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豆腐屋の社長さん  作者: ふとん
12/13

食堂のお嬢さん

 玲一がその娘に出会ったのは、黒川という名字に変わってから少し経った頃だった。



 母一人子一人の私生児として育った玲一は、父の顔を知らなかったが母が父のことを絶対に悪く言わなかったので父のことを悪く思ったことはなかった。

 

 だが玲一が中学校に上がった頃、母が長年の労苦に耐えかねて突然病死し、身寄りのない自分を引き取りに来た祖父と名乗る男と出会って玲一は自分が私生児になった理由をおぼろげながらに理解した。

 祖父は若くして亡くなった母のことを娼婦と呼んだからだ。

 父は結婚はしていなかったものの婚約者はいて、しかし親の決めた婚約者を好きになれずに仕事先で出会った母に恋をし、子供を作った。だが結婚はせず、そのまま家業の会社を継いだので、玲一は母に私生児として育てられることになったらしい。

 らしい、というのは会ったばかりの子供に祖父がそう語ったからだ。

 真実がどうであったのかは分からないが、玲一がそれほど不幸を感じることも無く育ったのは父が結婚せず、母に育てられたからだと思った。

 そしてどうして今更忘れ去られたはずの玲一をわざわざ祖父が迎えにきたのかといえば、父が病床に伏しているからだという。

 父は婚約者と結婚したものの子供は出来ず、精力的に仕事をこなすうちに体を壊したらしい。

 軟弱だ、という一言で祖父は片付け、玲一を迎えにきたその足で父のいる病院へ向かい、放り込んだ。

 病室に一人入り込んだ玲一は、広い個室のベッドから痩せた男に手招きされた。


「……玲一か?」


 痩せてはいるものの深い響きのある声は何故か玲一に馴染むもので、彼が頷くと同時に頬を覆った大きな手は冷たかった。

 その男は「すまない、すまない」と繰り返し、ずっと泣き続けていた。


――これが父というものか。


 面会時間の終わりを看護師に告げられて、病室をあとにした玲一は漠然とした何かを抱えて黒川の本家へと連れられて行った。

 それ以来、父に会うことはなかった。



 黒川の本家というところは、魑魅魍魎の住まう家であった。

 自分の決めたことをおよそ曲げない祖父、しつけに厳しい祖母、そして玲一をはばかりもなく娼婦の子供と呼ぶ父の妻。それ以外にもたくさんの親類縁者がいたが、彼らは総じて玲一の敵だった。

 突然増えた家族とも呼べない妖怪の一族は玲一を徹底的に蔑んだのだ。

 それは転校させられた学校も同じで、玲一は金持ちの子女ばかりが通う学校に馴染めなかった。

 とうとうある日、護衛の手もすり抜けて学校を抜けだし、遠く母の墓のある街まで玲一は逃げ出した。

 けれど、母と暮らしたアパートは解体され、小さな墓すらどこかに移されていた。


――何も持たない玲一は途方に暮れた。


 目についた公園でぼんやりとブランコに座るほか、自分に出来ることはなかった。ここに来るまでに所持金はつき、もはや眠る場所もない。

 そう思っていた。


 けれど、日も暮れそうな公園に一人の女の子がたたた、と走り寄ってきて玲一が乗っている隣のブランコを漕ぎだし、こんな時間に一人でどうしたんだろう、と思っていた矢先にブランコから落ちた。


「だ、大丈夫!?」


 頭こそ打っていないようだったが思い切り足をすりむいた女の子は今にも大泣きしそうなほど顔を歪めたが、それでも泣かなかった。


(強い子だな)


