13
リンは昼食もエヴラールとともに摂ったが、会話は当たり障りのないものに終始した。
朝食の時以来、エヴラールは、リンが容易に近づけない壁のようなものを張り巡らせており、会話は丁寧かつ礼儀正しいものの、空虚な内容しかなかった。
「やっぱり、あの会話がお気に障ったのよ……ね?」
読みかけの本を開いたものの、エヴラールのことが気になってしかたないらしい、ページはいっこうにめくられないまま、時間だけが過ぎて行く。
「お嬢様、よろしいですか?」
ドアがノックされて、ヨランダが現れた。
肉づきの良い彼女の背後には、一人の少女が緊張した面持ちで控えていた。
「今しがた、お嬢様付きのメイドが到着いたしました。これまでご不自由をおかけいたしましたが、本日から彼女がお世話いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
深深と頭を下げたヨランダは、そうして彼女の背後に控える少女に、前に出て挨拶するように云った。
ヨランダの勧めに従って、少女が前に出る。
働き者らしい、骨太な体つきの少女だった。
肌は健康的に小麦色に焼けており、ふっくらとした頬はリンゴ色につやつやと輝いている。焦げ茶色のは二つに分けられて、太い三つ編みに結われている。
全身から純朴、素朴と云った言葉がにじみ出ているような、そんな少女だった。
「は、はじめまして、聖女の御遣い様」
つぶらな茶色い目にまぎれもない称賛と畏敬の光を宿らせて、少女は深深とリンにお辞儀した。「本日より聖女の御遣い様のお世話をさせていただきます、カリーヌと申します。この度は、名誉な役目を仰せつかりまして、とても光栄です。一所懸命務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます」
そのまま、いつまで過ぎても頭を上げようとしないカリーヌに、リンは頭をあげるように云った。
「わたしは、『聖女の御遣い』なんかじゃないから、そんなに固くならないでも大丈夫よ」
カリーヌは、弾かれたようにいいえ、とかぶりを振った。
「御遣い様は御遣い様です。あたし、モーリスの街の近くにある小さな村の生れなんで、聖女様の伝説は小さな頃からおばあちゃんに聞かされて、良く知ってました。
今度のことも、代官のロジェ様や聖女アーディラ教会のユベール神父様は黙っておいでですけれど、周辺に住む皆が知ってます。
みんな云ってますよ。聖女の泉から、御遣い様が現れたって!」
「今云った通り、わたしは確かに泉で溺れかけたけれど、『御遣い様』じゃないの」
「溺れかけただなんて、そんな」
リンが冗談を云ったとでも思ったのか、カリーヌはけらけら笑った。のち、深深と頭を下げる。「御遣い様の御心にかないますよう、精いっぱい務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします」
リンはため息をついた。
「カリーヌ。わたしのことは、リンと呼んでちょうだい」
カリーヌは、とんでもないと、純朴な茶色の目を見開いた。
「そんなことできません!」
「『御遣い様』なんて仰々しく呼ばれるのは疲れるわ」
「ですが、尊い方をお名前で呼ぶだなんてできません!」
しばらく同じような、不毛なやり取りが二人の間で続いた。
「じゃあ、こうしましょう」
二人で妥協して、最終的にはリンのことは、ヨランダやジェンマが呼んでいるように「お嬢様」と呼ぶことで落ち着いた。
***
窓辺の椅子に座って本を広げていたリンは、ふっと息を吐いて顔を持ち上げた。
「カリーヌが来て、今日で……」
膝に本を置いたまま、指を折りおり数える。「八、九……十日?」
悪い子ではないんだけれどもなぁ、……と呟いて、リンは自分の目頭を揉んだ。
リンが名前を口にしたのが聞こえたように、その時扉がノックされ、リンの返事を待たずにカリーヌが入室してきた。
「お嬢様、今日は天気も良いですし、城の敷地を歩きませんか?」
リンは、窓越しに外の景色をちろりと見やった後、小さくかぶりを振った。
「今日はいいわ。この本を読んでしまいたいし」
「ダメですよ。聖女様は自然がお好きで、しばしば外を探索されて自然と親しんでいらしたお方なんですから。御遣い様もそのように過ごされないといけません」
「わたしは、御遣いではないわ」
「はい、お嬢様。存じております」
聞きわけの悪い幼い子供を相手するような口吻でリンをいなしたカリーヌは、リンの膝から本を取り上げて脇にのけると、強引に椅子から立たせた。「さあ、行きましょう。城の周囲をめぐるつるバラが見事ですよ」
「……」
リンはため息を吐いた。
そんな彼女の態度を全く意に介さず、カリーヌはうきうきとドアを開いてリンを促す。
「さあ、行きましょう」
