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豆腐屋の社長さん  作者: ふとん
3/13

日替わり定食の社長さん

「580円になります」


「……あの」


 お前もかブルータス。

 私はレジ前でうどの大木のように立ちはだかった長身を胡乱に見上げた。今やすっかり常連の黒川社長である。今日も日替わり定食を食された。

 私の視線を受け取って、社長さまはそのきらきらしい容姿に憂いを乗せて意を決したように口を開く。


「あ、あなたの婚約者が来ているというのは本当ですか!?」


 だからどうしたというんだ、という解答を呑みこんで、私はもう何回も繰り返した答えを返すことにした。


「元、恋人です」



 

 大林幸雄、という名前を私が後生大事にしていたのはしがない会社員時代の話である。

 課内では指折りの優秀さで社内でもなかなかの優良株だった彼と付き合うことができたのは、正直なところ私にとって最大のモテ期だったのだろうなと思う。

 しかし会社の経営不振を理由にあっという間にクビを言い渡された時にそれは全て終わった。

 仕事を失った私を見て、急に将来に不安を感じたらしい恋人は手の平を返したように付き合いを解消したのである。ちょうど、結婚の話をしている最中の出来事であった。


 仕事と恋人を失った私は傷心のまま実家に逃げ帰ったわけだが、今にして思えば私にとって会社も婚約者もどこか現実味がなく味気ないものだった。

 将来は両親の経営する食堂に戻りたいと思っていたし、それを恋人にも伝えていた。彼はそれは結婚してから考えようと言うばかりで具体的なことは何も答えてはくれなかった。

 両親への挨拶や正式な婚約をする前の話であったので、面倒な手続きもなく彼との縁は切れたのは、彼にとっても私にとっても不幸中の幸いのことであったのかもしれない。


 

 今、食堂をだらだらと手伝ってばかりいる私を食堂に置いてくれている両親は、何もかも失くして帰ってきた娘に何も言わない。

 事情はある程度話したものの、子供の頃のように受け入れてくれた両親に私は感謝している。

 突然帰ってきた私を「久しぶりだなぁ」と歓迎してくれた常連さんもいたお陰で、私はこうやってのんびりと過ごすことが出来ていたのだが。




「――何でみんな知ってるの」


 ここ数日、常連に「元婚約者が来たんだって?」と心配そうに尋ねられるのだ。狭い商店街のことなので、噂が広がるのは光の速さだと分かってはいたがここまでとは。


「そりゃあそうよ。心配なんだもの」


 客が引いた店で一緒に昼休みをとろうと遅い昼ご飯を持ってやってきた母が苦笑しながら言う。

 今日のお昼は母が作ったうどんだ。父が店の奥でずずず、と啜っているのを聞きながら私はまぁ仕方ないなと溜息をつく。


 数日前、こともあろうにくだんの元恋人はこの食堂にやってきたのだ。そして常連客が居る前で言い放った。


「ずっと探してた、なんてお母さん、ドラマの撮影が始まったのかと思ったわ」


 韓国ドラマが大好きな母が興味津津といった顔でこちらを眺めてくるので私は大人しくうどんに箸をつけた。


――ずっと探してた。


 昼飯時の食堂で、注文もしないで私にそんなことを言いだした元恋人は唖然とする私を無視してべらべらと喋りに喋った。

 退職したあと連絡をとれなくて困ったこと。

 本当は別れたくなかったこと。


――転職したんだ。落ち着いたから迎えに来た。


 会社をクビになった直後なら、うっかり彼についていっていたかもしれない。

 けれど、もうそれは半年以上も前の話。

 すっかり食堂のおばちゃんになりつつある私にとって、彼への情熱はすでに無くなっていた。

 きっとテレビドラマなら元恋人の感動的で馬鹿馬鹿しい告白に泣いて喜んで抱きつくぐらいのことはするのだろうが、私はそんな気前のいい女優じゃない。



――ご注文はお決まりですか?


