09
リンが刺繍しているふりをして、どうにか時間を潰しているうちに、数日が過ぎた。
その日、針を突きさした指先に塗る薬をヨランダに分けてもらおうと、リンは日中を過ごしている居間を出て、薄暗い廊下を歩いていた。
城に来た当初こそ、びくびくと、半ば怯えるように一室に閉じこもって暮らしていたリンだったけれど、時間の経過とともに慣れてきたのか、城内を歩き回るくらいはするようになっていた。
むしろ、何か用があった時に、呼び紐を引いてヨランダやジェンマを呼び付ける方が彼女には難しいようだった。忙しいのに些細な用事を言いつけるだなんて申し訳ないと、何か頼みごとをするたびに、リンは恐縮する。
城の規模に対して使用人の数が少なすぎるので、この城の人たちは、いつも忙しそうに動き回っており、同じ場所にとどまっていることが少ない。
どこにいるだろうかと、ふらふら歩きまわっているうちに、複数の人間が何か荷物を扱っているらしい、ざわついた気配がリンの耳に届く。
音をたどったリンはやがて、東館と西館をつなぐ玄関ホールにたどり着いた。
「……うわ」
目の前に広がる光景に、リンは立ち止まって目を見張った。
天井の高い、広い空間いっぱいに、木箱や樽、衣装箱、その他雑多な荷物が積み上げられ、あふれ返っている。しかも荷物はまだまだ増えるらしく、いかつい体躯をした男たちが次々と、入れ違いに運び込んできている。
「え、何、これ……?」
お店でも始めるのかと、リンは呆然と呟いた。
驚くリンのことは気にせず、荷物の搬入を続ける男たちに混じって、ヨランダが屋内に入ってきた。
「その箱は食料品だから、こちらの山へひとまず固めておいておいてちょうだい。……あ、そこのあなた、それは入浴用の香料でしょう?だったらそっち!」
きびきびと男たちに指示を下していた彼女は、東館の入り口で立っているリンに気がつくと、にっこりほほ笑みかけた。
「お嬢様、何か御用ですか?」
「あ、はい。……」
リンは、指先のケガを見せて薬をもらいたい旨を告げた後、ヨランダの肩越しに、まだまだ増加を続けている荷物の山を見やって訊ねた。
「何ですか、あれは?」
「お嬢様の生活必需品です」
「わたしの!?」
どう見ても一人分などではない、広い空間をほぼ埋めつくしかけている木箱の山々とヨランダの笑顔を見比べて、リンはぎょっとした。
ヨランダは、さようでございます、とにこにこ頷く。
「やっと街から届きました。今までご不自由な思いをおかけしてしまいまして、申しわけございませんでした。お嬢様付きの侍女も手配が済みました。明日の夕方には城に着くそうですから、到着次第挨拶に伺わせます」
リンはふるふると首を振った。
「わたし専用の侍女って――そんなの、いいです。ぜいたくです!」
「何を申しますか。むしろ一人しかお付けできなくて申し訳ありませんと、ロジェ様がおっしゃっておいででした。それと、引き続き信頼できるものを探しますので、二人目の侍女は今しばらくお待ちくださいとのことでした」
「二人以上なんて、更に要りません!」
リンは真顔で拒否した。が、ヨランダは、
「お嬢様は遠慮深くていらっしゃいますね」
と好意的に受け取ったきり、侍女はいらないというリンの言葉は華麗に流した。
「いえ、わたしは遠慮とかそういうことじゃなくて――」
リンはなおも主張を続けようとしたけれど、そのとき東館の奥から若い男が現れて玄関ホールに入り、慣れた様子で積まれている木箱の内の一つをを持ち上げた。
それに気がついたヨランダが、リンとの会話を一時止めて彼に話しかける。
「あ、イレネオ。それはシーツだから。リネン室にお願いね」
「解りましたぁ」
気の抜けたような返事をよこして、木箱を抱えたイレネオは去ってゆく。
すれ違いざま、彼はリンにちらりと眼をくれてニヤッと笑った。
面高で眉の濃い彼の顔立ちは、人によってはハンサムだと云われるかもしれない。が、リンは、彼の笑顔に厭な気配を感じたようすで、かすかに眉をひそめた。
荷物を抱えて去ってゆくイレネオの後ろ姿をじっと見ていたヨランダは、やがて何か思いついたのか、リンに短く断って、彼の後に続いて去って行った。
結局、薬をもらい損ねたことに気がついたリンは、その後またヨランダを探して城内をふらふらさまようことになった。
「……なのかしら、これ?」
「さあ……?」
厨房の前を通りかかったとき、リンの耳にそんな会話の断片が届いた。
中を覗き込むと、ヨランダとジェンマが、蓋をあけた樽を前に困惑顔で立っていた。
「どうかしたんですか?」
リンが尋ねると、ヨランダは困惑顔のまま、樽の中身を少し椀で掬ってリンの所まで持ってきた。
「街から届いた荷のなかに、こんな豆が混ざっていたんです。何でも東方から最近入荷した高級食材なのだそうですが、わたしもジェンマも、こんなものは見たことがございません。どう料理したものかと、相談しておりました」
「ふーん、……」
リンは、ヨランダが捧げ持つ椀から一粒、黄色みがかった薄緑色の豆をつまみあげて、まじまじ見た。
「これってもしかして、コーヒーの生豆じゃないかな」
「お嬢様は、ご存じでいらっしゃいますか?」
「うん、多分。少し確かめてみて良い?」
リンは、ヨランダの返事を待たずに厨房へ入り込んだ。「自家焙煎するなら銀杏煎りみたいな蓋つきの手網が良いんだけれど、フライパンでも大丈夫なんだよね、実は」
