(一)
膝の上で、子猫はうつらうつらとし始めている。
指先で耳の後ろを撫でてやりながら、凄雀夫人は寝顔の無邪気さに見惚れていた。
一昨日、騎道が拾って、凄雀家に持ち込んだ猫だった。
生後一ヶ月ほどの純白の猫と白黒猫の二匹。拾われたその日のうちに貰い手がついたのだが、相手の家の事情で引き取られず終いだった。どうも、このままになりそうな気配で、凄雀夫人はそれが密かに嬉しくもあった。
常の和服を洋服に変えるほど、夫人は二匹の世話に執心した。猫嫌いのお手伝い、かつ枝の嫌な顔も、ちっとも気にはならない。もう一人の『息子』に代わっての子育てだから、愛着もひとしおなのだ。
片割れの白黒猫もまた、古毛布を敷いた巣箱の中で両手を放り出し眠っている。
和室の居間は暖かく、子猫にも人にも不足はなかった。
ただ、子猫をあやす夫人だけが、気鬱の中にある。
「どうしたのかしらねぇ。……騎道さんも、遼さんも」
彼女の息子、凄雀遼然の帰宅は今夜遅かった。食事は済んだと一言。擦れ違う凄雀からは酒の匂いがしたが、酔っている様子はまるでなかった。
騎道もまだ、戻らない。
凄雀家で決められた暗黙の門限は九時半。この時間には、重要な意味がある。
これを過ぎると、夫人が無意識のうちに怯え始めるから。
このまま二度と戻らないのではと、彼女が不安がるので、息子たちは時間を守る。でなければ電話を入れる。
最初の一人が長い間帰宅せずに、夫人の心を傷付けたことに由来する、凄雀家の息子である限りの義務だった。
門限を越えようとする時計を見上げ、夫人は溜め息をついた。
彼女を困惑させるのは、帰宅した凄雀の行動だった。
夫人と擦れ違い、真っ直ぐ離れの騎道の部屋に向かうと、凄雀はそこにかつ枝を呼び付けた。次に命じた口調は、かつ江を震え上がらせるほど厳しく、すぐさま彼女は行動に移した。
何事かと駆け付けた凄雀夫人は、冷ややかな凄雀の言い訳を聞かされた。
「お互い、承知の上のことです」
あとは、凄雀夫人はその場で右往左往するばかりだった。
言い付けを終えたかつ枝は、自室に引き取っている。
遼然が風呂に入った今。静けさを取り戻した屋敷に、ようやく凄雀夫人は気を静めることができた。
玄関先で、傘を降る音がする。あわてて白猫を巣箱に横たえ、夫人は部屋を飛び出した。
「ただいま帰りました…………」
騎道の声は、すっとしぼんでいった。
広い三和土に、彼は傘を手にしたまま立ち尽くした。
玄関の隅から目を逸らし、騎道は夫人を見た。
騎道の視線が釘付けになったその場には、精一杯丁寧に、彼の私物、衣類や教科書が積まれ、一番上には大きな登山用のリュックが乗っていた。
夫人もまた、途方に暮れた目で、呆然とした騎道と悲しいくらいわずかな身の回りの品を見比べた。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「お上がりなさい。御飯は?」
済みました。騎道は答え、傘を立て掛けた。歩み寄るとリュックに手を伸ばした。
騎道が驚いていたのは、凄雀の性急な行動にだった。
すでに、自分から出てゆくと決めていた。行き先のあてはない。勿論、経済的な面では、この家を出ることは無謀でしかないのだが、それでも。
凄雀には一時の猶予を与える気もないのだ。明確な意志表示は、問答無用で隔離されるよりは遥かにましだった。
凄雀はそれが可能な立場にある。
「騎道さん……」
決意を察して、絞り出すような声で夫人は呼んだ。そのまま肩を落とし、彼女は板の間に座り込んだ。
騎道は手を止めた。夫人の膝先に自分もかけて、肩にすがる彼女の重みに耐えた。
「……行かないでちょうだい」
強張った頬のまま、騎道は唇を噛み締めた。
気付くと、浴衣姿の凄雀が彼等を見下していた。
「話すことはないな」
声に弾かれて、夫人は背後を振り返った。
「はい。……今まで、ありがとうございました」
立ち上がった騎道は、再び荷造りを始めた。
腕を組み眺める凄雀を、夫人は見上げ向き合った。
「止めて下さい。この子も、私の子同然です。
喧嘩なんて許しません」
「お互い、承知の上です」
凄雀は同じ言葉であしらった。