 ほっとしたものの、女の子の足からはだらだらと血が出ている。


「……大丈夫? 立てる? 立てないならおぶってあげるからそこの水道で洗おうか」


 手を引くと彼女はすんなりと立ったので、服から土を払ってやっていると「あの」と女の子の甲高い声がした。なんだろうと顔を向けると女の子の顔が強張った。


「……おにいちゃんは、人さらい?」


 難しい言葉を知ってるな、ということと同時に玲一は慌てて「違うよ!」と首を横に振る。最近の子供は親切な人も疑えと教えられてるのかと、子供の玲一も戦慄した。

 往々にして、子供を裏切るのは大人なのだと痛いほど分かっていたが、そんな大人の一員だと思われたことが悲しかった。


「……お兄ちゃんは、きみを助けただけだよ。何にもいらない」


 ただの親切に見返りなんていらない。まして、小さな女の子を助け起こしただけで何が欲しいというのだろう。

 暗い顔をした玲一を女の子は不思議そうな顔で見て、自分の手を見遣る。


「いたい」


 その言葉でようやく玲一も女の子も怪我のことを思い出したのだった。


 傷を水で洗って、ハンカチで巻いて上げると女の子は少しほっとした顔になり、玲一を「お兄ちゃん」と呼んでくれるようになった。

 それが嬉しくて「なにかな」と自分でも甘い声で返すと、


「お腹空いてる?」


 丸い瞳でそんなことを尋ねてくるではないか。

 空いていない、と応えようとして玲一は昼から何も食べていないことを今更思い出した。

 ぐぅ、と大きな腹の音が鳴る。


「空いてるね」


「……そうだね」


 恥ずかしさに真っ赤になる玲一の手を女の子の小さな手が掴んだ。


「じゃあ、私がごちそうしてあげる」


 そう言うが早いか、彼女は玲一の手を引いて走り出す。


 いったいどこへ行くのかと気になったが、ままごとにでも付き合わせるつもりかと玲一はされるがままに女の子に着いて行く。

 しかし、辿りついたのは、


「……食堂?」


 年季の入った看板を掲げた食堂だった。


「おとうさん、お客さん連れてきたよ!」


 がらがらと引き戸を開けるなり女の子が声を張り上げるので、玲一はすっかり逃げるタイミングを逃していた。

 店は外観とか変わらず古い机と丸椅子が並ぶ昔ながらの食堂で、お客はいなかったが綺麗に整理整頓された店だった。


「どこに行ってたの、はな!」


 店の奥から出てきた女性が女の子を呼び、女の子は玲一の足の後ろに隠れてしまった。


「ごめんなさいね。この子に付き合わせて」


「いえ…」


 付き合ったというよりも連れて来られたという方が正しいが、玲一は曖昧に頷いて「じゃあ」と踵を返そうとするが、


「おにいちゃん、おなかすいてるんだって」

 

 女の子がそんなことを言ってしまう。


「あらあら、じゃあ何か食べて行ったらいいわ」


「あ、いえ…」


 玲一が口ごもったのは遠慮からではなかった。財布の中身を頭の中で確認したからだ。どう考えても一番安い日替わり定食代すら払えなかった。

   

 しかし女の子は玲一の足から離れてくれないし、母親と思しき女性も「さぁどうぞ座って」とカウンターへ手を引いていくものだから逃げられない。

 そうこうしているうちにカウンターテーブルに定食が並べられてしまった。


 カウンター越しに定食を並べたのは、いかにも怖そうなおじさんだ。彼がこの店のあるじなのだろう。口をへの字に曲げて玲一を値踏みするように睨みつけている。


(嘘を言ったらだめだ)


 何故かそんな風に思えば玲一の腹は決まった。


「あの」


 そんな呼びかけの言葉も震えていたが、玲一は食堂の大将を見返した。


「僕は、お金を持っていないんです。ですから、せっかくですがこれで失礼します」


 ありがとうございました、と頭を下げようとした玲一に「ふん」と食堂の主人は鼻を鳴らした。


「誰がガキから金をとるかい。つべこべ言わねぇでとっとと食べろ」


 え、と目を丸くした玲一を食堂一家はカウンターに座らせて、箸を握らせる。その鮮やかな手並みに目を白黒させていると、隣に座りこんだ女の子がにっこりと微笑んだ。


「どうぞ、めしあがれ!」


 不思議なことに、彼女の言葉を皮切りに玲一の腹は盛大に鳴った。ははは、と苦笑すると本当におかしくなって、玲一は定食に向かって箸を持って深々と頭を下げた。


「いただきます」


 最初に箸をつけた味噌汁は、ふんわりと温かく喉を通って、玲一は自分がこれほど冷えていたことを知った。

 おかずは大きな揚げ出し豆腐で箸でつつくとふるふる揺れて、口に含むとしょうがが効いて幸せになった。

 白いふかふかのご飯は甘く、胃を悠々と満たしていった。

 

(でもどうしてだろう)

 

 食べれば食べるほど、不思議と少しだけ塩辛くなっていく。


「……おいしい?」


 隣の席の女の子が心配そうに見つめてくるので、玲一は心の底から久しぶりに微笑んでいた。


「とても美味しいよ。ありがとう」


 そう応えた自分の声が不格好な鼻声で、それがおかしくて玲一はまた笑った。



「もうこれっきりだからな」


 定食をたっぷり食べ終えた玲一にそう言った食堂の主人は、家族で金も取らずに追い出して見送ってくれた。


「また、お支払いにきます」


 玲一はそれきり振り返らずに、妖怪の待つ家へと帰ることにした。

 きっとまた、自分で日替わり定食を食べられるようになってから来ようと誓って。



 公衆電話で護衛と連絡を取って帰りついた本家は大騒ぎになっていた。

 祖父はあらゆる機関にまるで玲一を指名手配でもするような始末だったし、祖母は本家の使用人を一斉に放り出して探していたし、病床にあった父まで会社の伝手を動かす大変な大騒ぎだったようだ

