(三)
「家の近くを歩いていたら、あの人と擦れ違ったの。
ほんとに偶然よ。……私、そっくりだったから、間違えて家に連れてきちゃったのね。かつ江さんも驚いてた。
彼女が、しばらく居てくれと頼んだのね。おかしなことを話してるわって、思ってたけど……。
おんなじ顔で、おんなじ背格好で。
あの人、いつも怖い顔をしてるけど、笑うともっとそっくりになるのよ。
騎道さんが来てくれて、毎日楽しかったわ」
「時々、笑ってましたよね。楽しそうに」
常に超然としていた凄雀でも、夫人の前では、ただの男の一人だった。世話を焼かれ、時々鋭く心を見透かされ。
母親のもつ超能力的な勘の良さに、やり込められてさえいた。
人辺りがよくてよく笑う末息子と、無表情で無愛想な長男。凄雀家に集った即席の家族の中心には、賢くちょっとかわいい、年を取った母親が居た。
「彼は、あの通りの人です。普通の男です。
おかあさんの目に映るとおりの人間です」
「……あの人、もう戻ってこないのかしら……」
騎道は頭を横に振った。
「黙って、遠くへ行くような人じゃありませんから。
あの家は居心地がいいから、かならず戻ってきますよ」
「居心地がいいからなんて、猫みたいね。
猫は家につくっていうでしょ?」
あれが、大きな猫…………。
冷や汗を感じながら、騎道はぎこちなく笑い返した。
始めて顔を見る男のはずだった。よく見知っていたような気がするのは、気のせいでも、彼が年老いたせいでもない。無意識に息を飲んで、彼は男が歩み寄るのを待った。
しんと、静まり返った入院病棟の廊下を、男は足音を潜め近付いてくる。濃ブルーの三揃え。深夜の正装は、ただの気紛れな見舞いではないと凄雀彰悟に教えていた。
「お元気そうですね」
「うむ」
彰悟は目前で足を止めた男を、少し見上げた。寸分変わらず、背の高い偉丈夫な男だ。
「どちらへ?」
「いや。目的はない。いろいろと飽きてきたのでね。自由になる時間に、時々、歩き回っている」
こうやって、入院生活がもたらす体力の衰えを防ぐのだ。
それほど回復したとも言えるし、それほど老いに見舞われたとも言える。後者に受け止められなければいいがと、彰悟は内心舌打ちしていた。
「では、ロビーにでも行きますか?」
「いや……。あそこでは、誰に会うかしれん。戻ろう」
出来る限り、しっかりとした足取りを心がけて、彰悟は廊下を引き返した。男は彼のすぐ背後に従った。よろめいたりしたときには、いつでも手を貸せる位置に。
「学園の方はどうだ? 慣れたか?」
病室は個室で、簡素だが応接セットも並べられている。
彰悟は一人掛けのソファにゆったりともたれ、長い足をもてあまし気味に向かい合う息子を眺めた。
「はい。一生気の合いそうにない相手も居ますが、うまくやっています」
彰悟は、含み笑いを浮かべた。
「そうか。おまえも気が合わないか」
凄雀遼然は背筋を伸ばし、居を正した。
「お侘びしなければなりません。不祥事をいくつか起こしてしまいました」
「構わん。うまく伏せてくれたようじゃないか。
それとも、もう手を引きたくなったのか?」
彰悟の中から、療養老人の気弱さが抜けていった。
心臓病での入院期間より、学園長としての時間の方が遥かに長いのだ。すぐに、気持ちは切り替わった。
「事後処理は見事な手際だよ。私は安心して見ていられる。
お前の好きなようにするといい。手に余るようなら、私が私の名前で後始末はつける。手加減する必要はない」
うなずきもせず遼然は、一点を見つめ黙っている。
彰悟は手を伸ばし、クラッチ・バックからキーケースを取り出し、ロー・テーブルに置いた。
「これを渡さねばと思っていた。史料館に預けた金庫の鍵だ。御鷹姫についてはいくらか知っているか?」
「はい。かなり詳しく」
「篠屋からか?」
「いえ。慈円寺の住職に。教頭も詳しいのですか?」
