06
「……あンの、クソ野郎……!」
泉から自分の身体を引き上げたリンは、胃の腑の中身をすべて出し切ると、濡れた口元を手の甲で拭って、低く吐き捨てた。「最初から、わたしを使い捨てにするつもりだったわけだ……!」
見抜けなかったわたしも間抜けだったわ、と顔をしかめたリンはそうして、カーネーションの束を握り締めている自分の手を不思議そうに見やった。
「わたしが死んでも、やり直せるんだ」
赤い花は2輪のみ、白い花がほとんどとなってしまった花束を眺めてぽつりとつぶやいた彼女は、ついで顔をしかめた。
「でも、あんなことはもう二度と、繰り返したくないけれど」
アンボワーズ城へ向かいながら、リンはひたすら考えた。
「結局、公爵を交渉の相手にするのは無理ってことよね。
彼は、わたしに腕輪をよこす気はない。わたしが何をしても、どう動いても、これは変わらないらしいと見なさなければいけないわね」
ではどうするか。
「頼む相手を、替えるべきなんだわ。……」
誰に頼むか。
誰を攻めるべきなのか。
カリーヌが話しかけてもすぐには気づかないほど、リンは道中考えに没頭した。
アンボワーズ城に到着したリンは、先回とは違って、迎えの者が現れるまで、おとなしくその場にとどまった。
「モーリスの貴婦人リン様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」
馬車の扉を開けて、形ばかりはうやうやしく礼をする侍従に、リンは宮廷儀礼作法に則った返礼を返した。
「出迎えありがとう、パトリス」
名前を呼ばれた彼――パトリスは、驚いた。
「私を御存じでいらっしゃるのですか?」
「もちろん。知っているわ。パトリス・カルネ。出迎えてくれたお礼に教えてあげる。あなたが心配して待っている、妹の旦那さんからの手紙は、近日中に、手元に届くわ。難産だけれど、妹さんもお子さんも無事よ」
「は、――!」
絶句したパトリスににっこり、微笑んで見せたリンは、馬車から降り立つと、彼を促した。
「行きましょうか。まずは客間に行くのよね。そこで、公爵閣下にお目にかかるための支度をするのでしょう?」
「……あ、は、はい。さようです」
すたすたと歩き始めたリンに、はっと我に返ったパトリスは、あわててその後を追いかけた。
広く複雑な作りになっている王城内を、迷うことなく進んで、自分に割り当てられた客間にたどりついたリンは、ゆったりと落ち着いた様子で長椅子に腰かけて、次の訪問者を待つ態勢をとった。
待つほどもなく、落ち着いた身なりの良い女官が、数名の侍女を連れて現れた。
「いらっしゃいませ、お嬢様」
うやうやしく、深々と腰を折って礼をする女官の背後で、荷物を両手に抱えた侍女たちも礼をする。
リンは、四十年配の女官をまっすぐ見つめて静かに応えた。
「こんにちは、エリアーヌ」
名前を呼ばれた女官は、細く整えた眉をつっと持ち上げた。
「紹介はまだでしたかと存じておりますが」
「ええ、そうね。でも、わたしは知っているの」
にっこり、リンは、先刻パトリスに向けたのと同種の笑みを浮かべて見せた。
「後ろに控えているのは、アリエル、クレール、コレットよね」
リンが続けて、侍女3名の、ちょっとした悩みや心配事を云いあてると、年若い彼女たちは目に見えて驚いたり、動揺し始めた。
「お嬢様は、千里眼をお持ちなんですか?」
中でももっとも若いらしいコレットが、大きな目をまるく見開いて、思わずといった様子で訊ねる。
リンは、肯定も否定もせず、ほほえみを続けた。
「静まりなさい、あなたたち」
エリア―ヌは、はしゃぐ侍女たちを一喝すると、リンに向きなおって頭を下げた。「醜態をさらしまして、申し訳ございません。この者たちは後ほど、私の方からよくよく云いつけておきますので、どうぞご容赦ください」
「構わないわよ。そもそもわたしが話しかけたことなんですから。叱らないであげてちょうだい」
「御寛恕、痛み入ります」
「そうそう、エリアーヌ……」