 だから一人何も知らずにお腹いっぱいにして帰った玲一はこれ以上なく怒られた。


 怒られたと同時に自分はそれほど黒川の家に嫌われていないのだと知って、玲一は真面目に学校へ通い、会社に入ることになる。


 その後、父の容体が悪化して帰らぬ人となってから、玲一は二十六歳で社長の席を譲られてしまった。

 祖父という後ろ盾はあったものの、二十六の若造に従う社員は少ない。けれど玲一はひどく忙しい毎日の中でも玲一は決して忘れなかったことがある。


 あの食堂へ行くこと。


 自分の稼ぎで日替わり定食を食べ、それから中学生の時におごってもらった定食代も支払うこと。

 それだけが、何よりの目標になっていた。



 その夢ともいっていい目標が不意に叶うことになったのは、社長になって数年後。


 玲一はすでに三十二になっていた。


 ちょうどその日は昼の会食がなく、思い出の食堂と近い場所まで出向いていたので秘書に頼みこんで一人食堂へやってきたのだ。


 スーツ姿の客は珍しいのかじろじろと常連と思しき人々に眺められながら、日替わり定食を注文すると、以前食べさせてもらった揚げ出し豆腐だった。

 変わらず美味しい定食を一生懸命味わって、いざ支払いをしようとレジへ向かった先に彼女はいた。


 セミロングの髪を一つにまとめ、華奢な体にざっくりとしたセーターとジーンズ。エプロンをつけて軽快に働いて、常連客と冗談を言い合う様子は彼女の人懐っこさが知れた。


(あの子だ)


 子供の頃のことだから、もしかしたら違うかもしれない。

 冷静にそう思う自分もいるというのに、玲一は彼女が食堂まで引っ張ってきてくれたあの女の子だと確信していた。


 レジに向かうと玲一を見て一瞬驚いたような顔をするから、もしかしたら思い出してくれたかもしれない、と淡い期待をするが彼女は「お待たせしました」と他の客と同じように愛想よく言ってくれただけだった。


 久しぶりに見た彼女はすっかり大人になっていた。

 間近で見れば、丸い瞳には勝気そうな光がきらきらとしていて、鼻も耳も唇も小さい。触れれば壊れそうなほど繊細な顔立ちだというのに、今にも跳ねていってしまいそうな様子は小さな頃の面影を残しているようだった。


(つかまえたい)


 兎のように跳ねてしまいそうなこの子に触れれば、どんな気分だろう。

 

 玲一は唐突に降ってきた欲望に動かされていた。


 お腹がいっぱいになっていたから?

 夢が叶って浮かれていた?

 久しぶりにあの子に会って驚いた?


 もしもあの子に会えたら「久しぶり、覚えてる?」と声をかけて定食代を払おうと思っていた。

 もしも叶えばやろうと思っていたのはそれだけのこと。

 

 それだけのことが、いったいどうしたことだろうか。


 疑問はあとからあとから湧いてくるというのに、玲一が口にしたのはまったく別のことだった。




「――結婚してください」

   



 空気が一瞬凍ったのを、肌でひしひしと感じた。

 

 自分が何を言ったのかすら分からなかった。

 

(いったい自分は何を言った?)

 

 まさか、どうして。




「お断りします」




 玲一の混乱を救ったのは、当のあの子だった。

 

 彼女の冷静さがとてもありがたかった。


 困惑の極みにあった玲一は唯一の救いと支払いを済ませようとしたが、持っているはずの財布がない。

 思い至ったのは最近に自分の行動だった。

 玲一は社長という立場上、自分で支払いをする場面が皆無といっていい。

 現金を持ち合わせる習慣が今となってはなかったのだ。

 慌てて取り出したのは、祖父に持たされて一度も使ったことがなかったブラックカード。

 しかしそれで食堂の支払いをできるはずもなかった。

 人質代わりに自分の名刺を彼女に渡し、仕方なくどこかで待機している秘書を呼んだ。

 呼ばれてやってきた秘書は玲一を世界一馬鹿な男と詰るような目で代わりに支払いをしてくれた。

 

 玲一自身も人生で一番、自分が世界一馬鹿だと思った日であった。



 


 けれど、そんな馬鹿な失態から玲一は食堂へ通うことになる。

 彼女に会うためだ。

 毎日のようにプロポーズをするために。


 馬鹿な男は、どこまでも馬鹿だったのである。


 しかし肝心なことは言えなかった。


(言ったらきっと驚くだろうな)


 あの日、彼女に食べさせてもらってから彼女の顔を見るとお腹が空くということ。

 それがどういうことなのか。


(いつ言おうかな)


 玲一のパブロフの犬はしばらくおあずけだ。

 彼女には優しく優しくしたいのだから。


 彼女が玲一の名を知って、甘えてくれるようになるまで。




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