彰悟は顔をしかめた。
「詳しいなんてものじゃない。取り憑かれている。
憑かれているのは、それだけじゃないがな。
藤井家に師事して占術白楼講に執心したり、調査発掘と称して人の墓をあばこうとしたり。元は神主の倅だが、弟子を従え、今だに自宅で祈祷の真似事もしているという話しだ。あいつの行動は、インテリな見かけ通りではない」
遼然は目を見張り、それで納得したように冷ややかな笑みを見せた。
「だから気が合わないのでしょう。
身の程知らずに、あちこち頭を突っ込みたがる者は、危険人物以外の何者でもありません」
「まあな。お前も、辛辣だな」
冷淡な一面を垣間見て、彰悟はひやりとさせられた。
「史料館とは、どういうことですか?」
「御鷹姫にゆかりの扇と刀が預けてある。白楼祭に必要な神具だ。学園にもってくるのは学園長の役目になっている。
いわくつきの品だから、取り憑かれんようにしろよ」
「憑きものがあるのですか」
「……あるね。あまり手を触れない方がいい。
去年、あんまりせがむので篠屋にも扇を持たせたが、試しに握った途端、奇妙な顔をしていたぞ」
ケースを拾い上げ、遼然は胸ポケットに収めた。
「気をつけます。ですが、そこまでが私の勤めとなるでしょう」
「……もう飽きたのか?」
もう一度、今度は呆れ顔で彰悟は言った。
「私のことを、お気付きになられたようです」
遼然は、静かに目を伏せ答えた。
「あれが……、正気に戻ったとでも?」
身を乗り出すようにして彰悟は聞き返した。
「はい。偶発的に、ですが」
「確かか?」
「仏壇を開き、泣いておいででした」
拳を握り合わせ、彰悟は頭を振った。
「……。信じられん……、あれほど手を尽くしたのにな」
自分で仏壇を開くことはおろか、息子遼一の遺影ですら飾ることを拒否してきた妻だった。
「それで。藤江はお前に出て行けと罵りでもしたのか?」
座り直し、彰悟は遼然に目を向けた。どこか、広い肩を落としているような気さえする。うなだれて、落胆しているようにさえ彰悟には見えた。
「いえ。それはまだです」
「まだ? お前はあれの性分を知らんのだな。
弱腰に見えても、あいつは気丈な女だ。自分が間違っていたと気付いたなら、即刻それを正す。そのままになどしておかん。何も言わないというのなら、これから先も同じということだ」
断じて、彰悟は遼然から視線を逸らした。
目の前の男が、彼の息子になった経緯を、彰悟は詳しくは知らない。喜び一杯で報告に来た藤江の姿に、追及する気持ちを失ったのだ。代行にしばらく据えたいと夫人が言い出した時も、それで彼女が安らげるならと許した。
どこの馬の骨ともわからない男。自分の家庭も学園も、委ねることに不安は当然あったが、それ以上に期待もあった。たとえ精神がひずんでいるにせよ、自分の妻が選んだ男に間違いがあるはずはないと。
事実、藤江が得意げに語る男は、生真面目に夫人の買い物に付き合い、退屈なばかりだろう代行の職務を忠実にこなし、10月18日に起きた不祥事を手際良くおさめた。
こうして会って、期待以上の器だと確信もした。
「たとえ藤江の気が変わったとしても、今度ばかりはわしは引かん。
倅と晩酌ができる楽しみを、棒に振る気はないぞ」
腕組みをする彰悟を、遼然は体を起こし見返した。
「……。退院はいつ頃になりますか?」
「年末には帰る。無理をしてでもな」
遼然は彰悟の決意に水を掛けるように、肩をすくめた。
「先の話しですね。これをもってきて良かった」
左のポケットから、ウィスキーのポケット瓶を取り出し、遼然はテーブルに乗せた。
「殊勝な顔をして、凄雀家を乗っ取るつもりだな」
不敵に受け止め、彰悟は続けた。
「まあいい。出来のいい跡継ぎなら、大歓迎だ」
ウィスキーの封を切る遼然の方から、奇妙な泣き声が聞こえた。……にゃあ?
