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豆腐屋の社長さん  作者: ふとん
11/13

豆腐屋の社長さん

 派遣会社を退職した私が実家の食堂に出戻ってしばらくして、社長さんが出張を終えて久しぶりに昼飯時に顔を出した。

 出張に行く前から社長さんと出かけたりしていたので、久しぶりに長身がのれんをくぐる姿を見て少しだけ顔がほころんだ。


 出かけたといっても、決してデートではない。

 豆腐工場の見学だ。

 ほぼ機械化された豆腐作りの工程を、社長さま権限で工場長自らの解説付きで一日かけて巡ったのである。

 お土産にもたされたおからドーナツは、社長さまの会社のブランドだった。


 楽しくなかったといえば嘘になるが、この見学をデートとするのはいかがなものかと思うのである。


 そんな工場見学から数えて数カ月ぶりとなる社長さんはいつもと変わらず、いや少し上機嫌なほどで、いつもの日替わり定食を食べてお会計に私が顔を見せると晴れ晴れとした様子で「実は」と挨拶もそこそこに切りだした。



「社長を辞めて、豆腐屋になることにしました」



 私がお釣りの420円を床にばらまいてしまった心境を分かっていただけるだろうか。


 私の動揺を知ってか知らずか、夕方にまたここに寄ると言い残して社長さんは帰っていった。


 動揺した私はその昼食時間はほとんど使い物にならなかった。注文は間違える。皿は取り違える。極めつけにお釣りのことをすっかり忘れて社長を見送ってしまい、母に二重に怒られた。


 そして宣言通りに夕方に社長さんがやってくると、母は私を容赦なく社長さんと一緒に店から叩き出したのである。もちろんお釣りはきちんと渡して。私の母は抜かりない。


 とぼとぼと行くあてもなく二人で歩いていると公園が見え、ようやく私と社長さんはベンチで腰を落ち着けた。

 どう話していいものか会話に迷って始終無言だった私に比べ、社長さんは沈黙すら楽しいのかにこにことしている。

 ベンチで夕焼けの陽を浴びて少しだけ心も落ち着いてくると、私は腹を決めて社長と向き合った。


「……あの、いったいどういうことなんですか?」


 私はよっぽど困った顔をしていたのだろう。

 同じように少し苦笑して社長さんは話しだした。


「豆腐屋の御主人から連絡をもらったんです。奥さんの容体が落ち着いている今のうちに、引退したいと」


 退院した奥さんがのんびり店番しているのは知っていたし、最近は息子も手伝いに帰ってきていたが、やっぱりそういうことなのだろう。


「無理を承知で店をお願いしたいというお話でした。息子さんは手伝っているとはいえ自分のお仕事をお持ちですし、僕なら豆腐屋をうまく会社に転嫁できるのではないか、と。この地域の豆腐屋さんはあのお店だけなので、ビジネスとして請け負ってくれないかということでした」


 黒川コーポレーションは幾つもの産業を傘下に持つ会社である。小さな豆腐屋を経営してもらえないかと頑固者でプライドの高い御主人が社長を見込んで膝を折ったのだ。


「ですから、僕は社長を辞めて豆腐屋になることにしました」


「ちょっと待った!」


 ちょっと待て。

 何かが違う。

 何でこの人にこにこと馬鹿みたいに笑ってるの。

 ですからってどういうこと。


「豆腐屋さんは、社長さんに経営を任せたいとおっしゃったんですよね…?」


「そうですよ」


 だからなんでそう何でもないような顔なんだこの人は。

 大会社の社長さまじゃないのか。


「片手間で経営なんて出来ませんよ。豆腐を作るのは一朝一夕では出来ませんし」


 そういう話じゃない。


「社長ってそんなにあっさり辞められるものなんですか!?」


 そうだこれだ。

 これが言いたいんだ。

 

