03
「ロッコ、それは本当か?」
聖アーディラ教会を預かるユベール神父は、教会の雑務を一手にまかっているロッコに、驚いたような、疑うような表情を浮かべて訊ねた。「あの娘は聖女の泉から出てきたと、お前はそう云うのか?」
「本当でさあ」
問われたロッコは、大きな目をぎょろりと見開いて何度も頷いた。「あっしだって信じられねぇでさぁ。でも、あっしはしっかと、この目で見たんでさ!」
「しかし、そんなことは聞いたことがない……!」
ユベールは、信じられないと目を見開いた。
この教会を先代から受け継いで四十余年。ユベールは、「私は今年七十歳になるが、こんなことはかつて起きたことがなかったし、先代から聞いたこともない…」と、誰へともなしに小さくつぶやいた。
「まさか、聖女の泉から女性が湧いて出てくるだなんて……!」
驚愕のまなざしを娘に向けるユベールにつられて、ロッコも同じ方角に顔を向ける。
二人が見つめる先には、借り受けたタオルを肩にかけ、神父が作って渡した赤ワインのお湯割りを静かにすする娘がいた。
彼女の年齢は、見たところ、十代後半から二十代始めといったあたりだろう。少なくとも二十の半ばには届いていないはずだと、みずみずしいなめらかな肌がそのことを主張している。
結わえられておらず、背の中ほどまでまっすぐに伸びた暗色の艶やかな髪は、まだ残る水気を時折ぽたぽたと落として、タオルや、彼女が座る木のベンチに気まぐれな水玉模様を作っている。
濡れてみすぼらしい恰好をしているが、かなり美しい娘だ。
クリームのように滑らかで白い肌。
たまご型の小さな顔にすっと通った細い鼻梁。ふっくらとした唇。
長いまつ毛に縁どられたアーモンド形の大きな目は、今は不安そうに伏せられており、少し離れた所に立つ神父にはその色も伺えないが、先刻ロッコに連れられてきたとき、わずかな間視線を交わしたときに見えた瞳は、吸い込まれるような深い光を宿していた。
質素な木製のカップを包む両手は、生れてこの方力のいる仕事をしたことがないらしい、赤子のようなしなやかさを保っている。冷えているために今は血色が悪い爪も、よくよく磨かれて手入れされており、宝石のようにつやつやと輝いている。
この辺りでは見慣れない、奇妙ななりをしてはいるけれど、肌や髪、手足の様子を見るに、普段から栄養の良い食事を過不足なくとって、よくよく身体の手入れをされている、貴族以上の階級に属するものであることは見てとれた。
しかし、日頃から余裕がある生活を送っているらしいとしても、今のユベールにとっては、彼女は単なる身元不明の不審者だ。
しかも、発見された場所が場所だ。
「聖女の泉の周辺は、誰も入りこめないようにしっかり囲ってあったのだろう?」
ユベールが念を押すと、ロッコは疑われたことが心外だと云うように、濃くて太い眉を持ち上げて頷いた。
「それはもちろん。五日前に猪が体当たりして開けた穴も、3日前にはきちんと補修し終わってましたし、それ以来はウサギ一羽たりとも入りこめねぇようになってましたぜ。あそこに入り込む輩はいねぇはずなんでさあ!」
「では、何故あの娘は泉で溺れていた?」
「それが不思議なんでさぁ!」
ロッコは、彼女が現れた時のことを神父に説明した。
彼はその朝、教会の祭壇へ捧げる水を汲みに、泉を訪れた。それは、教会の名前のもとにもなった聖女アーディラにささげるミサを神父があげるために必要なことなのだが、ロッコはこの仕事がとても厭だった。
何故ならば、聖女の泉などときらびやかな名称で呼ばれていることと裏腹に、この泉は神の怒りによって呪われているものだからだ。
泉はいつも、微かではあるけれどたまごが腐ったようないやな臭いをまとっているし、周囲に草木も育たない。湧きだす水は年間を通して常に生温かく、冬でも凍ることがないが、魚やカエルなどの水生生物が育つことはない。
今は板塀で囲ってあるため、そういうことはほとんどなくなったのだが、簡素な囲いしか作っていなかった過去の時代には、血みどろの動物たちがよく泉の周囲で見られたと云う。
極めつけは、毒物に反応するという銀がこの水に触れると、瞬く間に黒く染まってしまうことだ。
泉の水は、毒なのだ。
伝説では、千年昔にこの地方で、敬虔なキリスト教徒としてひっそりと暮らしていた聖女アーディラを虐げたことで神の怒りをかい、それまで清浄だった泉が毒を帯びるようになったのだと云う。
土地の者は、神の怒りをなだめるべく、泉のそばに教会を建てた。爾来代々の神父たちは、この呪いともいえる泉の不浄を清めるべく、毎月、聖女が殉教したと云われる十二の日づけが訪れるごとにミサを挙げているのだが、神の怒りは深く根強く、未だ晴れずにいる。