 私は営業スマイルで注文をとったのだった。


 ちょうど空いていた座席に座らされた彼は、トンカツ定食を注文した。そして常連客の衆目にさらされながら定食をかきこみ、870円を払って帰って行った。

    

「まぁ、お母さんは花がよく考えて決めたらいいと思うのよ」


 うどんを食べながら母は微笑んだ。


「だってあなたの人生だもの。楽しい方がいいでしょう?」


 


 それはそうだ。

 私の人生、誰に決められて動かせるわけでも動くわけでもない。

 何かしら自分で納得したり妥協したりしながら、何かを決めて進むのだ。


 かといってこんな展開を望んでいたわけじゃない。


「――神埼」


 ぶらぶらと買い物に出ていた私を、元恋人の大林が呼びとめてきたのだ。

 そして何となく近くの公園に入ると真剣な顔で彼は滔々と私の弁解を口にし、最後にとどめとばかりに付け足した。


「結婚してくれないか」


 こいつの頭は豆腐か何かで出来ているのではないか。

 言い訳をほとんど聞き流していた私の心はますます冷えていく。曲がりなりにも恋人だったはずの人をここまで見捨ててしまえるのかと、自分でも驚くほどだが冴えた気持ちは一向に温まらない。


「お前が会社を退職した時には、もう転職を考えてたんだ。でも、お前も一緒に連れて行ける自信が俺には無かった」


 大林は仕事の出来る社員だった。だから他所の会社からヘッドハンティングされたのだという。


「俺の補佐をしていた神埼だから、きっと今の職場でもやっていけると思う。だから今からでもうちの会社で働かないか」


 私は彼の補佐もしていたが、自分で幾つかのプロジェクトも持っていた。しかし会社は私をクビにして放り出し、大林には引きとめた上、就職先を用意した。仕事の量は同じだったはずだ。

 これが男女の差か。私は会社に見切りを付けてクビ宣告を待たず退職した。

 

「――行かない」


 私の静かな答えに大林は目に見えて顔色を変えた。まさかこれだけの餌を投げて断られるとは思っていなかったのだろう。結婚に仕事、何も持たない女にはこれ以上ない餌だと彼は思いこんでいるのだから。


「お前、一生あんな食堂で働くつもりか? キャリアも何も積まないで」


 あんな食堂。その言葉だけで彼が私の夢をどう思っていたのか知れた気がした。

 負け組の私にだってプライドぐらいはある。

 かつて好きだった人の言葉に傷つくぐらいのプライドは。


 ぐっと唇を噛んでいると「花」と呼ぶ声がする。

 透る声に聞きおぼえがあって顔を上げると、その人は珍しく顔をわずかに不機嫌そうにしかめた。


 長身にジャンパーを羽織ったその人は豆腐屋の文字入りの白カブを押してこちらにやってくるところだった。きっとジャンパーの下はいつもの上等なワイシャツなのだろう。

 天秤付きのこのバイクは豆腐屋のご主人がまだもう少し若い頃、豆腐をお得意さんへ届ける時に使っていたものだ。


「どうした? 花」


 普段は使わない気安い言葉で尋ねられて、違和感を感じたものの私は首を横に振る。


「……何でもない」


「じゃあ、この人は?」


 優しいのにどこか堅い声で続けられて「……元恋人です」と応えると豆腐屋さんは一層固い顔付きになる。

 それは大林の方も同じで、現れた長身の豆腐屋を胡散臭そうに眺めている。


「――花、そろそろ帰ろうか。夜の開店時間だろう?」


 大林のことを無視した豆腐屋の言葉に、大林は「神埼にはまだ話がある」と勝手に決めつけた。


「花にはもう話は無いようだけど?」


 商店街の豆腐屋であろう人の妙に威圧的な言葉に、大林は一瞬怯んだものの今度こそ豆腐屋を睨みつける。


「あんたには関係ないだろう。部外者が口を出すな」


「女の子が嫌がってるんだ。無理強いしているのは見過ごせない」


 普段の困り顔からは想像も出来ないほど強い言葉に私の方がハラハラしていると、思い通りにいかなくて痺れを切らした大林の方が言葉を荒くする。


「俺は神埼のキャリアのことを心配してるんだ! 豆腐屋なんかで働いてるあんたには分からないだろうがな!」


 彼をただの豆腐屋だと思っている大林の言葉に私は堪え切れなくなって思わず口を押さえた。

 確かに彼は今は豆腐屋だが、豆腐屋ではない。

 知らないというのはこんなにも滑稽なのか。

 笑いを堪えていると何を勘違いしたのか、大林がそれ見たことかと畳みかけてくる。


「神埼はこんな商店街で働いているような人間じゃないんだ。お前たちと一緒にするな!」


 ぶわっははははははは!!


