くるみ割り人形
くるみはくるみ割り人形を持っている。
別に欲しくはなかったのだけど、持っている。
そいつはドイツ生まれの、水色の兵隊の服を着た不細工な人形。体の大きさはくるみの腕の長さくらい。体に比べて頭が飛びぬけて大きく、いつも白い歯を剥き出しにしている。
頭の後ろにあるレバーを引き上げると、顎が外れる程大きく口を開ける。そのしぐさは誰かと一緒に見る分にはまだ滑稽であったけれど、一人で見る時には完全に不気味だった。
何度も言うけどくるみは別にくるみ割り人形なんて欲しくなかった。
プリキュアの人形の方が、こんなおっさん型の人形よりよっぽどよかった。
だいたいくるみという名前の女の子にくるみ割り人形を買い与えるなんて趣味が悪い。くるみはまだいたいけな五歳児なのだ。
そんな五歳児以下の子供っぽい悪戯をはたらいたのは、くるみのお父さんでもお母さんでもなく、叔父さんだった。
叔父さんが仕事でドイツに行った時、こいつをお土産に買ってきたのだ。
叔父さんが嬉しそうにこの人形を渡してくれた時、人形の面妖すぎるフェイスに、くるみは危うく泣くところだった。
くるみが今まで見てきた人形の基準からすると、このくるみ割り人形は人形の範疇に収まらなかった。化け物だった。
でも叔父さんが、一緒に買ってきた木の実の方の胡桃をこいつに咥えさせて、バキッと割って、これまた一緒に買ってきたドイツのチョコと一緒に食べさせてくれたので泣かずに済んだ。美味しかったのだ。
この悪ふざけに対して、叔父さんがくるみのお母さんに怒られているのもおかしかった。
くるみは叔父さんが好きだった。若くて格好いいし、会うたびにお小遣いをくれるし、色んな面白い話をしてくれた。特に怖い話が面白かった。
くるみは怖がりだけど、怖い話に自ら飛びついて行く類の女の子だった。叔父さんもそれを見抜いてか、いつも新しい話をしてくれた。
そしてお土産をくれた日話してくれた内容は、くるみ割り人形にまつわるものだった。
「この人形はミュンヘンの古物商から買ったんだけどな。どうやらいわくがあるらしいんだ。こうやって毎日胡桃をやってる間はご機嫌だけど、胡桃をあげるのをやめるとだんだん不機嫌になるんだ。ほら、くるみのお父さんがこないだ煙草をやめたときみたいにな。しかもこの人形は正真正銘の胡桃依存症で、あんまりあげないでいると狂うんだ。丸くて小さいものならなんでもかじり出す。それでも満たされないから終いには小さい女の子の頭に噛みつくんだ。この胡桃みたいに中身が飛び出るまで」叔父さんは胡桃の殻を人形の歯で粉砕した。中身が勢いよく飛び出た。
くるみは震えあがった。
「この人形いらない」と叔父さんに言った。
すると横から妹のさくらがしゃしゃり出てきてこう言った。
「じゃあさくらにちょうだい」
「だめ」
「お姉ちゃんいらないんでしょ?」
「ううん、いる」
――こういう経緯でくるみ割り人形はくるみの物となった。
くるみ割り人形はくるみとさくらの子供部屋に配置された。
くるみ割り人形の脇をテディベアとプーさんのぬいぐるみで固めて、手前にはプリキュアの人形まで置くという厳重警備態勢だった。
それでもまだ不安は残ったものの、少なくともくるみの知る限りではこれで安全だった。
一応毎日胡桃は与えた。胡桃は生け贄のようにくるみ割り人形に噛み砕かれた。そのおかげかくるみ割り人形はおとなしかった。
しかしそんな平穏な日常は、ある日胡桃の殻のように砕け散った。
いつものように、くるみは幼稚園から帰って一番に、冷蔵庫の中にあるはずのお供え物を探した。しかし見つからなかった。あと十個はあったはずなのになかった。
くるみは血相を変えてお母さんのもとへ走り寄り、訊ねた。
「胡桃は! 胡桃はもうないの?」
「食べる胡桃の話?」
「うん。もうないの?」
「あー、昨日お父さんがおつまみに全部食べちゃった。また買っとくね」お母さんはくるみの心も知らずに呑気に答えた。
「だめだよ。今日じゃないと!」
「今日はもう買い物行っちゃったから」
「でも!」
「あんまりわがまま言ってると怒るよ」静かな怒りをたたえてお母さんは言った。
くるみは黙った。くるみ割り人形とおかあさんならまだお母さんの方が怖かった。くるみ割り人形は今のところ静かだったから。
くるみは夜、子供部屋に入った時、横目でくるみ割り人形を見た。
いつものように歯をいー、と噛みしめている。その表情は胡桃を催促しているように思えた。
ごめんなさい。今日一日ゆるしてください。
くるみはそう念じながらベッドに入り、ずっと恐怖で震えていたが、しばらくしてようやく寝付くことができた。
翌朝、叔父さんの言葉通り、くるみ割り人形は発狂していた。
目ざまし時計から聞こえるプリキュアの声に起こされ、上体を起こしてから、ゆっくり目を開けると、フローリングの床の上で、くるみの宝物の一つであるオーラストーンが割れているのが見えた。
「ひっ!」
青と緑がまだら模様をなすアズライトの石はもはや見る影もなく、ただのちょっと綺麗な破片となっていた。
気付くと横のベッドでさくらが怯えていた。
「さくら何か知ってるの?」
「人形が……、あの人形が……」さくらは今にも泣きだしそうだった。
「あの人形がどうしたの?」
「あの人形が、あの石を噛み砕いたの!」
くるみはお母さんに急いでその事を報告した。
するとお母さんは「あいつ、また変な事吹きこんで」と怒りをあらぬ方向へ向けた。悪いのはくるみ割り人形なのに。
つづいて、「大丈夫よ。そんなの嘘だから」とくるみを慰めた。
「でも胡桃は買ってきてね。絶対だよ!」くるみは抗議した。
「はいはい。ちゃんと買ってくるわよ」
くるみは幼稚園へ行った。幼稚園にはくるみ割り人形はいないのだ。
その日、幼稚園から帰宅して一番に確かめたのは、お母さんが胡桃をちゃんと買っているかどうかだった。
「机の上に置いてあるよ」お母さんは魚を三枚におろしながら返事した。
くるみは急いでダイニングのテーブルの上を確かめた。
クルミと印刷された袋があった。
ほっとして、くるみはその袋を手に取った。そして中身を確認した時戦慄が走った。
殻がない!
