10
一杯目のコーヒーを飲み終えたリンは、ふと思いついた。
「そうだ。このコーヒー、城主様にもお持ちしたらどうかな?」
ヨランダとジェンマは、真顔で互いに互いの顔を見やった。
のち、ヨランダがおずおずと尋ねる。
「城主に、……ですか?」
「そう。せっかく珍しくて美味しい物が手に入ったんだし、持っていったら喜ばれるんじゃないかしら?」
珍しいものなんでしょう、とリンが訊ねると、ヨランダはためらいがちに頷いた。
「それは、……はい。コーヒー豆、というものがこちらに届けられたのは、今度が初めてです」
「そう。そしたら、その珍しい飲み物をお持ちするんですもの、城主様もわたしとお話してくださるかしら?」
「お話……ですか?」
「ええ。ここに来た最初の日にお会いして以来、城主様とは全然お会いできていないから。いろいろとお話したいの」
「いろいろと、……ですか」
「そう。同じ所に住んでるんだし、やっぱり仲良くしたいじゃない?」
「はぁ……」
「うん、そしたら淹れたてのをお持ちしたいよね。よし、も一度コーヒー淹れるか」
リンは張り切ってコーヒーを淹れなおし、ヨランダ達にミルクと砂糖の支度を頼んだ。
熱いコーヒーとともに、使いやすい分量に取り分けられたそれらを銀の盆に乗せたリンは、ヨランダに訊ねた。
「城主様って、書斎にいらっしゃるのかな?」
「恐らくは。……日中は、よほどのことがありません限り、そちらでお過ごしになられていらっしゃいますから」
「そっか。じゃあ行って来る」
「あ、……」
「うん、何?」
訳あり顔で云いかけたヨランダに、リンは上機嫌で聞き返す。
ヨランダは、何度か物を云いかけては口をつぐみ、……やがて諦めたように首を振った。
「いいえ、何でもございません。お引き留めして申し訳ありませんでした」
「うんん、気にしてないし。それより、使った道具をそのままで行っちゃってごめんね。帰ってきたら洗うから」
「どうぞお気になさらず。片付けはこちらでいたします」
「それは悪いよ」
「いいえ、コーヒーという食材を教えていただいたのですから、それくらいはさせてください」
「え~?」
リンはなおも自分が洗い物をすると云い張った、がヨランダはあくまで譲らない。
いい加減コーヒーが冷めてしまうと気がついたリンは、とりあえず飲み物を届けるのを優先することにした。
「帰ってきたら洗うから。だからそのままにしておいてね」
「いってらっしゃいませ」
リンの言葉に同意は見せず、にこやかに彼女を見送ったヨランダは、リンの姿が廊下の角を曲がって消えたとたん、すっと笑顔を下ろした。
「本当なら、お盆は私たちのどちらかで運ぶべきなんでしょうけれど……」
「い、嫌ですよ、私!」
すかさずジェンマが抗議した。「このお城に務めているのだって怖いのに、あの城主に近づくだなんて、本気で厭ですから!」
「そうよねぇ……」
ヨランダとジェンマは顔を見合わせ、二人同時にため息をついた。
書斎は、東館の、普段リンが過ごしている居間と反対側の、あまり日当たりが良くない一角にある。
「失礼しますー」
ノックをするなり、返事を待たずに扉を開けて入ってきたリンを、エヴラールは驚いた表情で迎えた。
「何かご用ですか?」
「はい」
リンはにこにこと頷いて、部屋の一角にあるテーブルセットの上にお盆を置いた。「珍しい飲み物があったんで、ぜひ城主様にもあがっていただこうと思って、持ってきました」
笑顔を全開にしたリンが手招きすると、エヴラールは戸惑いの表情で周囲を見回した。
「えっと、……私に、ですか?」
リンはけらけら笑った。
「他に誰がいるんですか。いるって云ったら怖いじゃないですか。
えっと、飲み物なんですが、コーヒーって云うんです。美味しいですよ」
「ああ、アラビアの飲み物ですね。僧侶たちが長時間祈祷する際に眠気を払う目途でしばしば飲まれているのだとかいう」
「ご存じだったんですか?もしかして、あがられたこともあるんですか?」
「いいえ。書物で紹介されている文章を読んだことがあるだけです。実物に触れるのは、今が初めてです。……なるほど、本に書いてあった通り、良い香りですね。ここにいても解ります」