 しかし当の社長さまは意外なことを聞いたように首を傾げた。


「辞められますよ。簡単ではありませんが」


 確かに辞められなかったら責任とって辞任などないのだろうが、実績もある社長が勇退や定年退職でもない辞任なんてあるのか。


「我が社では役員の八割賛成で社長の退任が決まります。八割の賛成と次の社長候補の用意をすれば、晴れて自由の身ですよ」


 何でもないことのように言うが、それが大変なのだ。普通は。


「幸い、僕の叔父が社長をやりたがっていたので僕が推薦して決定させました。僕の父が存命中からずっとやりたかったのだと手をとって喜んでもらえましたよ」


「……それって前々から社長の椅子を狙っていたかいうあれじゃ…」


 社長さんのお父上がすでに鬼籍の人ということにも驚いたものの、思わず漏れた私の呟きを拾って社長はにっこりと微笑む。


「今の役員は祖父に選出された頑固者ばかりなので、叔父はこれから大変だと思いますよ」


 虎視眈々と狙いに狙ってやっと掴んだ椅子なのに、社長という言葉が名前ばかりだということに気付くということだろうか。その叔父さまがとても気の毒に思えるのと同時に、穏やかに微笑む目の前の人がとんでもなく恐ろしい人に見えた。


「……社長辞めるって、冗談じゃないんですね」


「僕はあまり冗談は言えません」


 この真面目な人はそうだろう。そうなんだろうが冗談であって欲しかった。


「――花さんは僕が社長のままの方が良かったですか?」


 じっと見つめられて返す言葉に私は困った。

 整えられた黒髪、切れ長の瞳、長身を包むのは上等なスーツと靴。今日の見た目も彼は立派な社長さまだ。

 しかし私は彼の会社の社員ではないし、今日はエイプリルフールでもない。

 

「……社長さんがいいなら、それでいいんじゃないですか」


 私がこの人の人生を決めるわけじゃない。

 そう思えば私がとやかく言う話でもないのだ。


「本当に豆腐作るの好きなんですね、社長さん」


「豆腐作りは本当に楽しいです。この年になって天職を見つけた気分ですよ」


 目をきらきらさせながら言う彼をどうして止められるだろうか。


「豆腐を作って食べてもらいたい人がいるので、美味しい豆腐を作れるようこれからもがんばります」


「頑張ってください」


 社員でも部下でもない私は美味しい豆腐が食べられれば幸せなのだから。


「そういえば花さん」


 水を向けられ彼を改めて見返すと、彼はいたずらを思いついた子供のように言った。


「これからは社長ではないので、名前で呼んでください」


「えっと、黒川さん?」


「僕の名字は会社のものなので、豆腐屋になる時は母方の姓に戻します。これからも名字は変わると思いますので名前でお願いします」


「なまえ…」


 何だかハードルの高いことを要求されている気がする。

 私の動揺を見透かして彼は含めるように続けた。


「玲一、と。ぜひ名前で呼んでくださいね」


「花さん」という有無を言わせない声は人を従わせるためにあるようだ。

 社長さんは、やはり社長さんだったらしい。




 

 それから少し経って、ニュースで黒川コーポレーションの社長が代わるという報が流れた。退任理由は経営方針の転換などともっともらしいことをアナウンサーが並べていたが、事の真相を知っている身としては何となく胡散臭く聞こえた。

 業績も悪くない時期の退任騒ぎは一部の経済紙で少しだけ話題にされたが、数日で記事も消え、人の口にも上らなくなった。


 そんな中、社長さんは豆腐屋さんに転職し、今はまだ元気なご主人と一緒に毎日豆腐を作っている。

 家族が増えたと豆腐屋さん一家は彼を可愛がり、彼の方も休みになれば有名な豆腐屋さんに勉強へ出かけた。

 


