九、祓魔の歌姫と狼の円舞7
「は?」
布の塊が言い出した事に、宿の部屋でリラは八割方不信感で染まった声を上げた。
「だからぁ、私がねぇ」
「歌比べして勝ったら、シセリアを貰う?」
「そうぅ」
「誰と誰が歌比べ?」
「あは。私とシセリアさんだよぉ」
「寝ぼけんのも大概にしろ」
「酷いねぇ」
「どうやっても負けるだろうが」
この布の塊と、可憐な(夜な夜な妖を狩る物騒な裏の顔があったとしても)少女とではすでに外見的に雲泥の差がある。絶対負ける。
「くふ。リラさんはぁ、私が負けるって思ってるのぉん?」
「だからそう言っているでしょ」
「まぁ! 有り得ませんわ。ビオ兄様が負けるなんて」
寝台に腰掛けてホットミルクを飲んでいるシセリアの隣に座っていたレルトはそう言うと、ぴょいっと布の塊に抱きついてリラに抗議した。
「ビオ兄様は歌謡いですのよ。ねー? ビオ兄様」
「うん。そうだよぉ。レルトさんはわかってるねぇ」
「アンタ子供を騙すのやめなさいよ」
「もう! どうしてそんな事言いますの!」
わかってませんわー! と頬を膨らまし、レルトはますますぎゅっと布の塊に抱きついた。まるで、自分の抱えたぬいぐるみが一番可愛いのだと主張するかのように。
その光景は不気味な布の塊と金髪の愛らしい少女という組み合わせ。これで暗い洋館に満月でもあれば恐怖劇の幕開けだ。
「ともかく……、大道芸とは違うのよ。この街一番の劇場で、ここで一番の歌姫と競って、この昼行灯が勝てる訳無いでしょ」
「昼行灯てなんですの?」
「レーティ、行灯は東の国で使われている照明器具だ」
フェルゼがそう言い添える。
「確か、昼に照明器具使っても意味ないじゃん、て事で役立たず……あ」
ルゼが失言に固まって冷や汗をかくその目の前で、当の布の塊はおかしそうに笑ってひらひらと片袖を振って見せた。
「よぉく覚えていたねん。偉いよぉ?」
「び、ビオルさ……」
「うんぅ?」
「すみません」
「何で謝るのぉ。ちゃんと教えた事を理解して覚えていたのにぃ。おかしな子だねぇ」
「ともかく! 勝てない。却下」
リラがそう言うと、ビオルは少し考えた。
「リラさんや。そこまで言うならぁ、私が勝ったらどうするぅ?」
「は?」
「そこまで自信を持って、私が負けるってぇ、言い張れるならぁ、もし私がそれを覆したらリラさんは何かを対価としてくれるのかなぁん?」
「……。賭けをしようっての?」
「うふふ。自信がないならぁ、別にいいよぉ?」
変質者の昼行灯の分際で喧嘩を売ってくるとは、という思考よりも、むしろそんな存在に喧嘩を売られた事の方がリラには今までのことも含めて許容量の限界を超すものだった。
「上等。やってみろ」
「じゃあ、私が勝ったらぁ、三つのお願いでも聞いて貰っちゃおうかなぁん」
「負けたら?」
「三つお願いを聞いてあげるぅ。どんなものでも、私にできるものならねぇ」
夜の帳は下りて、劇場では幕が上がる。
今夜の出し物は特別だという触れ込みに、暇と資金を持て余した上流階級の人々はこぞって足を運びその席を埋めていた。
「うげ。人間がこんだけ集まってるのも怖ぇな」
「仮面の所為だろう」
舞台の袖から観客席を見て、ルゼとフェルゼは互いに感想を口にする。
「うふふー。ビオ兄様のお歌がもうすぐ聴けますの」
ルゼとフェルゼの間に立ったレルトは蕩けそうな笑みでそう呟き、うっとりと歌い手が立つ予定の位置へ熱い視線を注いでいた。
三人の後ろから呆れ顔で顔を出したリラはそんなレルトに声を掛ける。
「歌うのがあれで、本当に勝てると思ってるの?」
「勿論ですわ」
即答だ。あまりに迷いの無い応えにリラはそこはかとない不安を覚えたので、さらに聞く。
「聴いたことあるの? あれの歌声」
「本気でお歌いになった所はまだ拝見しておりませんわ。だから、今日がとっても楽しみでしたの!」
それで何でそこまではっきり断言できるのか。はっきり言って不安しかすでに無いのだが。
思わず片手で顔を覆って溜め息をついたリラに、レルトがちょこんと首を傾げてみせる。
「ビオ兄様を信じられませんの?」
「無理」
どこをどうすれば逆に信じられるのか聞きたいものだ。
「うふふ」
「何?」
「勿体無いですわ。ビオ兄様ほど、信じられる方もいらっしゃいませんのに」
可愛らしい少女人形めいた吸血鬼の少女は笑う。
どこか誇らしげなその顔に目が惹きつけられたのと支配人が開幕を宣言したのはどちらが早かったのか。
「さあ! 今宵、皆様にご提供致しますは我らが歌姫とそれに挑む旅の歌い手、その競演! どうぞ二人の歌を聴き、気に入った方へ拍手と花を!」
口上の後、最初に歌うのはシセリアだ。
後ろ裾の長い紺色のドレスは華奢な身体の線を引き立たせ、ドレスと同色の花飾りを付けた銀髪が神秘的な美しさを醸し出している。目じりに入れた青いラインは実年齢よりも少女を大人びて見せていた。
銀色の睫がそっと開く瞼を彩り、現れた紫の瞳が真っ直ぐに観客席へ。
花びらのような淡く色付いた唇から、街一番と名高い歌声が零れ広がった。
(あー。駄目。これ、もう負け確定)
リラは舞台袖でその歌声を聴きながらそう思った。