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7-x 王様カンキング

 王宮は深夜の静寂に沈んでいた。その最奥にある執務室の、重厚な扉の内側には、墨の香りがわずかに漂っている。


 王は机に向かい、書類に目を通しては署名を入れていた。紙の束は左から右へと整然と移り、裁可を終えた文書には迷いのない筆跡が刻まれていく。書類をめくる音と、ペン先が紙を擦る微かな響きだけが、執務室に規則正しく残っていた。夜は深い。だが机上の仕事は、変わらぬ速度で処理され続けている。


 その静けさを破るように、扉を叩く音が三度、重く響いた。


「入れ」


 現れたのは、情報局の文官、ルディ・ファーンだった。整えられた服装、抑制の利いた姿勢。だが、その表情には、どこか予定調和をなぞっているような余裕が滲んでいる。


「ご報告を。第一王子ベイル・ドラン・エルディス殿下が、王立魔法学校にて平民生徒と非公式の決闘を行い──敗北されました」

「……敗れた、か」


 王の眉が、ほんの僅かに動いた。視線が、机の端に置かれた家族肖像へと流れる。まだ幼いベイルが、金の刺繍を施した制服に身を包み、胸を張って笑っている。


「重傷を負われましたが、救護が迅速に行われ、命に別状はありません」


 王は立ち上がり、窓辺へ歩いた。夜景を見ているようで、その実、何も見ていない。


「あれほど育て、時間も機会も力も、王としての道もすべて与えたというのに。それで、この結果か」


 失望は怒りよりも冷たい。空気が、わずかに張りつめた。


「学校側の判断は?」

「目撃証言によれば、殿下の魔法は、何らかの術式によって〝跳ね返された〟とのことです。ただし、当該魔法は未登録。属性、効果、意図、いずれも不明。防御か攻撃かの分類すら不可能との判断が下されております」

「……つまり、〝理解できない〟と?」

「はい」


 王の指先が、机上を一度だけ打った。


「見たことも、聞いたこともない魔法で王子が地に伏した。それを〝判断不能〟で済ませるか。都合のいい言葉だ。無能と臆病を包むにはな」


 王子が誰に侮辱されたかなど、本質ではない。〝平民に敗れた王子が存在する〟──その事実だけが、国に傷を残す。


「他は」

「ございます」


 ルディは一歩前へ出て、封筒を差し出した。極秘の刻印。王立秘術院監査局の封蝋。


「式典に関する非公式報告です」


 封を切り、羊皮紙に目を走らせる。そこに記されていたのは、簡潔で、しかし致命的な文言だった。


『式典において、無許可の【秘式顕現】(アンシールライト)を確認』

『象徴式および秘匿式の双方が一時的に展開』

『象徴式構造に断絶および再構築の痕跡』

『魔力効率は従来式より大幅に最適化』

『秘匿式との接続パスに切断を確認。現在修復中』

『関連現象はすべて、生徒エインの干渉によるものと推定』


 報告書の端が、王の指でわずかによれた。象徴式。秘匿式。王家の権威を可視化する外殻と、その内側に隠された、触れてはならぬ中枢。それを無許可で、無自覚に、しかも再構築と最適化まで行ったというのか。


 偶然。意図不明。目的不明。だからこそ、危険だった。


 構造を読まれ、断たれ、繋ぎ直された。意志がなかったとしても、次は〝偶然〟で王家が崩れることもありうる。


 そして、ベイルの失墜。誤算は揃った。処理する機会は、今しかない。


「檻に戻せ」


 短く、断定的な命令だった。ルディの表情が、ほんの一瞬だけ引き締まる。


「対象は」

「生徒エイン。罪状は第一王子に対する殺害未遂。審問は形式でよい。判決は決まっている」

「承知しました。夜明け前には拘束を完了させます」


 王は答えず、机へ戻った。ペンを取り、命令書の空白に署名する。その動きに、一切の迷いはなかった。


 背後で、ルディは深く一礼し、踵を返す。去り際、口元にわずかな曲線が浮かんだ。それが達成感か、あるいは別の誰かの意志を想起した結果か──それを知る者はいない。


 夜は音もなく深まり、命を量る手だけが、静かに動いていた。


    ◆


 ……静かだった。水底に沈んでいるような感覚がある。冷たくも深くもない。ただ、音という音が削ぎ落とされた場所に放り込まれたような、奇妙な空白だけが満ちていた。天井が視界に入る。その白さと高さで、ベイル・ドラン・エルディスは自分が生きていることを理解する。


(……ここは)


 視線を巡らせる。装飾のない天井材、簡素な壁、最低限の設備だけが置かれた寝台。空気は澄み、鼻の奥に治療薬の匂いが残っている。


(……救護室、か)


 意識はまだ霞んでいたが、判断は早かった。眠気は薄れ、代わりに腹部の奥に鈍く居座る痛みが主張を始める。体を動かそうとして、背から腰にかけて重い疲労が走った。


(……決闘……)


 記憶が、順序を無視して蘇る。【反応防壁】(リアクティブシールド)。攻撃を拒むのではなく、意味ごと逸らす理解不能な術式。どんな魔法を撃っても通らず、削られ、角度を変えられ、無効化されていった。そして最後に、【反射】(リフレクト)。自分が放った 【石槍】(ストーンスピア) が跳ね返り──。


 思い出した瞬間、喉の奥がひりついた。胸の奥が、じわりと締めつけられる。


(……ありえない)


 天井を睨む。夢ではない。逃げ場のない現実だ。王族が。第一王子が。平民の、しかも年下の、名も知らぬ学生に。公衆の面前で、完敗した。


 怒りよりも先に、呆然とした空白が胸を満たしていた。悔しいという感情は、まだ形を成さない。ただ、何かが抜け落ちた感覚だけが、そこにある。


(なぜ……どうしてだ)


 手を抜いたわけではない。慢心もなかった。全力だった。詠唱も、選択も、判断も。それでもエインは、防ぐだけで、傷一つ負わず、勝っていった。


(なんだ……あの魔法は)


 誰が教えた。どの体系だ。王族として、一流の魔術師として学んできた、既存の魔法理論や術式体系と、どこにも接続しない。──それなのに、あれは未完成ではなかった。即興でも偶然でもない。理論に裏打ちされ、計算され、洗練された結果だった。


(……まさか、自分で、組んだのか?)


 その可能性を認めた瞬間、胸の奥で何かが崩れる。肩書きでも立場でもない。「自分は劣るはずがない」という、王族として、魔術師として当然のように抱いてきた前提そのものが、静かに音を立てて崩れていく。


「……チッ」


 低く舌打ちする。悔しさと呼ぶには、まだ名前が足りない。


(勝ちたかった)


 誇りのためでも、王家の威信のためでもない。ただ、あの平民に──エインに、負けたくなかった。それだけが、遅れて胸に落ちてきた。


 だが、現実は変わらない。拳を握ることもできず、ベイルは静かに目を閉じる。


 敗北の重さだけが、確かな実感として、体の奥に沈んでいった。

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