騎道は、差し当たり必要なものだけを詰めている。
でくの棒の凄雀を押し退け、夫人は奥へと取って返した。
茶箪笥の引き出しを掻き回し、一束の書類を取り出すと、別の紙に二、三書き付ける。
廊下を小走りで引き返すと、騎道は制服の上着を詰め終え、かわりに厚手のパーカーを着込んでいた。
凄雀の姿は居間の火鉢の側に移っている。広い背中を廊下に向けて、憎らしいくらい強情なまま。
大人げないところは、父親と瓜二つ。
親子揃って、二人は頑固だった。
危険な山登りをやめない息子、いい加減怒り疲れて意地の張り合いになった父親。背を向けあった二人にはらはらさせられた日々を、夫人は思い起こしていた。
リュックを背負った騎道は、夫人に向き直った。
「ここに。私が預かっているお宅なの。そこへ行きなさい。鍵は郵便受けの中にあるから」
靴下のままで玄関へ降りた夫人に驚きながら、有無を言わせない勢いに押され、騎道はメモを受け取った。
メモを握らせた手をぎゅっと包み、彼女はうなずいた。
「さ、お行きなさい……」
涙をこぼすまいとする頬が、微笑もうとした。
騎道は目を伏せて、心から頭を下げた。
「……すみません。何も返せずに……」
はっと、夫人は胸を突かれた。
目を細くして、彼女は騎道を見た。騎道の髪を撫で、ほうっと長い息を吐いた。
異常なまでに波打っていた彼女の動悸が、一撫で二撫でするうちに静けさを取り戻してゆく。
彼女の息子もまた、同じことを口にした。そんな昔の、懐かしいことを思い出したのだ。
意地を張っていても、背後を気にかけている。ためらっている。そんな、男たちの弱さを見出せたから。
黙って、彼女は見送った。
傘も差さず、騎道は門前で振り返り、一礼した。
よろよろと、追うまいと思いながらも、夫人は雨の中に引き寄せられていった。
引き止めたい……。引き止められはしまい。
冷たい雨も、彼女の相反する感情を冷ますことはできなかった。
「……待って……」
さっと向けられた、色あせたリュック。無情な氷雨。
意志の堅い後ろ姿が、遠ざかる。
ふっと、彼女は目を凝らした。
様々な色彩が夫人の脳裏に浮かんでくる。それがチラチラとして、追いかけたい人影を覆い尽そうとする。
動悸が再び激しく打ち始めた。彼女の中から込み上げるものを導くように。
容赦なく鎚を振るい、揺り動かし、呼び覚まそうとする。
「……待って、遼……! 遼一……」
行ってはダメ。行かないで、あなたは、もう二度と。
「二度と……?」
自分の中で叫ぶ、もう一人の自分の声に彼女は耳を傾けた。それは、泣きながら叫んでいる。
……誰の、ことだろう? 二度と戻らないのは、誰?
ふいに。
彼女は濡れた両手で顔を覆った。
肩に染み、首筋を濡らし始めた雨に、唇が震え出した頃。
恐る恐る細く開けた指の隙間から、あたりを見回した。
右の車寄せには、白銀の車。見覚えのない車体。
「いえ……。知っているわ……、私はあの人も知っている」
呟いて、うねりながら込み上げてくる嗚咽を噛み締めた。
ふらりと、おぼつかない足取りで、夫人は屋敷へと引き返した。己のすべてを過去から取り戻す為に、蘇った現実を確かめるために、彼女は一歩一歩、足を進めた。
乱れた足取りが、背後の廊下を通り過ぎてゆく。
凄雀はじっとやり過ごしてから、顔を向けた。
一瞬にして、屋敷の空気が変化した。彼だけが悟ることのできる、微妙な違いだった。
あまりにも急なことで、つい彼は落ち着きを失いかけた。
音もなく立ち上がり、濡れた足跡の続く仏間に足を運んだ。
ぴたりと戸は閉じられていたが、すすり泣きが漏れてくる。声を押し殺して、その人は咽ぶ。
寂しさの奈落に落ちていくのだと嗅ぎ取っても、凄雀はその人と距離をおくことを選んだ。
凄雀は居間に引き返し、何食わぬ顔で声を掛けた。
「お母さん。先に休みます」
間もなく、凄雀は服を着替え自室を後にした。
濃いブルーの三つ揃え。乾き切らない髪もきっちりと撫でつけ、どこか正装じみた装いだった。
一度思い付いて、居間に入り込んだ。出てくると、あとは振り返らず玄関を抜ける。
誰にも気付かれず、青ざめた表情を隠す必要もなかった。