 私はとうとう大笑いしてしまった。


「あはははははははははは! お、おなかいたい…」


 いけない、笑いが止まらない。

 お腹を押さえる私を豆腐屋さんが心配そうに覗きこんでくるので私はもっと笑いが止まらなくなる。


「大丈夫ですか?」


 そう尋ねてくる豆腐屋さんとエリート会社員の大林を見比べてみる。

 会社に居た頃、大林は私にとって王子様だった。それなりに高い身長にそれなりに鍛えた体、それなりに整った顔立ちをしていて話題も豊富。一言でいえば手に届きそうな王子様だ。女にモテないはずがない。みんな、マンガみたいな出来過ぎ王子様なんぞ探していない。手に届くものが欲しいのだ。

 それに比べてブラックカードを持つ豆腐屋さんはどうだろう。今は古びたジャンパーなんぞを着込んでいるが、整い過ぎた顔立ちに首が痛くなるほどの長身、日本人離れといえば簡単だがそれこそマンガから抜け出してきてしまったような見た目だ。しかし長い手足を使ってすることといえば、完璧なまでのレディファースト。近所のおばちゃん達が彼に会おうと躍起になるはずである。一体どういう仕組みなのか、この人は頭がとても良いのだろう。馬鹿みたいな要領の良さで気難しい人ばかりの商店街にすっかり馴染んでしまった。


 私には勿体ないと思っていた大林が、急に霞んできてしまう。

 出来る人の上には更に出来る人がいるのだ。

 私の大笑いに怪訝な大林が滑稽で、馬鹿馬鹿しくて、私は何とか笑いを収めた。

 

「おい、何がおかしいんだ!?」


「全部」


 目の端に溜まった涙を指で払うと、いっそ清々しい気分になる。


「――総務の柴田さん」


「……ん?」


「営業二課の内山さん」


「え?」


「今の会社の秘書課の近藤さん」


「………」


 とうとう青い顔で黙りこんだ大林を私は余裕たっぷりに見上げた。


「私と付き合ってた時に浮気してたこと、私が知らないと思ってた?」


 女の情報網を舐めてもらっては困る。

 プロジェクトを動かしていた時には、プレゼン相手の浮気相手から今朝の朝食まで知っていたのだ。


「……お前のそういうところが苦手だった」


「私はあなたのそういう馬鹿なところが好きだったけど」


 仕事が出来てもこういう間の抜けたところが可愛いと思っていた私は、恋する乙女だったのだろう。 

 しかし今となっては馬鹿馬鹿しい話だ。


「近藤さんと婚約の話があるんでしょ?」


「……彼女、家事が一切出来ないんだよ」


 なるほど。だからそこそこ家事の出来る私とよりを戻したくなったのか。


「自分で家事すればいいじゃない。綺麗なんでしょ? 大学の時ミスに選ばれたほど」


「お前のそういうところが本当に苦手なんだよ…!」


「あなたはちょっと間が抜けてて可愛い女の子が好きなんだから、私とはやっぱり無理だったのよ」


 人と人との関係は時間と共に変わるのだろう。

 それが恋人であっても。


「じゃあね」と手を振って、二度と会わない人がいるように。





「――じゃあ、わざわざ来てくれたんですか?」


 逃げ帰った大林を見送ったあと、白カブを押しながらゆっくりと歩いてその人を見上げると、長身は苦笑する。


「ちょうど豆腐屋さんに来てくれた方が教えてくれまして…」


 ご主人が大慌てで古いバイクとジャンパーを貸してくれ、私の居場所を探し出してくれたらしい。


「知らないこととはいえあの人が失礼なことを言ってすみません」


 私がそう言うと、黒川コーポレーションの社長さまは穏やかに苦笑しただけだった。

 きっと豆腐屋で働いているこの人が社長さまだと知れば大林は腰を抜かしてしまう。そんな馬鹿面を見てみたかったかもしれないな、と思っている私とは裏腹に社長さまのお顔は冴えない。


「すみません、お仕事中に変なことに巻き込んで」


 そう言って様子を伺うと社長は静かに首を横に振る。


「いいえ。間に合って良かった」


 穏やかに微笑む社長を眺めて、あの時その透る声で「花」と呼ばれたことを思い出し少しだけ顔が熱くなる。待て待て、私はもう乙女じゃない。


「で、でもどうして来てくれたんですか?」


 正直に言えば、大林程度のことなら私一人でもどうとでもなったのだ。

 社長はちょっと考えて「それは…」と言いかけ、少し笑って私を見た。


「――男の面子のためですよ」


      


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