ロッコは、教会で働いているとはいえ、格別信心深いとは云えない。教会で執り行われる礼拝もミサも、何やかやと理由を作って参列をサボりがちだ。が、だからこそなのか、この、神の怒りにふれて呪われたという泉に近づくのは、おぞ気をふるうくらい厭だった。
肌が濡れたくらいでは何にもならないとは、神父から諄々と、説教交じりに教えられたし、ロッコも何度か経験したから解っている。が、それでも感情がついてゆかない。だからロッコはその日も、なるたけ濡れないよう、細心の注意を払って水を汲んだ。
間違えても水に触れないよう、水面を凝視しつつ、柄つきの水指をじかに沈めて水を汲む。水はやや濁りがちではあるけれど、自然石を敷きつめた底が見えるくらいの透明度はあるので、そのときの泉には何も沈んでいなかったと、ロッコは神父にその時のことを説明しながら自信を持って断言した。
緊張しながらも水を汲み終えて、やれやれ、と安堵したロッコが教会へ戻るべく、来た道を戻り始めた、そのとき。
急に背後が騒がしくなった。
何か大きな生き物がおぼれているらしい、ばしゃばしゃと水を叩く音に悲鳴のような声が混じっている。
大きな鳥でも落ちたか、と思いながら振り返ったロッコは、息も絶え絶えと云った様子で岸辺に上半身を預けて倒れ伏している彼女を見つけたのだ。
溺れかけて弱り切った人間をそのまま、それも聖女の泉の側に放置しておくことはできなかったので、彼女が落ち着くまで待ってから――聖女の泉の水に全身濡れそぼった彼女をおぶったり、肩を貸したりするのは、さすがにロッコも厭だった――教会の敷地内にある居住区に案内し、いつも火が絶えないようになっている厨房の調理暖炉の脇に彼女を座らせて、そうして礼拝堂に付属している祭具室で今日のミサの支度をしていたユベールを呼んできた、という次第なのである。
ユベールも、聖女の泉から突然娘が湧いて出た、というロッコの説明には納得しかねたものの、全身濡れそぼって慄えている彼女を放っておくことはできず、タオルを貸したり、冷えた身体が暖まるようワインに蜂蜜と香料を加えて湯で割った飲み物を与えたりと、細々と世話を焼いた。
冷え切って真っ白だった彼女の頬に、微かに血の気が戻ってきたことを確認したユベールは、彼女の前に進み出て、穏やかに訊ねた。
「落ち着きましたか?」
問われた彼女は、少し戸惑うような表情を見せたのち、小さくうなずいた。
「……はい。色々と助けてくださって、ありがとうございます」
まだショックが残っているのか、細い声は微かに震えを帯びていたけれど、その音色は耳を羽根でなでるように柔らかくて心地よい。ユベールは、彼女に優しく話しかけた。
「遠い地方からいらっしゃったのに、災難でしたね」
云われた娘は、きょとんとした。
「わたし……遠くから来たのですか?」
ユベールは、もさもさと伸びた白い眉毛をつっと持ち上げた。
「さようではいらっしゃいませんか? お嬢さんの口調には、ここらではあまり聞かれないイントネーションが感じられます」
「そう……」
ユベールは見る者に安心を与える笑みを深ませて、大きく頷いて見せた。
「よかったら聞かせてもらえませんか?あなたのお名前は?何故私の教会が管理する泉に入っていらしたのですか?」
「わた、し……」
問われた彼女は、呆然と目を見開いた。
「わたし……リン……」
「お名前は、リン、とおっしゃるのですか?ご家名はお持ちでいらっしゃいますか?近親者に爵位をお持ちの方はいらっしゃいますか?」
「……-ル……」
娘――リンの血色の悪い唇が微かに動いてため息のような声を紡ぎだすが、ユベールは聞きそびれてしまった。
焦点の合わない視線を宙空にさまよわせながら呆然と呟いた彼女は、そのまま絶句した。
「お嬢さん?どうかしましたか?大丈夫ですか?」
「わたし……どうしてここに……?なんで溺れたの……?」
「憶えていないのですか?」
訊ねるユベールに、リンはすがるような、今にも泣き出しそうな表情を見せてうなずいた。
「判らないんです。何も。ここはどこですか?あなた方はどなたなんですか?」
「ここは、セヴラン公国の一地方。モーリスと云う貿易港から内陸へ3マイルほど入ったところにあります、聖アーディラ教会です。私は教会を預かって管理しております神父のユベール。そこにおりますのは、教会の雑務をいろいろとまかってくれていますロッコです」
「セヴラン公国……」
聞き覚えがないらしい、戸惑うリンに、ユベールは穏やかに説明した。
「セヴラン公国は小国ですが、歴史はローマ帝国以前の時代にまでさかのぼれます、由緒ある国です。現在の公爵閣下はフランス王宮に出仕していらっしゃいますが、国王陛下の覚えもめでたく、ご活躍あそばされているとのことです。また、ここから西に行けばフランス王国、北に向えばミラノ公国やサヴォア家の治めるトリノがあります」