袋の中にあるのは胡桃の中身だけなのだ。
くるみは怒涛のごとくお母さんの元へ駆け寄った。
「お母さん、これ違う! 殻がないよ!」
「スーパーにはそれしかなかったのよ」
「でも! これじゃ……!」
「くるみ割り人形の話なんて、叔父さんの考えた嘘なんだから心配しないの」
「でも……!」
「なんなら叔父さんに電話掛けて聞いてあげようか」
「うん……」
お母さんは携帯電話をつついて、叔父さんに電話をした。しかし何度かけても出ないようだった。
「うーん、仕事中なのかな。大丈夫、その内かかってくるから」お母さんはくるみに笑いかけた。
ご飯の準備の間、くるみは念の為に胡桃の中身をくるみ割り人形に噛ませてみたけど、やはり人形は不満そうだった。
大好きなシチューを食べていても、お風呂に入っている時も、TVを見ている間もくるみはずっと不安だった。
その夜、くるみとさくらはお母さんの部屋で寝る事にした。くるみ割り人形が同じスペースにいないと思うと気持ちが楽で、久しぶりにぐっすり眠る事が出来た。
しかし翌日またもや事件が起こった。
朝食を食べた後、くるみが幼稚園の道具を取りに子供部屋に入ってみると、部屋の中で小ぶりなスイカが割れていた。赤い中身がぶちまけられていた。
スイカがどこからやってきたのかわからなかったけど、ついにクルミは泣きだした。
クルミ割り人形はわたしのあたまを割る気なんだ!
くるみがこれほど絶望したのは生まれてはじめてだった。
お母さんがその声を聞きつけて、部屋に入ってきた。
「うわ、なんでスイカが!」お母さんは携帯電話を取り出してどこかへ電話を掛けた。そしてスイカのことについて誰かに話していた。「うん、やっぱそうか。うん」
お母さんは電話切って、ぎゅっとくるみを抱きしめた。暖かさと柔らかさで、くるみはだんだん怖くなくなってきて涙が止まった。
くるみが落ち着いたのを見計らってお母さんはやさしく言った。
「あのね、くるみ。このスイカ、昨日お父さんが酔っぱらってお土産に買ってきて、それで落としちゃったみたい。本人は夢だと思ってたらしいけど」お母さんは軽く笑った。「だからクルミ割り人形のせいじゃないの。それに昨日のくるみの石もね、あれさくらが夜中におしっこにいった帰りに落としちゃったんだって。それでついくるみ割り人形のせいにしちゃったって」
「ほんと?」
「うん、でも怒らないであげてね。本人もすごく気にしてて、いつ謝るかずっと悩んでるみたいだから」
「……わかった」くるみはゆっくり頷いた。
「うん、じゃあそろそろ幼稚園行こうか」
「うん」
二人は手を繋いで立ち上がる。
その時お母さんの携帯電話が鳴った。
お母さんは電話を取る。
「ん、健二?」「なに、携帯壊れて修理に出してたの?」「あー、昨日の着信何の用かって?」「あのね、あんたがロクでもない作り話するからくるみがすっごい怯えて泣きだしちゃったのよ」「あんた次来たらくるみに謝りなさいよ」「まあとにかくあんたの口から言ってやってよ」
くるみはお母さんから携帯電話を渡された。
それを恐る恐る耳に当てる。
「もしもし」叔父さんの声だった。
「もしもし」くるみももしもしを返す。
叔父さんは息を吸って、それから言った。ちなみにこれはこの話を読んでくれた人への言葉でもある。
「くるみ、わりぃ、人形の話、全部でたらめだ。馬鹿みたいな話してごめんな」