一欠けらの、月影の夢
月が見えない。
雲に隠れてしまう。
ふるさとにはもう戻れない
きっと私は月で生まれた人だから
京都行きの汽車に乗られながら、橋崎希来里は、そう自作の歌を口ずさんでいた。今日は故郷の愛媛を離れて、就職先の京都へと向かう日だ。朝から慌ただしく準備をすませ、列車に駆け込んだはいいものの、自分が置き忘れた想い出の数々は、手放すには愛しくて切なすぎる。
中でも大学卒業間際にけんか別れしてしまった恋人、糸井蘭次のことはすぐに忘れるには辛すぎる想い出だ。蘭次とのケンカの理由はささいなことだった。蘭次が本気で画家を目指そうとするのを、希来里らしくなく止めてしまったからだ。
画家になる。夢はあるが、生活は不安定、将来は見えない。二人の理想の家庭を築けそうにない。そんな身勝手な想いから、つい蘭次に口出ししてしまった。希来里は後悔する。
小さな女だな
私って
自分も自作の創作詞で
自分の心を紛らわせているのに
蘭次は当たり前のように怒る。「希来里は運命の人じゃない」「彼氏の夢を支えるのが彼女じゃないの?」「希来里といるより好きな音楽や本に囲まれてる方が幸せだ」。そう言って、すっかり自分の殻に閉じこもってしまった。その殻をつついて破ることも出来ずに、すごすごと自分の家へ帰ってしまったのが昨日のように思い出される。
会いに行くわ
汽車にゆらり揺られて
彼の心の傷は大きいけれど
あなたの涙をぬぐうため
そんな歌詞を作っていた自分が遠き日々に霞んでいく。あの日を境に蘭次とはめっきり会う機会もなくなり、蘭次はより内向性を増し、内向きになっていった。希来里は希来里の方で、自分の空想の世界へ逃げ込み、自分を苛むことから免れた。そこでは自分が主人公、自分を守って、庇って、労わってくれる存在、人々ばかりだ。
希来里は、自分が創作詞で作り上げた空想の世界で、月の住人として世界を見下ろしていた。青く美しい地球は誰にも侵されず、誰にも責められず、誰にも踏み込まれない場所として、輝きを放っている。昨日は、月の世界で泣いている人を見かけたが、その人は魔法の言葉を希来里が一言投げ掛けるだけで、涙を拭い、立ち上がり、自分のあるべき場所へと帰っていった。
「心地いい」
そう希来里は呟くと、汽車の車窓から覗く、桜の花が咲く景色に身を委ねる。すると彼女の心は豊かなイマジネーションの世界へと、月の世界へと運ばれていく。
月の世界では私は双子
一人は希来里
一人は月影
二人は一卵性双生児
月影は月の都の後宮に住む。王様よりも好きな人がいるのだけれど、彼女は王の熱心な求愛と、周囲の勧めもあって、後宮に行かざるを得なかった。「可愛そうな月影」。そう月影の気持ちを慮るも、彼女の本当の気持ちは希来里にも分からないところ。後宮に久方ぶりにひっそりと訪れた希来里を、ヴェールの向こうから現れた月影が出迎える。
愛してる? 愛してない?
私にとってはそんなに大切なことじゃない
だってもう一人の私
希来里が幸せなら私はそれで充分だもの
月影の言葉に、希来里は言葉をなくす。そう。自分の作り上げた空想世界では、月影はそんな女の子だ。希来里の現実での幸せを第一に、真っ先に考えてくれる女の子だ。そういう子だ。月影とは。
青い地球を臨む天窓を、仰ぎ見る月影の横顔は、それは美しくて艶があった。「月影」。そう希来里は声をかけようとしたが、月影はゆっくりと歩みを進めて、希来里を差し招くように後宮の奥へと足を伸ばしていく。
人生は簡単じゃない
後宮に嫁いだ月影は
心は悲しいけど幸せだ
現実はもっとムズカシイの
自分を犠牲にしてまで、希来里の幸せを願ってくれる月影に、希来里は甘えて、ワガママを言ってみる。月影は静かに笑う。
「そう私は幸せよ。心は悲しいけれど、本当に幸せ」
自分の口をつい、ついて出た憎まれ口に希来里は、恥じ入り、顔を伏せる。だけど月影はそんなささいなことは気にしてないようだ。今、希来里は幸せと不幸せの境界線上にいる。この子だけでも幸せにしなくては。そんな想いで月影は一杯だった。
「希来里、あなたには幸せになって欲しいの。悲しみも何ひとつなく」
そう口にして、二つのフロアに、月影は希来里を運び、連れて行く。一つのフロアでは、働き、汗を流している人々がいる。彼らの手にするモノは多いが、どこか心に充足感がないようだ。モノを手に入れては捨て、モノを手に入れては新しいモノを手に入れている。その繰り返しで、彼らは疲弊しきっているようだ。
大切なのは心が満たされること
