表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血の零落  作者: 香住景
1/1

発端

 大粒の雨が射るように降り注いでいる。いつも耳障りな蝉の声がない代わりに、湿気を多く含んだ大気の中を歩くのは、ひどく億劫な気分だった。

 今日は傘を忘れた。永久が傘を持ってきていたから一緒に入れてもらうが、滴り落ちる雨水で肩が濡れそぼってしまうのは、どうにも避けようがない。

「もう少し傘、そちらに寄せてもいいのに。兄様が濡れてしまうわ」

 永久はそう言ってくれるが、もともとこれは永久の傘だ。それに、可愛い妹の肩を雨に晒させるわけにはいかない。不快感などおくびにも出さず、「帰ったら風呂にでも入るよ」と微笑みかけても、永久は釈然としない様子だった。

 兄想いの可愛い、僕だけの妹。突然の雨には腹が立ったが、永久が僕を気にかけてくれたことでそれもやがて収まっていった。

 学校では蔵元家の次期当主としての振る舞いを否応なしに強要され、家に帰っても祖父の目に怯えながら、祖父が求める“蔵元久遠”を演じ続けなければならない。それを思うと学校から家への帰路はいつも憂鬱になるのだが、永久だけが僕を理解し慰め傍にいてくれさえすれば、それだけで僕はどんな耐え難い苦痛にも耐え、周囲が求める何者にでもなれるような思いがするのであった。

 些細な厭わしい事柄は、日常に多く存在する。けれどそれでも、この日が平穏に過ぎ去っていくことを僕は信じて疑わなかった。

 しかし僕たちが帰り着くと、家中は騒然としていた。

 祖父の怒号が屋敷全体に響く中、使用人たちが青い顔をして慌ただしく走り回っている。わけを知りたかったが、彼らは僕たちに冷ややかな一瞥をくれて通りすぎるだけで、立ち止まって教えてくれる者は誰一人としていない。

 けれど僕には、彼らの心中が痛いくらい分かる。皆、祖父の機嫌をこれ以上悪化させぬよう必死なのだ。

 だから敢えて声に出して使用人のうちの一人を呼び止めるようなことはしないで、僕と永久は重い足取りで怒鳴り声が発せられている一室へと向かっていった。

 控えめにノックして扉を開くと、そこには全身が粟立つほどの緊張が一杯に充満していた。ひどく息苦しく、体が一瞬にして硬直する。部屋に入っていきたくないと体が拒絶しているようで、僕は少しの間棒のように入り口付近で立ち尽くしていたが、刃より鋭い祖父の視線に急き立てられて、無理矢理体を動かし余計な音が立たぬよう扉を後ろ手に静かに閉じた。

 そうすると異様な空気は一層居間に凝縮されて、なんとも居たたまれない気分に苛まれた。理由は分からぬが母は泣き崩れ、その隣で父が静かに寄り添い、伯父はただ部屋の隅で茫然と突っ立っていた。

 永久が不安げな表情でこちらを見上げる。永久と同じくらい僕も不安で仕方なかったが、兄である自分がしっかりしなければと拳を強く握り、恐る恐る言葉を発した。

「何があったのですか」

 特に誰に対して向けたわけではなかったが、その問い掛けに父と母は答えなかった。僕らには視線すら向けず、父は俯いたまま。母は両手で顔を覆い肩を震わせながら、か細く啜り泣きを繰り返している。まるでそうすること以外何もできない木偶のように。

 唯一伯父が「美夜子が……」とひどく小さな声で呟いたけれど、祖父がじろりと伯父を睨むと、それっきり黙り込んでしまう。

 伯母の身に何かがあった。それが何なのかということまではこの時点で察することはできなかったが、しかしこの蔵元家にとって重大事であることだけは何となく予測ができた。

 もっと詳しいことが知りたかったけれど、更に口を利いて祖父の機嫌が悪くなるのを畏れた僕は、鞄を脇に置いて大人しく座していることにした。永久も僕に倣う。

 やがて祖父は無言で退室したが、それでも室内に立ち込めた重苦しい空気が和らぐことはなく一層重く、重く、僕を頭上から押し潰そうとする。

 気を緩めると下を向き背中を丸めてしまいそうになるのを、全身に力を込めて何とか堪えた。

 雨が屋敷を打ち付ける音だけが、鼓膜を震わせる。窓に目をやると、夕刻にも関わらず外は暗かった。部屋の中で、まるでそこだけ切り取って、ぽっかり穴が開いてしまったかのように黒い。

 黒い化け物が、窓から屋敷の中を伺い、贄を求めている――。

 ひどい妄想が脳裏を掠めた。頭を緩く振って改めて窓を見ると、そこには闇を背景にして、何とも頼りなさげに腰掛けた細長い男が映っているだけだった。

 どのくらいの時間そうしていただろう。沈黙にも慣れ、疲れから瞼が重くなってきた頃、ドアが小さくノックされて、屋敷の中でも最も古い使用人がおずおずと入ってきた。

「孝仁様が、書斎へ来るようにとのことです」



 書斎へ移動すると、僕と永久は扉のすぐ脇に控えた。目の前の革張りのソファーには父と母、伯父が腰掛ける。祖父は皆が揃うのを待ってから、低く怒りのこもった声で、にわかには信じ難い事実を口にした。

「美夜子が死んだ」

 隣に立つ永久が息を呑む気配がする。僕は意味を理解しようと、頭の中で祖父の言葉を反芻した。

 伯母が死んだ。

 これを僕は、今すぐ素直に受け止めることができないでいた。

 朝、登校前に見た伯母は、顔色が悪かったとか具合が悪そうだったというようなそぶりは全くなく、普段と変わらず元気そうであったし、命に関わるほどの大病を患っていたわけでもなかったはずだ。何か違ったところがあるとすれば、いつも陰気な伯母が今日は随分と嬉しそうだったということくらいであろうか。

 そんな伯母が、何故突然死んでしまったのか。

「どうして……」

 永久が、僕にしか聞こえないほど小さな声で呟く。無論祖父には聞こえなかったはずであったが、老人とは思えないほど生に満ち溢れた鋭い双眸は、抜け目なく永久を捕らえた。

 しかしそれもすぐに、目の前の三人へ逸れる。

「わしはな、美夜子は殺されたと思っとる。お前たちも、まさかあれが自殺だとは思わんだろう」

 伯父が、力なく頷く。

「でも親父、殺されたって言っても、一体誰に……」

 父の言葉は無言の圧力によって遮られる。机に肘をつき両手を組み合わせて、祖父は品定めするような目つきで父と母と伯父を見た。

「まさか、お義父様……」

「人を雇おう。賤しい殺人者の血は、この蔵元家に必要ない。それと、このことはくれぐれも外に漏らすな。蔵元の威信に関わることだ。いいな」

 反論の余地を与えぬ厳しい声音。犯人を探し当てて、その者を如何様にするつもりなのか。祖父は明言しないが、その意味は皆が充分に承知していた。

 家の繁栄に邪魔な人間は全て排除する。

 この家はもう何十年も前から、そうして財を成してきた。蔵元家の栄華の裏に根を張る暗い歴史。それを代々何の疑問も持たずに受け継いでいることに、僕は薄ら寒い思いをせずにはいられない。

 結局、どうやって伯母は死に至ったのか、祖父の口から語られることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