彰悟はグラス代わりのコップを握り締め、身を引いた。
「お……、おい。そいつを、しまってくれんか」
「お嫌いですか? もう我が家の一員ですよ」
遼然の右ポケットがもこもこと動き、黒い顔に白い鼻筋の子猫の頭が突き出てきた。小さな右手を縁にかけ、きょろりと辺りを見回している。
「貰い手はいないのか?」
「藤井家の末娘が欲しがっていますが、あの家柄ですので無理ではないかと」
涼しい顔で、自分自身が手放す気のないことは伏せた。
片手で子猫の顎を撫でてやりながら、テーブルのコップにウィスキーを少量、注いだ。
「やはり、退院は伸ばすかな……」
目を細める猫とウィスキーを見比べて、彰悟はぼやいた
「お父さん。情けないことを言わないでくれませんか。
待っていますので」
封じた小瓶を左ポケットに納め、遼然はくすりと笑った。
暖かい視線に、彰悟はぎこちなく、父親の威厳を込めてうなずいた。
凄雀彰悟が誰が来るか知れないと警戒したロビーには、その通りに人影があった。病院関係者だろうが患者だろうが、遼然には、言い訳をするつもりはなかったが。
彼の母親と、彼の親友では、黙って通りすぎるわけにはいかなかった。
「やっぱり、ここだった」
藤江夫人は振り返り、花のように頬をほころばせた。
ね? と、白衣の尾上を見上げ、遼然が歩み寄るのを夫人はロビーの長椅子で待った。
落ち着き払った夫人と対照的に、腰を浮かせた尾上は、凄雀に対してどんな顔をしたらいいかと、迷っている。
「尾上さんに話し相手をしていただいていたのよ。今日は夜勤ですって。居て下さってほんとに良かったわ」
「巡回していたら、ここに、一人で座っていられたので……」
他人行儀なまでに、ぎこちなく言い訳する尾上。
「いつもすまないな。世話をかけて」
「! いいんだ……! あ、いや、すまん。大声を出して」
赤くなり、どうやら内心で自分を責めているらしい尾上を見返して、夫人はくすっと吹き出した。
「これからもまだ、ご面倒をおかけするでしょうけど」
夫人は二人の青年の右手を取り重ねた。
ぐっと、凄雀の方が先に力をこめ、尾上もそれに応え握り返した。
「帰りましょう。遼さん」
夫人は先に、玄関へと歩き出した。
二人きりにされて、やはり尾上は気がひけた。ここに居る男は、尾上の親友と同じ顔ながら、別人なのだ。先ほど、夫人に教えられた。遠回しに、何事もなかったかのように。
「夜勤とは、出世したものだな?」
「……。騎道君の件でね、僕の腕が認められたらしい。
でなければ、精神科医が夜勤などさせられるか……」
瀕死で運び込まれた騎道のプライバシーを守る為、婦長を専属にして、集中治療用機器を独占した。それら諸々の、凄雀の圧力に屈して尾上が発揮した外科治癒能力は、我が儘を通した代償として、婦長により進言推薦されたのだ。
「適材適所だ。私を逆恨みするなよ」
「! 凄雀……! お前は、いつだってそれだ…………!」
向けた背中に、尾上の苛立ちが突き刺さる。
「……相変わらずで、嬉しいだろう?」
そっけなく返し、凄雀は夫人の後を追った。
相変わらず……。
穏やかな笑みを向ける夫人が、凄雀を待っている。
親子は恋人同士のように、並んで雨の中へ出ていった。
在るべき所へ収まった、静かな夜が更けてゆく。
『家族の軌跡 完』