「でしょう?冷めないうちにあがってください。ね?」
「ありがとう」
ほほ笑んで頷いたものの、いっこうに動く気配が無いエヴラールを、リンはきょとんと見やった。
「どうかされたんですか?」
「いいや、どうもしないよ」
「じゃあ、こっちにいらして、あがってください」
「うん、……」
やはり動かないエヴラールを、リンはいぶかしげに見やった。
「もしかして、わたしがいると邪魔ですか?」
「そんなことはない。ない、けれど……」
「『けれど』、なんですか?」
何事か云いかけたエヴラールは、しかし諦めたように口をつぐんだ。
そんな彼を見つめて、リンは辛抱強く待った。
やがて、何かを諦めたように、エヴラールは立ち上がって、コーヒーやミルク、砂糖が並べられたテーブルに着いた。
とたん、にこにこと笑顔に戻ったリンから微妙に視線をそらしたまま、カップを手にとる。
「いただきます」
「はいどうぞ。……あ、一口あがられて、苦みがきついなと思ったら、ここにあるミルクや砂糖を入れてみてください。味がまろやかになります」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
断ることもなく、テーブルを挟んでエヴラールの正面に座ったリンは、にこにこと彼の反応を見守る。
そんな彼女から不自然に顔をそらしたまま、コーヒーを一口飲んだエヴラールの目が、驚きに見開かれた。
「美味しい」
「あ。お口に合いましたか?良かったあ」
「はい。コーヒーがこんな味だったなんて、知りませんでした。やはり本を読んだだけでは解らないものですね」
「城主様は、本がお好きなのですか?」
「好きというか……他にすることが無いんです」
「他にすることが無い?」
エヴラールは、遠くを眺める目をして、苦笑した。
「私が外に出るのは色々と差し障りがありますし、屋内で一人でできることといったら、本を読むくらいでしょう」
「何で外に出れないんですか?」
「……」
答えようとしないエヴラールに、リンは心配そうに眉を寄せた。
「いけないことを、聞いちゃいましたか?」
エヴラールは首を振った。
「いいえ。それより、あなたは大丈夫なのですか?無理はしていませんか?」
リンはきょとんとした。
「何がですか?」
「私の――いいえ、いいです」
「そうですか?」
云いにくそうに口をつぐんだエヴラールに、リンはにこにこほほ笑んだ。
「わたし、城主様とこうやってお話ししたかったんです。初めてお会いした時はあまりお話しできなかったですし、あれ以来城主様とは全然お会いしなくて、お食事も別でしょう。残念に思ってたんです」
「食事……」
「城主様は、いつもどなたかをお招きして食事されていらっしゃるんですか?」
「いいえ。いつも一人で頂いています」
「えっ」
まるで世界の終りを目にしたようなリンの反応に、エヴラールの方が驚いた。
「ど、どうかされましたか?」
「だって、食事が別なのは、城主様がどなたか大切なお客様をおもてなししているからだと思って、わたし、我慢してたんです。だのにお一人でされていらしただなんて……。
わたしと食事するのは、嫌でしたか?」
「嫌とか、そう云うわけじゃないんです。ただ――」
「ただ?」
きょとんと、邪気なく首をかしげるリンに、エヴラールはちらりと目をくれた。のち、慌ててそらす。
「ただ、食事は今までずっと一人で済ませていたから、誰かほかの人とする、という考えが出てこなくて……」
「そうですか?じゃあ、今夜からご一緒させて頂いて良いですか?」
「あ、……ああ。あなたさえ良ければ」
リンはぱっと、顔を輝かせた。
「良かったあ!じゃあ、今夜からよろしくです。ベランジェさんとヨランダさんには、わたしのほうから云っておきますね」
エヴラールが飲み終えたカップをお盆に戻したリンは、上機嫌で立ち上がった。
「じゃあ、またあと。お夕食の席で。お邪魔しましたー」
ぱたぱたと軽やかな足音が扉の向こうへ消えていってから。
エヴラールは、コーヒーの香りの残る空気を胸一杯に吸い込んで、長息した。