何だろう。


 紙を開いて「あ」と私は声を出していた。


――あのドーナツをもらった時に入っていた、手紙だ。


 丁寧で綺麗な字が私を整然と責めるように並んでいて、最後に控えた名前を思わず指で隠してしまった。

 こんなことをしても何が書いてあるか、すぐに分かるのに。



カッカッカッ!


 物思い耽っていた私はけたたましい靴音に咄嗟に気付けなかった。

「お客様!」と店員の悲鳴が聞こえ、「やめろ!」と大林が大声を上げた。

 そうしてようやく顔を上げた視線の先に、鬼のように顔を怒らせた女がいてチョコレートパフェを掲げていた。


「ユキオに今更何の用なの、このあばずれ!」


 やばい、と思った時にはもう遅い。

 チョコレートパフェが私の頭目がけて逆さに降ってくる。


 熱いコーヒーじゃないし手をかざせば幾らか被害は避けられると思ったのに、私は一枚の紙切れを胸にうずくまっていた。


 馬鹿じゃないの、と冷たいアイスとクリームを頭から被りながら自嘲する。

 貧乏食堂の娘を馬鹿にしているのだろうとプロポーズを避け続けた私の方が馬鹿にしていたのだ。彼はずっと真剣だったのに。肩を落として帰っていく後ろ姿に、同情はするものの意地になった私は決して頷かなかった。

 

――これはきっと罰だ。


 素直じゃない私に与えられた、相応しい罰なのだ。


「やめろ! ミキ!」


「いやよ、あの女なんでしょ。前の、忘れられないカノジョって!」


「そうじゃない。その話はもう終わった!」


「だったらどうしてこんなところで会ってるの…!」


 痴話喧嘩に加えてばしゃ、と水まで飛んでくる。


 小奇麗なスーツから推測するに、あの女が今の大林の恋人の近藤さんなのだろう。どういう理由か私と大林が密会していると思ったらしい。


 ここまでくると苦笑しか出ない。

 ようやく顔を上げると頭の上から冷たいものが流れ落ちた。この匂いはきっとバニラアイスだろう。

 転がった器をよく見ればチョコレートソースが残っていて、私の顔はバニラとチョコでまだらになっていることが知れた。

 もったいない。

 飲食店に身を置く者としては一言投げてやらなければと顔を上げると暴れる女と止める大林の向こうで店員さんがタオルを持って困り果てていた。

 もう店を出た方がいいかもしれないな、と席を立とうとするとバタン、と喫茶店のドアが豪快に開いて店に重い靴音が響いた。


(なんで)


 どかどか、と走り寄ってくるその人から逃げだそうと私は腰を上げるがべしゃりとクリームを床に振りまいただけだった。


(どうして、今ここに)


 どうしてここに居るの。

 どうしてそんなに怖い顔をしているの。


 震えた私をその人は大きな手の平で捕まえて、


「何があった、花!」


 透る声で言うものだから、私は思わず目をきつく閉じた。


 大きな声なんて出さないで。

 チョコレートパフェを被った私なんて見ないでよ。

 いつもの汚いエプロン姿だって恥ずかしくなるほど、あなたは綺麗なのに。


「花…!」


 応えられない私に苛立ったのか、私がきつく手に握りこんでいる紙切れを大きな手が力尽くで奪っていく。優しかったこの人には、こんな力があったのだと思えば私はますます歯をくいしばって耐えなければならなかった。


 私の腕をつかんだまま、その紙切れを見たのだろう彼の溜息が聞こえた。


「……まさか、こんなもののために…?」


 この人が、社長であってもそうでなくてもいい。

 そんな溜息は聞きたくなかった。


 我慢していた何かが壊れていく音がする。

 がらがらがら、と崩れていく中で私は自分の嗚咽を聞いた。


 なんてみっともないんだろう。

 まるで何もできない子供だ。

 甘い物なんて大嫌いだ。

 ドーナツなんて大嫌いだ。

 紙切れ一枚にしがみつかなければ立ってもいられない自分なんて大嫌いだ。


「……離して」


 掴まれた腕を引っ張り出そうとするが、丈夫な手錠のように彼は力を緩めなかった。


「離して…!」


 会社をクビになっても、恋人から別れを告げられた時も、私は泣かなかった。

 そんな私が、こんなことで。


「あなたなんて…きらい! だいっきらい!」


 私をかき乱してならない貴方なんて大嫌いだ。


 不意に彼の手から力が抜けて、するりと私の腕が落ちる。

 せめてあの紙切れだけは返せ、と自分でよく分からない理屈で顔を上げると今度は体がさらわれた。

 上等なスーツにアイスが流れてべっとりとつくというのに、大きな体が私を包んで離さない。


「はなして…!」


 もがいて叫んでも腕は緩まなかった。

 ゆっくりとべとべとの髪を整えるように長い指で撫でられる。

 そして透る声が囁くように、溜息のように繰り返す。


「怒鳴って、一人にして、ごめん。僕が悪かった」


 本当にごめん、と私の顔をスーツに押し付けるようにして抱きしめてくる。

 自力では逃れられないと分かると同時に、私は大声で泣いていた。

 

 どうして私を一人にするの、とワガママな猫のように。





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