二、人と妖と精霊と
二、人と妖と精霊と
「…………」
「いやー、スリリングだったね! リラさんや」
もうこいつ斬ろう。それしかない。
「リラさん?」
ざばりと水音をさせて立ち上がったリラは静かな決意と殺気を滲ませて腰に差した剣の柄に手を伸ばした。
流石にその漲る怒りはビオルにも伝わったらしい。 心なし口許を引きつらせる。
「お、落ち着こうよー。そんなに怒っちゃいやん」
ビオルのその言葉と恥らう乙女のようなその仕草に、リラは微笑む。
(殺す)
固い決意と同時に鞘から剣を引き抜き、首を胴から切り離す勢いで一閃……しようとしたのだが。
「ビオ兄様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!」
「え。ちょ!」
「レルトさんっ!」
さながら弓矢の如し速さで、小さな臙脂色の『女の子』が濡れ鼠通り越した雑巾状態の布の塊へ突進し、その首に直接攻撃を敢行した。
馬も馬車も急には止まれない。同じく確実に仕留める気で放った一撃もまたしかり。
(嘘! 駄目!)
視認と同時に脳が腕へと停止の信号を送ったけれど、間に合わない。
リラはその剣が少女を切り裂くだろう未来に、頭の中が真っ白になる。
が。
「あ、危ないじゃない。一瞬息の根止まりそうになったよー?」
甲高い金属特有の音がした後には、無傷の少女と雑巾塊が抱き合っている光景があった。
「だってぇ! ビオ兄様いつまで経っても戻られなくて……心配したんですのぉ!」
濡れ雑巾が金髪の小さな少女を片手で抱え、もう一方の手で構えた短剣をもってリラの剣を受け止めているなんて状態がそこに展開されている。
「ごめんごめん。ちょっと路に迷ってね」
「ご無事で何よりですわ!」
「あ。リラさんも大丈夫ー?」
大丈夫に見えるのか! そう怒鳴り返す気力も体力も残っていないリラは、ただゆっくりと剣を引いて鞘に収めることしか出来なかった。
「ビオ兄様がご迷惑掛けましたの」
「あはー。ごめんね、リラさん」
ゆるく波打つ金髪に白皙の肌、そして茜色の瞳をもった十才くらいの少女は名前をレルト。そう名乗った。
黒いレースの縁取りがされた臙脂色のワンピースドレスに白い靴下、黒いリボンのついた黒い靴。まさしくお人形のような少女だった。
そんな少女は今もあの滝で出会った時と同じように、布塊の首に両腕で抱きついている。
犯罪臭しかしない光景だと思うことで現実逃避して精神の回復を図っていたリラは、ようやくこの段になって意識を現実に戻し始めていた。
滝壺めがけて飛び降りた二人とその内一人に抱きついたレルトは当然ながらずぶ濡れになったわけで、ひとまず安全の確保を最優先してビオルの設置していた天幕へと移動し、服を着替え今に至る。
今のリラが身につけているのは目の前の幼女趣味がもっていた着替えであるのだが、意外な事にどうやらあの布の下に着ている服は随分まともであるようだ。
黒い詰襟の袖なし上着と動きやすい材質の同色ズボン。こういったものの他にもあったが、どれもまともで拍子抜けしたくらいだ。
「ビオ兄様……」
「何かな? レルトさん」
「どうしてそんなしゃべり方なさってますの?」
「あー。それはね、リラさんにいつもの喋り方で話しかけたら問答無用で斬られそうだったからかな」
いや、その喋り方でも叩き斬る。
そんなリラの心からの声とレルトの不思議そうな視線に、ビオルは溜め息をついた。
「わかったよぉ。これでいぃ?」
「いつものビオ兄様ですわ!」
「さっきまでと変わん無いでしょそれ!」
どこが違うと? その一言に尽きるのだが、レルトは満足したようでぎゅーっとビオルの首に抱きついて甘えている。
「あはは。まぁまぁ、リラさんも落ち着いてぇ」
叩き斬りたい。 けど、レルトまで斬ってしまうからできない。
ぶるぶると葛藤に身体を震わせるリラにビオルがひらひらと片袖を振る。着替えても相変わらずローブで全身を覆った布の塊だ。勿論、ローブ自体は変えているが予備はいくつかあるらしい。
「とりあえずぅ、ご飯にしようぅ? リラさんにも迷惑掛けちゃったしぃ、今日は泊まっていってぇ?」
「…………」
断る口実を探したが、服はまだ乾かず、今からではもう日が暮れる。夜の不案内な森を進むほど危ないものはない。結局、選択肢など他に存在しなかったのだ。
陽の沈む時刻が早まっていくこの時分。すぐに夜はやって来た。
「はい。どうぞ」
「ありがと」
レルトが笑顔で渡してくれた器には森で取れた食べられる野草と野鳥で作ったスープが湯気を立てている。少し硬い黒パンを千切ってスープにつけて食べるのが一般的な食べ方だ。
一口それを食べてリラは目を丸くした。
「美味しい……」
「勿論ですわ! だってビオ兄様がお作りになったんですもの」
いや、だから美味しくて驚きなのだ。
だってこれを作ったのはあの布の塊。不審者。幼女趣味の変態。
「ねぇ? なぁんかとぉっても失礼な事考えてないかいぃ? リラさんや」
「余程出来た鳥と草だったんだ」
「出来た鳥と草ってぇ……」
そう言ってスープを平らげるリラにビオルは仕方なさそうに溜め息をつきつつ、満足そうに微笑んだ。