何を目指して生まれてきたの? 希来里
あなたには目の前に
大切なものがあり人がいるじゃない
「そうだ。その通りだ」そう胸の内で希来里は呟く。その一つ目のフロアは鉄屑や、鉄筋コンクリートで囲まれてどこか殺伐としている。建物、人間の体の一部でさえ、機械で作られている。「少し、怖い」。そう希来里は口にすると、月影の勧めるがままもう一つのフロアへ向かう。
もう一つのフロアでは、人は歌を唄い、絵を描き、音楽を奏でている。モノには時に事足りぬ時があるようだが、彼らの表情は充足感で満ち満ちている。「これだ。これが私が本当に求めていた『夢世界』」。そう胸をときめかせる希来里に、月影は釘を刺す。
この世界は大変なのよ
大きいものは多くを手に入れて
小さきものは心の充足だけで生きて行く
それでも耐えられる? 希来里
希来里は、その月影の言葉の真意が分からなかったけど、今、自分が進むべき道は決まっているようだった。自分は、鉄屑や鉄筋コンクリートの世界で生きる人間じゃない。多くを失い、多くを手放すかもしれないけれど、自分はこの「夢世界」で生きて行かなければいけない。そう思うと蘭次の顔が、希来里の心を掠める。
「彼のもとへ行かなければ。帰らなければ。じゃないと私の『夢世界』も、現実の幸せも遠のいていく」
そう胸の内で希来里は呟くと、荷物を纏めはじめる。京都まではもうすぐだ。京都に着いたら、愛媛への帰りの切符をすぐに買おう。そして言うんだ。蘭次に。
「一緒に夢を追って行こう」と。そうと決まると希来里は、鞄とバッグを抱えて、汽車から降りる支度をする。汽車はいよいよ京都に着こうとしている。
すると京都のホームには、どういう手段で来たのか分からない。車で前もって京都に先回りしていたのだろうか。蘭次が清々しい表情で立っていた。蘭次の姿を目に留めた希来里は、いてもたってもいられず、車窓に触れながら、蘭次の姿を目に焼き付けながら、汽車の昇降口へと足を進めていく。
さよならは嫌い
大好きだよが好き
君のもとに戻りたい
もし私に許されるのならば
そう心の奥底で叫んで、希来里は汽車を降りると、蘭次に駆け寄る。蘭次は笑って、希来里を出迎える。
「俺も京都で働くことにしたよ。もちろん画家になる夢は捨ててない。一緒に夢を追って行こう。助けてくれるかい? 希来里」
いつの間にか目から涙が零れているのを、希来里は感じ取っていた。
「うん。もちろんだよ。蘭次。ゴメンね。あなたの気持ちを察してあげられなくて」
蘭次は黙って、希来里の肩を抱き寄せる。希来里がふと振り返ると、汽車は京都から離れようとしている。汽車の中には、月影を始め、泣いていた人、歌、音楽、絵画を嗜んでいた人々が乗っている。彼らは幸せそうに手を希来里に振っている。
「あれ? 私の大切な月の世界の住人とは。さよならなの? 月影。あなたと私は一緒。あなたには伝えたいことが、まだ一杯一杯あったのに」
そう胸の内で叫ぶ希来里に、月影は優しくウィンクしてみせる。汽車は走り出す。やがて汽車はホームから離れ、希来里の視界から遠のいていく。汽車に乗る月の世界の住人は、みんな幸せそうだ。
「そうだ。そう。多分これで良かったのよ。私を守ってくれた『月の世界』とはさよなら。私には夢のある現実が広がっているから」
そう何度も涙をこらえながら、頷く希来里の両肩をしっかりと、蘭次は両腕で握って揺さぶる。
「希来里。俺は必ず画家になってみせる。生活にも困らせないよ。きっと幸せにしてみせる。だから一緒に暮らそう?」
もちろん答えは「イエス」だ。希来里は、完全に消えてしまったはずの空想世界に別れを告げる。それを確かめるために希来里は、真昼に浮かんだ月を仰ぎ見る。
月から雲が離れて行く
魔法が解けたら
全てが元通り
月に見えるのは希来里のもう一つの顔
そんな言葉が聴こえた気がした希来里は、「そう。月影は私を後押ししてくれたんだ。だから彼女の分まで」と頷くと、待たせてしまった蘭次にこう伝える。
「うん。蘭次。これまでゴメンね。もう決して離れないから。二人で夢を」
そう言って肩を寄せ合う希来里と蘭次の影は、京都の駅のホームに綺麗に伸びている。蘭次は、希来里の手を強く握り、言葉に力を込める。
「そう。希来里。一緒に。幸せになろう」
その瞬間、陰のあった月影の微笑みから、悲しみの一切が遠のいたように希来里には思えた。「そう。あなたが愛してた人もきっと。蘭次」そう口にして希来里はこう呟くのだった。
「ありがとう。月影。あなたの分まで幸せになってみせるから」