「じゃあさ、もう悩む必要ないんじゃない? 社長さんのプロポーズの返事」


 実家の食事を目当てに帰ってきた弟がそんなことを言いだしたので、私は持っていた茶碗を落としかけた。

 我が家は夜にも営業があるので早めの夕食を兄弟でとるのは珍しくない。

 今日もそういう、兄弟で囲む食卓だ。


「そうよね。社長さんが豆腐屋さんになったんなら、もう会社のこととか気にしないでいいんだし」


 弟と同じく珍しく実家に帰ってきた妹までそんなことを言う。


「……何言ってんの」


 落としかけた茶碗を食卓に置いて、私は味噌汁に箸をつけた。

 味噌汁の椀の中では豆腐がゆらゆらと揺れている。

 

「そりゃ、大会社の社長夫人って名前の響きはかっこいいけど大変そうだもんね。でも豆腐屋さん継ぐなら豆腐屋さんでしょ? うちは定食屋だしちょうどいいじゃん」


 やけに現実的な妹の意見に弟も頷く。


「そうそう。俺、大学出たら外で働くし、姉ちゃんが実家に居てくれたら助かる」


「あんたは食事たかりに来るだけでしょうが」


「私もお姉ちゃんが実家に居ると安心だよ。私大学出たら留学行くし」


 自分の都合ばかりの弟妹たちに意見を半ば呆れて聞いて、私が溜息をつくと「何を悩んでるんだか」と弟が悪態をついた。


 

 社長さんは、近頃ではプロポーズはまったくしない。

 それどころかそういう話はまったくない。

 彼との会話は他愛もない話ばかりだ。

 

 だからといって、社長さんが追いかけっこの末に叫んだ言葉を忘れたわけでもない。

 忘れたわけではないのだが。



(――どうしよう。今更緊張してきたじゃない…!)


 お節介な愚弟のせいで、私はレジの前で緊張を強いられるはめになっていた。

  

 社長さんは豆腐屋の仕事を終えると時々、夕食もうちに食堂で食べていく。

 今日もそんな日で、社長さんはいつものように日替わり定食を頼んだ。夜も昼も同じメニューを飽きもせず食べるものだと思ったら、今日は揚げ出し豆腐の日で、最近知ったことだがこれが社長さんの好物だった。


 内心どきまぎしながらお会計と注文の作業をしていたら、次第にお客は減っていき、不意にがらんと店の中から客がいなくなった。


(静か…)


 奥で母と父が片付けをする音以外の音が消え、私はふと店の外ののれんに目をやった。暗がりに浮かぶそれをいつ片付けるかは、最近では私の役目になっている。


「――花さん」


 呼びかけに顔を上げると、社長さんがレジの前でいつものように微笑んでいた。

 最近の社長さんはラフな格好が主だ。今日もシャツにジャケットで、整えられていた黒髪は少しだけ伸びて若く見える。

 

「お会計ですね」


 意外に長く寛いでいた社長さんが居た席にはすでにお茶しか置いてなかった。彼がこれほど長居するのは珍しい。

 社長さんは今日も580円を払って、私がレジを閉じるのを待っていた。


「今日、やっと御主人に合格をもらいました」


 どういうことかと長身を見上げると、社長さんが照れたように笑う。


「豆腐の仕込みを明日からやらせてもらえるようになります。やっと職人の一歩を踏み出せそうです」


 本当ですか、良かったですね、といった上滑りな言葉よりも先に私は自分の顔がほころんでいくのを感じた。


「社長さんの豆腐、もうすぐ食べられそうですね」


 楽しみです、と微笑むと社長さんは穏やかな視線のまま笑みを収めた。


「――僕はまだまだひよっこですが、やっと言えそうです」


 何を、と問いかける間もなく社長さんは続けた。



「あなたが好きです。結婚してください、花さん」



 かた、と鳴ったのは何の音だろうか。

 真っ直ぐな目を見返しながら、私はそんなくだらないことを考えていた。


(ああ、そうか)


 それぐらい、自然なことだったのだ。


 私が、社長さんを好きになったことは。


 今にも震えそうになる体を叱咤して、私は腹に力を込めた。

 ここで逃げ出しては女が廃るというものだ。


 唐突で、真面目で、真っ直ぐで、少し怖い人を見つめて私は答えを思い切りぶつけるべく、大きく息を吸った。



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