上等な社長さん
豆腐屋さんが出てきますがおおむね大雑把な設定なのでツッコミはご遠慮ください。
「結婚してください」
「お断りします」
一秒の迷いもない返答に、彼は目に見えて肩を落とした。
そしておもむろにスーツの懐から財布を取り出す。以前、カード払いはできないと言ってから彼は幾らかの現金を持つようになった。
しかしそれは本当に幾らかで、素人目にも高そうな財布に光るのはほとんどがブラックカードだ。
これ見よがしなそれに、スリに遭ったらどうするんだと訊ねると、彼がこの財布を持つのは、この食堂に来る時だけだという。
「……今日のお会計は?」
「580円になります」
そうして日替わり定食を律儀に毎日食べに来る彼は、黒塗りの車に迎えられて慌ただしく帰っていく。
「社長さん、今日も忙しそうだねぇ」
常連のおじさんがのんびりと笑う。
「そうですね」
レジを閉じると、私は昼食を楽しんでいる常連さんと会話しながら奥の厨房へと戻った。
社長というのは渾名ではない。彼の本職だ。
名前は、黒川玲一。三十二歳独身。黒川コーポレーションの若き社長である。
乾物屋として興ったというその会社のワカメは我が食堂でも扱っている品物で、今やワカメに限らず様々な分野で手堅い経営を続ける大会社だ。
片や私こと、神埼花は生まれも育ちも平凡だ。
丘の山商店街の一角にある神埼食堂の長女として生まれ、一度は働きに出たもののご世間の例にもれずリストラされ、実家に戻った無職である。
二十六という微妙な年頃の女に仕事を授けてくれる会社はなかなか無いようで、働かざる者食うべからずという家訓の元、両親が元気に経営している食堂を手伝いながら、日々職を探す日々だ。
「今日も来てたのねー」
昼時もひと段落ついたからか、おっとりと母が親子丼を持ってカウンターにやってくる。
「そうね」
「諦めてお嫁にいっちゃえばいいのに」
ダン!
母のからかうような声を遮ったのは厨房で何かをぶった切るような音。
「……夜の仕込みに大根が足らねぇ。お前買ってこい」
顔を鬼のようにしかめて言うのは父だ。いかにも職人気質の厳つい顔は子供が見れば泣きだしそうである。
「はーい」
財布を手にカウンターを立つと、両親の会話が私の背中を押す。
「……社長の嫁なんざ苦労ばっかりだろうが! そんな胡散臭い所に嫁にやれるか!」
「あらー。玉の輿よ? 少なくとも老後の心配はいらなくなるわよー」
のらりくらりとした母が父の反対をかわしているから、今はマシになった方だ。前は、プロポーズにやってきた彼に卵を投げつけていたものだから卵代が相当にかかった。
店をそっと出ると商店街の穏やかな空気が私を迎えてくれる。
(私だって嫌よ)
今の御時世、二十六無職の女がおいそれ結婚出来るとは思っていないが、それでも結婚に夢見るお年頃だ。想像ぐらいはしている。
私が結婚するのなら、誠実で、優しくて、出来れば両親の食堂を手伝ってくれる人がいい。
妹と弟が居るものの、彼らは遠くの大学へ行っている。両親の近くに居るのは私だけだ。
出来ることなら、両親と同居したいとも考えていた。
家を飛び出したいと言った私の背中を押してくれた両親だけど、寂しそうにしていたのは知っている。
会社の倒産という予想外の出来ごとに巻き込まれたものの、実家へ帰ってきてからこうして食堂を手伝っていることは悪いことではないと思っている。
会社勤めに出たもののいずれは結婚して、父と母と、未来の旦那様と食堂を経営する。それが私の夢であり目標だった。
だがしかし。
「――結婚してください」
「お断りします」
まるで挨拶のようなプロポーズに応えたいと思えないのだ。
(だって冗談でしょう)
ぴかぴかの革靴に食堂にはおよそ似合わない落ち着いたストライプのスーツ、その体長は日本人にぴったりな暖簾をくぐるのが辛そうなほど高い。洗練された装いにくっついているのは高い鼻筋、整った顔立ち、相手を射抜く意思の強そうな瞳。
「……お会計を」
やや薄い唇から紡ぎだされる高い身長に見合った低い声で囁かれれば、愛想のない言葉も甘く聞こえる。
姿だけでも十分上等な男性に毎日のようにプロポーズされるなど、どこの漫画か小説か。きっと今時こんな現実味のない設定は流行り好みの出版社だって袖にするだろう。
「580円です」
だから今日も私は日替わり定食の値段だけ口にするのだ。
何の遊びか知らないが、金持ち男の道楽に付き合っているほど暇ではない。
無職女の卑屈と嫉妬の混じった言い訳を並べていると、ふといつものようにガラガラと戸が開かないことに気が付いた。
見上げると何拍子も揃った男がこちらを眺めて何気ない風に口を開く。
「――そういえば、三軒先の豆腐屋は休業中なんですか?」
そんなことを尋ねられて「ああ」とこちらも何気なく口にする。
「豆腐屋の奥さんが入院されてしまって、ご主人だけじゃお店を開けられないから今休業中なんです」
早朝からの仕込みをご主人一人でこなすのは高齢も伴って無理だと息子に止められたらしい。
おかげで毎日仕入れていた豆腐を変えざるをえなくなってしまったのだがいわゆる古い商店街にはつきものの後継者不足というやつだ。
私の答えに社長もなるほどと頷く。
「味噌汁の豆腐の味が変わったからおかしいと思って」
日替わり定食には毎食味噌汁がつく。豆腐の違いを分かるとはさすがに日替わり定食を毎日食べているだけのことはあるが、常連さんでもなかなか気付かないほど味の違いを分からなくしていたはずなのに。
セレブは舌まで違うのか。
内心舌を巻いているとまだ社長がお帰りにならずに私を見下ろしている。何だろうと首を傾げると、
「……豆腐屋が無くなると困りますね」
確かに困る。
だが困るのはうちであってあなたではないのに、どうしてそんなに深刻そうに眉をしかめていらっしゃるのか。
不思議に思っていたのだが、当の社長さまは外からのクラクションに「あっ」と呻いて私に挨拶もそこそこに帰って行ってしまった。
そしてこの話はまた忙しくなった私の記憶の彼方へ飛んでいき、社長との会話は海馬の奥深くへと放り込まれていったのだが、それが思わぬ方向に顔を出すとは誰が予想できただろうか。
「……えっ」
何か言葉にしようとして失敗した私を後目に柔らかに微笑んだ社長が高らかに宣言した。
「今日から豆腐屋を手伝うことにしました。これからよろしくお願いいたします」
ご指摘いただき誤字修正しました。
スプライト→ストライプ
妖精ではなく縞です。
ありがとうございました。