04
国主であるセヴラン公爵から、港湾都市モーリスとその周辺地域の行政権を預かっている代官は、ロッコが出かけて行ってから、きっかり1時間半後に教会に現れた。どうやらこの驚くべき非常事態に、取るものも取りあえず、馬車を飛ばして駆けつけてきたらしい。
代官ロジェ・ボワヴァンは、今年五十五歳。公爵の遠縁の血筋で、半白の髪を後ろに流した長身の男だ。若い時から活動的な生活を送っており、そろそろ初老の域に差し掛かろうかというこの年齢になっても、年中陽に焼けてすらっと引き締まった体躯をしている。
仕事をしている以外のときには陽気で気のいい男で、見ている側が引き込まれてほほ笑みかえしてしまいたくなるような笑みを常に浮かべているロジェだが、この時に限っては、笑みを浮かべる余裕もないらしく、真剣かつ深刻な表情でユベールに詰め寄った。
「聖女の泉から女性が湧いたと聞いたが」
本当か、とささやくロジェに、ユベールも深刻な表情で頷いた。
二人は揃って、隣室に通じる扉を眺める。
厚い木の扉の向こうでは今、ロジェが街から一緒に連れてきた女使用人の手を借りて、リンと名乗ったその娘が着替えをしているのだ。
「誠にございます。ロッコが今朝がた、その場面を目撃したそうです」
ロジェは眉間のしわを更に深めてうめいた。
「誰なんだ、その女は」
「若い娘でした。ただ、……彼女は自分のことを、憶えていないようでした」
「憶えていない?」
「嘘をついていたり、演技しているようではないようでしたが……過去のことを憶えていない理由は判りません」
聖女の泉を守り神の怒りをなだめる目途で建造されたこの教会は、治めるべき教区を持たないため、ユベールも日頃からさほど多くの人間に触れて過ごしているわけではない。が、長く生きていればそれなりに、人を見る目は磨かれる。
彼女は嘘をついてはいないはずだと、ユベールは断言した。
「そうか」
しばらくして、着替えを手伝っていた女使用人が、濡れた衣服を手に部屋を出てきた。
入れ違いに、診察鞄を提げたジルベルト医師が部屋に入ってゆく。
ジルベルトが扉を閉めるのを待ちかねたように、ロジェは女使用人に訊ねた。
「アナ、彼女の様子はどうだった?」
代官の妻がボワヴァン家に輿入れする際伴ってきた、妻の乳母も勤めた老女は、腕に抱えていた湿り気の残る服を広げて、不思議そうに首をかしげた。
「お嬢様がお召しになっておられた衣装です。私は最初、絹かと思ったのですが、お嬢様にお尋ねしましたら、絹ではないとのお答えでした。しかしてこれは、毛織ではありません。麻でも、綿でもない。手触りは絹に似ているのですが、こんな不思議な布、これまで見たことがありません。お嬢様は『プラダの新作』だとおっしゃっていましたが、それはおそらく、絹以上に希少で貴重な布地の名称か、産地の地名なのでしょう」
気難しく、特に若い女を見る目が辛らつであることで名を馳せているアナが、リンのことを躊躇いもなく「お嬢様」と呼び称したことに、ロジェは、ふむ、と頷いた。
「お前がお嬢様、と呼ぶからには、娘はそれなりの階級の生まれなんだな」
「さようでございますね。立ち居振る舞いは、高位の貴族か王族に匹敵する気品が感じられます。ご自分で衣装を着つけられない様子を見ても、大きな城かお屋敷の奥深くで、大勢の使用人たちにかしずかれ、大切に守られて育てられていらしたお姫様でいらっしゃることは間違いない様子です」
当初、アナは二種類の衣装を持ってこの教会へやってきた。
貴族階級の娘が着るドレスと、庶民が着る衣服だ。
リンとじかに会ったアナは、迷わず前者をリンに着せることにした。ロジェは、アナの観察眼を盲信しているわけではないが、これは参考にして良いだろうとユベールに請け負った。
その後、リンが着ていた衣服を検めたり、着替えをしている時の様子をアナから聞いたりしていると、ジルベルトが診察を終えて現れた。
「様子はどうだった?」
ロジェが訊ねると、四十年配の、修道士の衣服をまとった医師は淡々と答えた。
「お身体の方は、水を飲まれて多少疲れていらっしゃるようですが、それ以外に異常なところは見受けられませんでした。
ただ、ご本人いわく、この土地にいらっしゃるまでの記憶がないそうです」
「それは、病気か何かか?」
「左様ですね。そのような病が存在することは、私も以前聞いたことがあります。何でも、頭部に強烈な衝撃を受けたり、感情的なショックを受けたりすると、ままこの病に罹るのだとか」
「治せるのか」
「治療法は、残念ながら解りませんとしか申しようがありません。そもそもこの病は症例が少なくて、研究報告が少ないのです」
