07
エヴラールが出て行ってから五分ほどが経過した頃、三〇歳ほどの、落ち着いた身なりをした男性が部屋に入って来ると、リンに対して恭しい挨拶をした。
「この城の執事を務めております、ベランジェと申します。お嬢様のことは、城主から伺いました。こちらにご滞在中は、何なりと私めにお申し付けください」
「リンです。よろしくお願いします」
二人の間で紹介が済むと、ロジェが気安い態度でベランジェに訊ねた。
「ベランジェ、エヴラール様はどうだった?特に不機嫌だったりふさぎこんでいたり、普段と違う様子は見られたか?」
「いいえ。普段と変わらずといったところかと存じます」
「そうか。ならば良かった」
ほっと胸をなでおろしたロジェは、声の調子を変えて続けた。「話は変わるがお前、今月に入ってまだ一度も家に戻っていないだろう。嫁さんも子どもたちも寂しがっていたぞ」
ベランジェは、薄茶色の眼を冷たく細めてロジェを見据えた。
「職務です。
連絡は密に取り合っていますし、彼女も事情は承知のはずです。
それと、客人のまえでそのような私的な話題は謹んでいただきたい」
ベランジェの言葉に釣られたように、ロジェがリンを見る。
見つめられたリンは、慌てて首を振った。
「どうぞお気づかいなく。
お二人は、お知り合いでいらっしゃるんですか?」
ロジェは、少しばつの悪そうな表情を浮かべて説明した。
「説明が遅れて申し訳ありません。彼は私の実の息子なのです」
「そうだったんですか」
云われてみれば、顎の線や目元がよく似ていると、リンは二人を見比べてそう告げた。
「ありがとうございます」
ロジェが嬉しそうに礼を述べる。
ベランジェは一歩控えた様子でそんなやり取りを眺めている。
「いささか無愛想な息子ですが、親の欲目を抜きにしましても、仕事はできますので、どうぞ頼りにしてやってください」
ロジェは、最後にもう一度、嫁に顔を見せてやるようにとベランジェに念を押してから、ユベールとともに帰っていた。
残されたリンは、ベランジェの案内で、城の内部を見て回った。
それぞれ3階建ての東棟と西棟で成り立つ城は広大だったが、そのほとんどの部分が閉鎖されていた。
「この城で現在暮らしていらっしゃるのは、城主おひとりです。使用人も、私を含めて5人しかおりません。なので平時使用しない部屋は閉鎖しておけとの城主のご命令に従って、今現在は、定期的に風を通す以外に人の出入りはしておりません」
「そうなんですか」
今はまったく使っていないという3階部分へ通じる階段の前でベランジェから説明を受けたリンは、首をかしげた。
「城主様にご家族はいらっしゃらないのですか?」
「ご両親、ご兄弟。皆様ご健在です。城主に奥方様はいらっしゃいません」
「ご両親やご兄弟方とは、一緒に暮らしていないの?」
「皆さまは、フランスの宮廷に出仕されておられたり、パリやピサやフィレンツィエに留学されておられます。姉妹の方々はそれぞれ嫁がれておりますので、こちらにはいらっしゃいません」
「そうなんですか。皆さんお忙しいんですね。けれど、めったにお互い会えないなら、きっと寂しいですね」
リンは何の気なしに、思ったことを口にした。
が、ベランジェは、さも意外なことを聞かされたというように、驚きを表した。
「寂しい?」
「えっ?わたし、何か変なことを云いましたか?」
慌てるリンに、落ち着きを取り戻したベランジェは、いいえ、と静かに首を振った。
「いいえ。あの方々は、城主が側にいないことで安堵していることでしょう」
「それって……」
戸惑うリンからそれ以上の質問を受けることを拒否するように、ベランジェは頭を下げた。
「失礼。いらぬことを申しました。今私が申しましたことは、お忘れください。ただ、城主にご家族のことをお尋ねになられることは、お控えくださいますようお願いいたします」
「それって、家族のことを聞くと、城主が機嫌を損ねるってことですか?」
「そのように解釈されてくださって構いません」
「ロジェさんやユベールさんから、城主の眼の色にも触れるなって云われたんですが、これもやっぱりいけない話題なんですか?」
「さようです」
色々と、触れてはいけない事柄があるのねえ、とリンはため息をつく。
「他に、気をつけることや話題はありますか?」
「特にはございません。城主は日中、書斎で静かに過ごされることを習慣とされておいでですので、その妨げさえされなければ、あとはお好きに過ごしてください」
「好きにって云われても……そうですね、ただお世話になるのは心苦しいので、何かお仕事をさせてください」
「仕事?」
ベランジェが目を見張った。
それを見たリンは、慌てて云い募った。
「お掃除とか、料理の下ごしらえとか、そんな簡単なことしかできませんが、今ベランジェさんがおっしゃったことから考えますと、ここは今、お掃除の人手とか、足りてないんですよね?
それはもちろん、プロのように完璧な仕上がりにすることはできませんが、家具の埃をはらったり、お洗濯したり、芋の皮をむくくらいならできますから」
がんばります、とリンが握りこぶしを突くって主張すると、ベランジェは困ったように眉を下げた。
「いいえ。大切なお客様にそのような下働きをしていただくわけにはまいりません」
「でも……」
「本当に、お気になさらないでください。むしろお嬢様をそのように働かせたと知られたら、私が叱られます」
そこまで云われてしまったら、リンもそれ以上主張を続けることはできなかった。
「そうですか……」
悄然とうな垂れたリンをなだめるように、ベランジェは云った。
「手持無沙汰でいらっしゃるなら、刺繍や音楽はいかがですか?後ほど道具を運ばせましょう」
「ありがとう」
気遣ってくれるベランジェを慮って、リンはそう礼を云ったものの、自分が掃除洗濯料理といった家事労働よりも刺繍や楽器の演奏ができるとは、とうてい思えないわと、こっそりため息を繰り返す。
「わたし、本当に皆さんから「お嬢様」って呼ばれるような身分の人なのかしら?」
心配そうに、心細そうに眉をひそめたリンは、かすかにそう自問した。