エリア―ヌを手招きして近くへ呼び寄せたリンは、彼女の耳元にそっとささやいた。「男爵夫人は、気づいているわ。もう10日もしたら、あなたのことは城中でうわさになって、知らない者はいない状態になる。そんなことになる前に、早くやめた方がいいわよ」
「えっ」
なんのことですか、と目に見えてうろたえるエリアーヌに、リンはやはりにっこりと微笑みかける。
「心当たりがないのなら、いいのよ。気にしないで頂戴」
「で、ですが……」
「さあ、着替えさせて頂戴。公爵閣下をあまりお待たせしてはいけないでしょう?」
エリアーヌは、なおも何事か云いかけたけれど、リンは強引に会話を打ち切った。
指示頭のエリアーヌが動揺していたため、配下の侍女3名もどこか浮足立って落ち着かず、リンの身支度はかなり手間取り、時間がかかった。
ようやくリンの装いを整え終えたエリアーヌが、侍女たちを連れてそそくさと立ち去ると入れ違いに、再度パトリスが部屋を訪れた。
「公爵の処へ案内してくれるのね?」
リンが確認すると、パトリスは「さようでございます」とうやうやしく応えてから、うつむいて、遠慮がちに訊ねた。
「あの、……お嬢様がお連れになった侍女から聞きましたが、お嬢様はモーリス地方で、聖女の御遣いとして知られていらっしゃったそうですね」
「そう呼ぶ人もいたわね」
「お嬢様は、なんでもお見通しなのですか?つまり、……」
口ごもるパトリスの言葉の先を、リンはすらすらと述べたてた。
「あなたの妹さんは、生まれつきちょっと体が弱くて、普通に暮らす分には、少し気をつければいいだけだけれど、出産には耐えられないだろうって、お医者様から云われていたってこと?」
パトリスが、はっとはじかれたように顔を持ち上げる。
リンはゆっくりとかぶりを振った。
「全部判るわけじゃないわ。すべてを知っているわけではない。けれど、あなたの妹さんの出産のことは、判るの。
妹さんは、大丈夫よ。もちろんお子さんもね」
大丈夫、とリンが力強く請け負うと、パトリスはほぅーっと、全身を絞るように息を吐いた。
「ありがとうございます。最近はそのことばかりが頭にあって、心配で心配で……」
「たった一人の、血を分けた妹さんですものね。心配する気持ちはわかるわ」
リンはやさしく慰めた。
しばらくして落ち着きを取り戻したパトリスは、
「失礼いたしました」
とリンに謝罪してから、改めて「公爵閣下のもとへ、御案内差し上げます」
と、先に立って歩き始めた。
リンも落ち着いてその後に続いた。
人々の好奇の目にさらされながら歩くこと少し。
金で象嵌された、ひときわ立派な扉の前に立ったパトリスは、両開きの扉を大きく開き、
「モーリスの貴婦人リン様をお連れしました」
室内へ向かって声を張り上げた。
のち、
「どうぞ、」
一歩脇に退いて、中へ進むよう、うやうやしい仕草で促す。
リンは小さくうなずいて返事すると、室内へ進んだ。
公爵が謁見用に使っているのは、色鮮やかなタペストリが広い壁面をきらびやかに飾る、大きな部屋だった。
室内には男女年齢入り混じった大勢の人がたむろしており、リンが一歩足を運ぶごとに、品定めするような視線を彼女に投げつける。
リンはそれら視線をはねつけるように胸を張り、自信に満ちた様子で、彼らが無言のまま動いて作った細い道を歩き、奥へと進んだ。
奥の方には金箔で飾った大きな背もたれのある椅子が2脚並んでおり、太りじしな中年男性と、針金のように痩せた女性が座っていた。
二十代半ばくらいに見えるその女性は、おそらく息子なのだろう、彼女によく似た面差しの、5,6歳くらいの華奢な体つきの少年を膝に乗せて、その耳元に何かささやいている。
栗色の巻き毛をゆっくり撫でる手や少年を見る目には、深い愛情が感じられた。骨ばった顔つきは鋭くきつい感じがするが、息子には愛情深い優しい母親なのだろう。
椅子に座る二人の前へ進み出たリンは、しかし彼らを無視するように周囲を見渡した。
リンの態度をいぶかるように、周囲からさわめきが立ち上がる。
リンはそれら外野の声は無視をして、人垣にまぎれるように立っている男――ジスランを見つけると、まっすぐ彼のもとへ行き、
「はじめてお目にかかります、公爵閣下」
優美な礼をして見せた。