「そうか。……」
ロジェが難しい顔をして黙り込むと、これを気遣ったようにジルベルトは言葉を継いだ。
「ただ、なにも治療を施さないでも、安静に過ごしていれば自然と記憶も回復する者もいるそうです」
「どれくらいの期間があれば、記憶は回復するのだ?」
「それは、……数日で治ったものがいれば、数年、数十年かかったと云うものがいたり、生涯にわたって思い出さないものもいたりするそうですので、一概には申せません」
「個人差が激しいわけか」
少しの間黙考したロジェはやがて、しかたがない、とため息をついた。
「記憶が戻るか身元が判明するまでは、彼女の身柄は|港町モーリスの行政機関で保護するほかないな」
「さようですね」
最初からそうなることを予測してロジェを呼んだユベールは、驚いた様子もなく頷いた。
現れた経緯はともかく、迷い人の保護は職務のうちであるロジェも、これは、教会に来るまでに決めていたことなので、さして迷うことなく口にする。問題は、――
「問題は、どこで彼女に過ごしてもらうか、だが……」
「リン様がおいでになられた経緯を考えますと、最初にお姿を現わされた泉の側にとどまった方が良いとも思われますが、……ただ、」
ユベールはおずおずと遠慮がちに口を開いた。「……ただ、この教会は私とロッコしか住んでおりませんので、リン様が滞在されますと、いささか不便な思いをされることになるかと思います」
「そうだな」
ユベールがそう云うのは、いくら聖域とはいえ、男所帯にうら若い女性が単身で滞在する不便や気まずさ、といった現実的な事情の外に、リンが【聖女の泉】から現れた、という感情的な理由もあるのだと見透かした表情でロジェはうなずく。
「しかし、我が家もさほど部屋数や使用人に余裕があるわけではないし、……
私と妻のほかに、息子の嫁と子どもたちがいるからな。10日に一度は息子も城から戻ってくるし……」
あの聖女の泉から湧いて出た者など、身近にいてもらいたくない。
それはロジェとて同じ様子だ。
貴族階級に属するらしい娘――否、出現した経緯を鑑みれば、それ以上の存在である可能性すらある者だ。本来なら、神聖なる教会で預かるか、さもなければ公爵の代官である自分が、自分の屋敷に引き取るべきなのだろう。
が、それはできかねる。
しかして、打ち捨てておくこともできない。
さて、一体どうしたものか。
頭を悩ませるロジェに、そのときユベールが提言した。
「城主様に保護を願うのはいかがでしょうか」
ロジェは、驚いたように見開いた眼でユベールを見返した。
「城主……エヴラール様にか?」
「左様にございます」
「しかしあの方は……」
云いかけて口をつぐんだロジェは、そのまま少しの間考え込んだ。
やがて顔を持ち上げたロジェと、彼が黙考している間中静かに見守っていたユベールは、視線を交わし、無言のまま意思の確認をし合った。
「そうだな」
ロジェはため息とともに頷いた。「何が起きたとしても、それが最も被害が少なく収まるだろうな」
そうと決まったらただちに行くこととしよう、とロジェは大儀そうに呟いて立ち上がった。
***
「記憶が戻るか、親族の方が見つかるまで、あなた様にはロメール城で過ごしていただきます」
医師の診察が終わってしばらくした頃、リンの前に現れて、モーリスの代官ロジェだと名乗った男性は、静かかつ穏やかに、しかし有無を云わせぬ口調でそう告げた。
突然城で過ごせと云われたリンは、戸惑った。
「お城で過ごすって、……私は何の仕事をするんですか?」
「仕事をするだなんて、とんでもない」
ロジェは心底驚いた様子で首を振った。「あなた様はただ城にいて、客人として過ごしていただくだけで良いのです」
「でも私、そのお城でおもてなしされるような理由に憶えはありません」
「医師に聞きました。あなた様は記憶をなくしておられるのだとか。さぞかし心細いことと存じます。が、どうぞお気に病まれないでください。また、迷い人を保護しますのは、我々為政者の義務でもあります。リン様は城でゆっくり養生されてください。我々も、リン様のご家族を探し出せるよう努力いたしますので」
「私の家族……」
「何か、憶えておいでのことはおありですか?」
ロジェの問いに、リンは無言でかぶりを振った。
思い出そうとしても、頭の中に白い霧がかかったようで、何一つ明確ではないと告げた彼女は、心細そうな目をロジェに向けて訊ねた。
「私……いったいどうしちゃったんでしょうか?」
ロジェは、不安そうな彼女を安心させるように、穏やかにほほ笑んで見せた。
「大丈夫です。あなた様には聖女様のご加護がおありです」