おしゃべりな社長さん
「遠慮しないで食べてくださいね」
「あ、はい…ありがとうございます」
昆布だしを湛えてぐらぐら煮えた鍋の中で、さいころ型の豆腐がゆらゆらと旨そうに揺れている。小鉢に収まるほどの豆腐がふるふると震える様子は優雅で、やはり旨そうだった。
退職したばかりの会社で追いかけっこをした挙句、大泣きをした私が両親の待つ実家に帰れるはずもなく、今日もやっぱり帰れないと連絡をしたところで社長さんが自宅に誘ってくれた。
タクシーに乗れば近いから、と早速道路端でタクシーを捕まえて私を乗り込ませて連れてきたのは3LDKのマンションで、オートロックはついているものの大会社の社長が住んでいるというより家族向けのマンションだ。
外観は古いが構造は丈夫なのだと社長自ら笑いながら自宅に招いてくれた。
部屋は、典型的なほどあっさりとした独身男性の部屋だった。
小奇麗なリビングにはカウチにテレビ、閉じられたドアの先は書斎か寝室。書棚に並んでいるのは技術書や小説で、ベージュと黒にまとめられた部屋のインテリアは秘書任せらしい。奥の一室は客間になっていて、たまに知り合いが泊まっていくのだという。
風呂を勧められたがさすがに入るわけにもいかず、お腹が空いたと言うと社長さんは少し待ってとエプロンを手に取った。
そうして出てきたのが、
「……美味しい!」
湯豆腐であった。
手際良くリビングのテーブルに並べられたコンロに土鍋、ぽんずにゆずこしょうまで出てきて何が始まるのかと見ていると、大きな昆布を取り出した社長さんは鍋になみなみと貯めた水に昆布を深く沈めたのである。
ゆっくりと昆布から出汁をとったら仕上げに鰹節をばっさりと乗せる。
鰹節を出汁で少しあぶるようにして煮てこしたら黄金色の出汁の出来あがりである。
優しい味の出汁に揺られた豆腐は私の空腹をゆっくりゆっくりと満たしてくれた。
「僕の部屋に来る人は大体お酒を飲んでくるので、僕のレパートリーは二日酔い対策のメニューばかりなんですよ」
お酒と一緒に油物を食べてきたお腹に優しいメニューを作るのは、エプロンをつけてほんのり笑う社長さんらしい。
かいがいしく豆腐までよそってくれるので、手伝いをしようとするのだが彼の方が手早くて私は結局お客様のまま。
豆腐につづき、鶏肉、白菜、一番最後は雑炊まで私は社長さんに世話されるがままお腹にいっぱいなっていた。
「ごちそうさまでした」
雑炊用のれんげを置くと「おそまつさまです」と社長もおたまを置いた。忙しく立ち回っていたのに私よりも彼の方が多く食べたかもしれない。
「――少し、落ち着きましたか」
そう言う社長の視線が私の目元に集まった。
泣き疲れてひどかった顔は洗面所を借りて洗い流したが、目元は赤くなったままだ。
今なら少しは腫れも引いたかもしれないと思うが、むくんだ顔はなかなか戻らないだろう。
「ご迷惑をおかけしました」
ご飯まで作ってもらったのだ、と頭を下げると社長は苦笑する。
「いえ…僕のせいですから」
それもそうだと落ち着くと、今の今まで考えないようにしていたことが頭にぽんと蘇る。
(……私、社長に告白されたんだった…!)
かなりどさくさまに紛れていたが、あれはそういうことだろう。
さすがにそこまで鈍感にはなれない。
いつもされていたプロポーズは、何と言うか挨拶みたいなもので、今回はちょっと違う。
あんなに激しくぶつけられては、無視をするという方が無理な話だ。
満腹だけではない、頭の先からじりじりと焼かられるような熱に眩暈がした。
どうしよう、どうするの。
あんなに真っ直ぐな告白どうやって返せばいいの。
まるで度胸を試せない私だったが、社長は静かに見つめて口を開く。
「……派遣会社さんからの話は、やはり断ってしまいますか」
そちらの話からだとは思っていなかったが、私の頭は仕事の話に少し冷えた。
「派遣会社は明日には辞める予定ですし…」
言いかけて、かねてからの疑問を私は口にする。
「――どうして、私を黒川コーポレーションの秘書に?」
私の疑問に社長は少しだけ迷うように視線を彷徨わせてから、やがて静かに私を見据えた。
「純粋にあなたに向いていると思ったからです。黒川コーポレーションで働かなくても、あなたは一度秘書をやってみるといい」
秘書という職種に興味はなかったが、彼の言葉は興味深い。
自分の可能性の一つとして考えてみるのもいいのかもしれない。
なるほど、と私が納得していると社長さんは困ったように笑う。
「……格好いいことを言ってみましたが、僕があなたにそばに居て欲しかっただけですよ。――あなたは素直で困ります」
私を素直と評するのは、社長さんぐらいだろう。
私は自分のようなひねくれ者を見たことが無い。
「……僕はね、あなたの姿が見えなくなっておかしくなったんです」
いつもの食堂に行っても姿が見えない。
会えない。
声も聞けない。
「僕はそのことに自分でも驚くほど我慢できませんでした。だからあなたを探しました」
テーブルを挟んだ彼が仄暗い瞳で私を見つめる。
「あなたを見つけたら、もう絶対に放さないと思って」
でも、と瞳を閉じて彼は笑う。
「花さんに会ったら、そんなことどうでもよくなりました。僕の良くない感情が全部洗い流されてしまって。……僕の負けです」
勝ちや負けのあることではないのだろうが、そう言って笑う社長さんに、私もきっと負けたのだろう。
それから色々なことを話した。
美味しいご飯のこと、豆腐のこと、おからドーナツのこと。
たくさんのとりとめもないことを話していたら、すっかり遅くなってしまったので私は客間を借りて眠ることとなった。
綺麗に整えられたベッドに潜り込むと、布団の奥から隠れたお日様の香りがした。
それは、社長さんに抱えられた時と似て、私をゆっくり眠りの世界へと連れて行ってくれた。
※
薄く開けたドアから滑りこむように部屋へ入ると、安らかな寝息が聞こえる。
ベッドの上の小柄な人に近付くと、彼女はすやすやと安心しきって眠っていた。
「……そんなに信頼されると、逆に何もできないな」
吐息を紡ぐ唇は黒川にとって何よりも魅力的だったが、彼女の信頼はそれより何倍も甘美だ。
嫌われたくないと思っていても、彼女との間に流れる時間は柔らかで優しく、そしてまどろみの中のようにたゆたっているので、時々浴びるほどの憎しみでもいいからこちらに向けてくれないかと思う時がある。
「――花さん」
ベッドサイドに腰をおろして、そっと彼女の額を撫でる。小さな額は滑らかでまるで子供のようだった。
「僕はあなたに会うまで狂っていたんですよ」
狂ったように花を探し、狂ったようにどんな手段でも使った。
そしてどうすれば彼女を確実に捕らえられるか、それを本気で考えた。
「あなたを捕まえたら、今度こそ逃がさないで縛り付けてやるつもりだったのに」
彼女は黒川の狂った部分を綺麗にどこかへやってしまったのだ。
それが清々しくもあり、少しだけ恨めしい。
「おやすみなさい」
今度はその手を放さずに済むように。