「ビオ兄様。はい、あーん」
「っ! ……! ……!」
げほっ! とリラはパンを喉に詰まらせ拳で胸を叩いた。
「あのねぇ、レルトさん。リラさんが凄く勘違いというかぁ、益々私をぉ、不審者って目で見るからぁ遠慮してくれるかなん?」
「えー……。わかりましたわ」
「うふ。ごめんねぇ? リラさん、はいお水」
危うく彼岸が見えそうになったリラは差し出された水筒の水を飲み干し、膝にレルトを乗せている布の塊を恐ろしいとでも言うような目で見る。
「ちょ、だからぁ、誤解だよぉ。もうぅ……」
言葉にせずともリラの瞳が「この変態!」と叫んでいるのは感じ取れたらしい。
「何が問題ですの? ビオ兄様はビオ兄様ですのに」
リラの態度にレルトは不思議そうに呟いた。
「このままでは良くないな」
ぽつりと夜闇に沈む森の木々の中、雫の様な声が落ちた。
「良くないって言っても、アタシたちにはどうにも出来ないわよ?」
きらりと光るのは炎の色彩をそのまま髪にした女性の金色の瞳。メリハリのある身体を踊り子のような露出度の高い衣装で包み、良くないと言った青年の氷色をした瞳を見返した。
「人の世は人の世。私たちは私たちだ。そのままに任せれば良い」
笑っているのか退屈しているのか相反するはずの色を同時にもった声音で返したのは、薄衣や羽衣を気ままに着崩している男性だ。翠の瞳は覗き込めば覗き込むほど迷い込む森のように底が知れない。
「何を言っている! お前は事の重大さを少しもわかっていないようだな!」
そんな男性に食って掛かったのはしゃらりと音がする輝石にて身を飾った、長い涅色の波打つ髪の女性。
大地と同じ色の瞳が爛々と燃え盛り、激情は声に滲んでいた。
「愚かな人間の所為で、この地が落とされようとしているのだぞ!」
「落ちれば、多くの命が失われる」
「そうは言っても、手立てがある? 『大陸の心』が約したものを取り消す事なんて、そんな権利アタシたちには無い。いいえ、誰にも無いわ」
炎の女性がそう言った後、大地の女性は忌々しそうに歯噛みする。
「おのれ……愚かな人間共……一体どれだけ、この地を踏みにじれば気が済むのかっ」
「愚かなのは、まとめている頭に位置する人間でしょ。全部が全部じゃないわ」
「それに、人間だけではない。最近では妖も、多種族との諍いや、領域の侵犯を行って対立している」
「放って置けばいいじゃないか。どのみち、大陸が落ちれば一度リセットだ」
今度こそ笑う声で気ままな風を体現した青年がそう言った。
浮遊大陸が落ちる。それはそこに住まう全ての命に関わる問題だ。
「リセットされて、まぁ、少々時間は掛かるだろうが、いずれまた生命は進化して文明を作るようになる。繰り返しさ」
ひらりと羽衣を遊ばせて青年は笑う。その笑みは少しだけ苦笑に近い。
「無くなるものなんてないのさ。命は廻る」
「ふざけるな! 大地は砕かれる! 失われないものなどないだと? 馬鹿も休み休み言え!」
「おやおや。それは失礼。あーあ、退屈だ。私は失礼するよ」
その言葉と共に、青年は本当に消えるように姿を消す。
「あ奴はまるでわかっていない!」
「ノーム。少し落ち着け」
「そうよ。まぁ、気持ちもわからなくもないけど」
炎の女性が溜め息をつく。
「実際、事は急を要する。私は、なるべくならこの地に住まう命を、失いたくない」
「それはアタシも同感だけど。さて、どうしたものかしらね?」
「……人間を滅ぼせば良い」
じわりと染みる毒のように大地の女性はそう呟いた。
「ノーム?」
「人間を全て滅ぼし、契約を無効にする」
氷色の瞳をした青年はその言葉に眉をひそめた。
「何を言っている。そのような事をしても契約を無効になど出来ない」
「そうよー。アンタちょっと疲れ過ぎたんじゃない?」
炎の女性も半分呆れ顔でそう言ったが、大地の女性は聞いているかも怪しい様子で、ギラギラと光る目で二人を見た。
「大陸の心が、人間の願いを叶えるとして約したのなら、その約を守る対象が居なければ無効にもなる」
「ちょっと、おかしいでしょ。そもそもあいつが約した人間はもういないわ。最期の願いとして聞いたんだから」
「世界を壊す? それはこの大陸を落として欲しいという願いか? 否、それはこんな、こんな事態を引き起こした人間の世を壊して欲しいという事だろう! ならば真の意味でそれを叶えてやれば良いのだ。人の世を、人間を消せば人間の世界は壊れるのだから!」
「ノーム」
歪んだ三日月が嗤う。
「そうすれば、この大地は壊れる必要など無い。もう踏みにじられることなど無い。人間という種一つ終わらせるだけで、事は済む!」
「同意できない」
「アタシも。アンタちょっと休むべきじゃない?」
二人の言葉に、大地の女性は忌々しそうに顔を歪め言う。
「貴様らは人間の側に寄りすぎている。我に返る必要があるのはそちらの方だ」
「……頭を冷やせ」
「そうね。ちょっと皆で冷静になりましょ。とりあえず、今日はここまで」
その言葉を合図に、氷と炎の気配が消える。
残った大地の女性は昏い瞳で俯いたまま、夜の闇に溶けて消えた。