十、祓魔の歌姫と狼の円舞8
怖気が走る。身の毛もよだつ。『それ』はそんなものに限りなく近かった。
伴奏は無く、ただ声のみが劇場に響く。
けれど、誰一人としてその声が届かない者は居ない。
衣装はいつもの薄茶ではなく黒いローブ。目深に被ったフードは取り払われ、顔の右半分を隠す髪は長く、後ろ髪は腰まで届く。髪色である緑青色が灯りを弾いて光る。
白皙に少し加味された黄が暖かなミルク色の肌、そして顔の左目元だけを隠した黒いマスクの奥にあるのは深紅の瞳。
そして目を引くエルフとも呼ばれる森の民特有の長い耳。
劇場を支配する歌声と相まって、そして曲名が曲名だけにそれは畏怖さえ抱かせる。
低く哀しい響きのそれは嘆きをそのまま歌にしたようで。『魔王の夜』と呼ばれるその歌を、音程一つの狂いもなく歌い上げていく。
(この、化け物がっ)
そう思っていたのはリラだけではないだろう。反対の袖で舞台に立って歌う元・布の塊を見るシセリアの顔も負けず劣らず恐怖で真っ青に染まっている。
誰も彼もが、支配される。歌が終わって、訪れた静寂の呪縛を破るまでの時間がその深さを示していた。
一つ、拍手が零れ。それがまるで波紋を描くように広がって拍手の洪水を引き起こす。
先に歌ったシセリアにも劣らない、もしくはそれ以上の、拍手だった。
魔王は歌い終えても頭を下げない。ただ、薄く魅惑的に口許へと笑みを刷くだけ。
■ ■ ■ □ ■ ■ ■
「ビオルさんも無茶いってくれるよな」
「あの人だけじゃない。レーティの為にも必要だ。むしろ、ビオルさんは協力してくれただけだと言えるだろう」
「まーな。そうか」
華やかな劇場とは打って変わった静けさに包まれているのは、劇場と繋がった支配人の屋敷、その廊下。
白い壁と大理石の床には赤いカーペットが敷かれ、等間隔で窓があり、所々に置かれた机の上にはケースに入った美術品や花の生けられた花瓶が置かれている。
「使用人もこれだけ部屋があると大変そうだよな」
彼らのほとんどは無人の階ではなくこの後に行われるパーティー会場の準備や賓客の泊まる部屋の準備に忙しいのだろう。
無人かつここは主人の執務室がある階だ。しっかり施錠をされた部屋の前にいる方が、見つかった時にあらぬ疑いを掛けられてしまう。用が無い階にはいない。それが一番の保身だと、彼らもわかっているのだろう。
『多分二十分くらいはぁ、時間を稼いであげられると思うからぁん』
その間にやるべき事。
「レティの為に」
「やるぞ」
「OK」
一度中へ通されたビオルから大体の見取り図を教えられ、今は目的の場所にいる。人気はない。
ルゼは執務室の扉の前に屈み、鍵穴へと細い複雑に曲がった道具を弄り始めたフェルゼを背に隠すようにして、辺りを窺う。
実際の時間は驚くほど短かったのに、こういう時の体感時間は酷く長い。
「開いた。いくぞ」
「こっちもOK」
開いた扉からするりと身体を滑り込ませ、ルゼが後ろ手で扉を閉めてからフェルゼが部屋の窓や続き部屋に繋がる扉の鍵を開けていく。
「退路確保」
ルゼが耳を澄ませて、フェルゼがその間に事前に聞いて目星をつけていた場所を探る。
「あと十六分」
部屋の置時計で残り時間を告げ、それを受けたフェルゼは視線だけでわかったと返事を返す。
「俺も探す?」
「いい。それより、警戒」
じりじりと焦る感覚に身体の芯が焼けていく。
「う~。なぁなぁ、まだ?」
「黙れ」
じろりと睨まれ言われた言葉にルゼは気もそぞろに見張りを続ける。
しばらく時計の音とフェルゼが引き出しを開けたり閉めたりする音が響いて、そして音が止まる。
「あった」
「やった!」
よし! と思ったのも束の間、手にした書類を流し読みしていくフェルゼの目が険しさを増していくのを目の当たりにして、ルゼはごくりと唾を飲み込んだ。
「何が、書いてある?」
「…………」
「フェルゼ?」
「ルゼ。レティには見せるな」
そう言って差し出された書類を受け取り、目を通していくにつれておっかなびっくりだったルゼの目もフェルゼと同じく鋭くなる。
「ゴミ野朗だな」
「塵に失礼だ」
そこに記された現在の猟師たちの『作り方』は、二人の人狼に嫌悪と敵意を抱かせるに足る理由を備えていた。
「それ、持ってくのか?」
「いや。確かめて元通りに戻すように言われてる」
「何で?」
「持っていったら泥棒だ」
さらっと言って、フェルゼは元通りに書類を戻す。
「事実確認が出来ただけでいい。さっさと戻るぞ」
「OK」
本職の泥棒よりもそれらしく手際を披露した二人は様子を伺いつつ廊下へ出る。
「鍵、掛け直す」
「見張りな。了解……ってやば」
軽い気持ちで返事したのがいけなかったのか、油断していたのか、音一つさせないで、廊下の端に黒ずくめの少年が現れた。
「フェルゼ!」
「逃げるぞ」
鍵を掛け直す暇は無い。二人は即座に退路へと身を翻した。