「ミラノやトリノ……イタリアの?」
リンが確認するように呟くのを聞いたユベールは、白い眉をつっと小さく持ち上げた。
「イタリア?聞いたことがありません国名ですね。どこにある国ですか?」
「えっ!?」
リンはひどく驚いた。それはまるで、存在することが分かりきっている太陽や月がないのだと云われたような驚きようだった。
「えっ、だって……イタリアですよ?イタリア半島の、ローマやフィレンツィエとかがある、イタリアですよ?それを聞いたことがないって……そんなこと、……」
あるはずがない、と怯えたように呆然と呟くリンに、ユベールは落ち着いて、と宥めるようにささやいた。
「ローマなら、存じておりますよ。私も若いころに一度、神学を学ぶために留学したことがあります。荘厳な教会群、重厚な歴史を感じさせる華やかな街並み。素晴らしい都市でした。わけても教皇猊下のおわすサンピエトロ大聖堂は、神の祝福と恩寵を肌で感じることのできますお所で、足を踏み入れた瞬間、全身が感激に打ちふるえました」
「そう!そのローマがあるイタリアです!」
ユベールは、何を云われているのか判らない、といった様子で首をかしげた。
ユベールが生きる、この当時のイタリア半島は、いくつもの都市国家や教皇が治める教皇領、強力な貴族が治める荘園領地などが入り乱れて存在している状態で、半島をひとつにまとめて国家とするような権力機構は存在していなかった。だからリンが云っているのは、ユベールにとっては明らかにおかしなことだった。
が、この時代は、貴族の生まれといっても、女性はさほど高度な教育を受けるわけではない。特に国際情勢なんてものは、大貴族の跡取りとして生まれたような、ごくごくまれな、一部の例外を除いて、ほとんど触れずに育てられるのが通常だ。だから目の前の彼女も、どこかで男たちの会話を断片のみ耳にして、勝手に勘違いしたのだろうと、勝手に納得した様子だ。
「あなたは、ローマからいらしたのですか?」
ユベールに問われたリンは、やはりきょとんと虚をつかれたように絶句した。
「わたし……いいえ、ローマには今回の旅行で立ち寄って……」
「旅行?巡礼の旅ですか?」
「いいえ、……いいえ。わたしは……判らない。……判らない……!」
リンは苦しそうにそう云ったきり、以後は頭を押さえて慄えるばかりで、ユベールがどれだけ話しかけても反応を見せなかった。
どうやらまだショックから立ち直りきっていないらしい。
そう判断したユベールは、二人の会話を少し離れた所で聞いていたロッコに向き直って訊ねた。
「彼女は、何か身元が分かりそうなものを持っていましたか?」
ロッコは首を振った。
「いーえ。手に花束を握っていたほかは、泉の中やその周辺には、何も落ちてなかったでさぁ」
「花束?」
「それでさぁ」
云いながら、ロッコがテーブルの上を指差す。木製の簡素な天板の上には、赤と白のカーネーションが、木製のカップにふんわりと盛られてあった。
実用一点張りで他に飾り気のない厨房に、その花束はみずみずしく色鮮やかに映えていた。
が、単に季節の切り花を束ねただけのそれは、身元を確認するよすがにはなりそうにはなかった。
「そうですか。……」
明るい色彩の花を眺めて少しの間考えたユベールは、やがて言葉を継いだ。
「ロッコ。街へ行って、代官をお呼びして来てください。あと、ジルベルト医師のお宅にも寄って、往診をお願いしてください」
「へい、判りやした。すぐに行ってきやす」
勢い込んで駆けだしたロッコの背に、ユベールは続けて声をかけた。
「それと、代官の奥方に、彼女が着られるような着替えをお借りして来て下さい。あなたも知っているでしょうけれど、この教会には、女性の着られる物がありませんから」
ロッコは足を止めて振り返った。その目が、炉の前で依然濡れた服をまとって生ぜんとうなだれている彼女に注がれる。
「判りやした」
「頼みましたよ」
「へい!」
ロッコが張りきって駆けだして行って後。
ユベールは、新たに作ったホットワインをリンに渡して、穏やかにほほ笑みかけた。
「今、ロッコがあなたの行く先を決める人を呼びに行きましたから。彼が来るまで、少し休んでいてください。私は隣の部屋にいますから、何かあったら声をかけてくださいね」
彼女が小さくうなずいたのを見て、ユベールは厨房を出た。
後ろ手に扉を締めた彼は、それまで穏やかにほほ笑ませていた顔を、真剣に思い悩む表情にかえて、小さくため息を吐く。
「一体……どこの誰なんだ……?」
呟きは、当然のことながら何の答えももたらされぬまま、消えた。