廊下に出たリンは、せめてもの抵抗に、玄関ホールとは反対側に足を向けた。
「お嬢様、外に出るにはそちらではありません」
案の定、呼びとめたカリーヌを振り返ってリンは云う。
「今読んでいる本に関連のあるものを借りたいし、先に書斎に寄るわ」
「ダメです!」
カリーヌは、必要以上に声をあげてリンを制止した。「ダメです。今の時間の書斎には、城主がいるじゃないですか。お嬢様は、城主に必要以上に近づいてはいけないんです!」
云うばかりでなく、リンのドレスの袖をつかんで、力づくで止める。
リンは顔をしかめた。力任せに掴まれた腕が痛かったこともあるが、他人に行動を禁止される不快感も、その顔には浮かんでいた。
「どうしてあなたはそんなに、わたしが城主様と話すことを嫌がるの?」
「だって、お嬢様は御遣い様じゃないですか!」
「何度も云ったでしょう?わたしは、聖女の御遣いなんかじゃない。それに、万が一にも御遣いだとしても、それがどうして城主様とお話したりお食事を一緒にしてはいけないことになるの?」
「だって、お嬢様は御遣い様だから……」
何を訊ねても同じ言葉を繰り返すカリーヌに、リンの方が音を上げた。
「解った、解ったわ。じゃあ、外に行きましょう」
「はい!」
とたん、現金ににこにこ笑い始めたカリーヌに、リンはすかさず云う。
「けれど、今日の夕食も明日の朝食も、食堂で城主様と一緒に食べるわよ。今朝みたいに、勝手にわたしの寝室に運んで来ないで頂戴」
「え?……でもそれは……」
「解った?」
リンが強く念を押すと、カリーヌも渋々ながらも頷いた。
「……解りました」
が、絞り出すように出された声は、この命令に彼女が全く納得していないことを示すように低くしわがれたものだった。
***
カリーヌが誘いの言葉として口にしたことは、嘘ではなかった。
日差しは温かくぬくもやかで肌に心地よく、空は高く青く晴れ渡り、快い風が流れて来ては、城館をつつむ蔦バラの花々や葉をそよわせている。
「このお城には色々いわくがありますが、このバラだけは見事ですねぇ」
リンの後ろを歩くカリーナが、感嘆した様子で云った。
バラの香りを胸一杯にすい込んで楽しむのに夢中だったリンは、彼女の言葉を半ば聞き流して、気のない相槌を打った。
「そうね」
その言葉を拡大解釈したらしい、カリーナは、庭師にバラの花を切って分けてもらうと云って駆けだした。
「あまり無理は云わないでね」
リンが心配して云ったのは、カリーナがこの城に来た初日に、リンが何気なく果物が好きだと話題を出した途端に、城の果樹園にその時実っていた食べごろの果実をすべてもいで持ってきた前科があるからだ。
カリーナは足を止めて振り返り、
「大丈夫です」
と自信たっぷりに云い切った。「ニーコも、お嬢様のお部屋にかざるためのお花なら、いくらだっておしくないって云うに決まっていますから」
ニーコは、この城で主として果樹園や畑、それに数頭いる馬や飼育している鶏などの世話をしている下働きだ。リンは直接には紹介されなかったが、カリーナは使用人同士という気安さから、親交があるらしい。
カリーナの云う通り、しばらくして彼女が連れてやってきたニーコは、濃く陽に焼けた純朴な顔をにこにことほころばせ、カリーナとリン二人が抱えきれないくらい大量のバラの花を切ってくれた。
「こんなにもらって大丈夫?」
思わずリンが訊ねると、ニーコは、かまいません、とかぶりを振った。
「どーせ誰も見る奴なんていねーんでさ。バラの花も、見てくれる人の所に行った方が幸せでさぁ」
「こんなに見事なのにねぇ……」
リンは城館を振り仰いで云った。蔓バラの木は、ところどころ互いに絡み合い、もつれ合いながら、二階の窓の上辺りにまで伸びてしげっている。
「せっかくこんなにきれいなのに、見る方がいないのは残念ね。
このバラは、どなたが植えられたの?
城主様のご両親かご親族に、バラがお好きな方がいらして、その方が植えられたのかしら?
この幹の大きさだと……祖父母様とか?」
「蔓バラは、聖なる鎖ですから」
カリーナが、最前までのにこやかさを忘れたように、冷たい声で云った。「呪われた、けがらわしい存在を封じ込めているんですわ」
「呪われた、けがらわしい存在……?」
リンは訝しげにカリーナを振り返った。
その背後に、どすん、と重い何かが落下する。
(……え?)
リンが振り返って確かめるより先に、カリーナがバラを取り落として顔を押さえ、甲高い悲鳴を上げる。
「いやあああああ!!!」
と同時に、
「見ちゃいけねえ!!」
リンはニーコに抱き寄せられて、目を隠された。
(何?)
何が起きたのか解らないまま、リンは強制的にその場を立ち退かされて、居間に押し込められた。
エヴラールが、城館の三階の窓から身を投げたのだと、リンが知らされたのは、その後数時間が経過した後だった。
即死だったと云う。