云いながら、清められて壁際に整然と並んでいる、各種大きさの鍋類を検分して選んでゆく。
「このフライパンと木べら、借りても良い?」
「はい、どうぞ」
「火力は……」
きょろきょろと厨房内を見回したリンは、沸騰したお湯が入ってふつふつと静かに煮立っている、直径1フィートほどの両手鍋がのったかまどを指差してヨランダに訊ねた。
「この、お湯沸かしてる鍋、どかして良い?」
ヨランダは、構わないと云う代わりに頷いて、自分で鍋をどかした。
「ありがとう。そしたらこれ、炒めるね」
「私がいたしましょうか?」
「うんん、わたしがする」
ヨランダから、木の椀を受け取ったリンは、その中身をフライパンに開けて平らにならし、かまどの火にかけた。
一部分だけ焦げないように、時折フライパンをゆすったり、木べらで上下をかき混ぜたりすること少し。
ぱちぱちとかすかにはぜる音が聞こえてくるのに少し遅れて、厨房内に芳ばしい、豊かな香りが漂い始めた。
「うん、うん。良い香り。やっぱコーヒーはこれだよね」
上機嫌でフライパンをゆするリンの肩越しに、ヨランダとジェンマは興味津津、といった表情で中を覗き込む。
「初めて触れる匂いですが、良い香りですね」
ジェンマが感心したように云う。
リンは嬉しそうに応じた。
「でしょでしょ?コーヒーって、この香りも味のうちだと思うのわたし」
「これは、どれくらい炒めたらいただけるのですか?」
調理法を覚えようとしているのだろう、ヨランダは真剣な表情で豆を見つめながらリンに訊ねる。
リンは首を振った。
「うんん、これは食べるんじゃなくて、飲むの」
「飲む?この豆を、ですか?」
「そ。……あ、今さらだけれど、そこの大理石の調理台の上にこの中身広げても良い?ちょっと脂が出てるから、汚れても良い、けれど清潔な布を引いてもらえると助かる」
「布巾を敷きました」
ジェンマがきびきび動いて報告する。
「ありがとう」
リンは、濃い色に炒りあがった豆をその上にざっと開けた。「余熱でこれ以上焙煎が進まないように、急に冷やすのが大切なの。……で、冷ましている間に、これを粉にする道具を用意したいんだけれど、ミルとかある……わけないよなぁ……」
ふーっと肩で息をついたリンは、じゃあどうしよう、と首をかしげて考え込んだ。
「豆を粉にしたいのでしたら、こちらの乳鉢などはいかがでしょう?」
ヨランダが、半フィートほどの大きさの石製の鉢と乳棒を取り出してリンに見せた。
「使って良い?一度使うとにおいがつくから、他のに使えなくなると思うけれど」
「はい。まだ予備がございますから、どうぞ」
「ありがとう」
乳鉢を受け取ったリンは、程よく冷めた豆を数粒そこに入れて、乳棒で潰し始めた。
焦げ茶色の豆が潰れて擂られ、粉になると、やはりヨランダが出してくれた木鉢に移して、また新しい豆を潰し始める。
「また、香りが強くなりましたね」
ヨランダが小鼻をぴくぴくうごめかせて感嘆する。
「この香りをかぐだけで、期待が高まるよねー。コーヒーが飲めるぞ―って」
しばらく、無言の作業が続いた。
「ミルがあったら一瞬でできるんだけれどもね」
必要な分量粉にするのって、やっぱ大変だ、とリンが呟くと、作業をじっと見ていたジェンマが手を差し出した。
「代わります」
「え、でも、……」
「お嬢様のされるご様子を見ておりましたので、やり方は粗方覚えました。何か変でしたら、ご指導ください」
ジェンマはリンの返事を待たずに、乳鉢を受け取って、豆をすりつぶす作業を始めた。
普段同じような作業をし慣れているらしい、その手は迷いが無かった。
「ジェンマは上手だねぇ」
思わず、といった感じでリンが呟くと、ジェンマは自分の手元を見つめたまま、ありがとうございます、と嬉しそうに笑った。
ある程度粉が擂れたら、小ぶりなじょうごに布巾をかぶせ、そこにリンの目分量で粉を入れて、湯を注ぐ。
やっとできたコーヒーを、リンは嬉しそうにすすった。
「うん、うん。やっぱり焙煎したてのコーヒーは味が違う。コクがあるわぁ!」
一口飲んで歓喜したリンは、遠慮する二人にも、飲んで飲んで、と勧めた。
最初は遠慮していた二人も、好奇心が勝ったのか、お互いに視線を交わした後、ゆっくりとカップに口をつけた。
反応は、対照的だった。
まずい、吐き出してしまいたい。でもお嬢様の前でそんなことはできない。だってお嬢様はこんなに美味しそうかつ嬉しそうにいただいているのだから、厚意で分けていただいたその飲み物を否定することなんかできないと、必死に我慢していることが、盛大にしかめた表情から伺えるヨランダと、
あら、芳ばしくて美味しい。後味も不思議な感じだけれど、後を引くわ、と嬉しそうにその後も続けて味わうジェンマと。
二人の反応を見くらべたリンは、ヨランダに、無理しないで、と声をかけた。
「飲めそうになかったら、出してしまって良いのよ」
ヨランダは涙目で頷いて外にかけて行き、口の中身を出して戻ってくると、リンに頭を下げた。
「も、申し訳ありません……」
「ヨランダさんは、苦い味が苦手なのね」
「そうみたいです」
「ミルクとお砂糖入れると、かなり飲みやすくなるんだけれど。試してみる?」
「いいえ、もう充分です」
ヨランダは真面目な顔で首を振って遠慮した。
リンはコーヒー大好き。
飲む前からテンションあがります。変な方向へ。
針で刺した傷の治療は、コーヒーの魅力の前に忘れ去られました。




