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7-2

 エイン君が第一王子ベイルに決闘を申し込まれた、その夜のことだ。僕は訓練場で開始を待っていた。噂はあっという間に学内中に広がり、一年首席と三年首席の対決ということで観客席は超満員だ。


 訓練場の中央ではベイルが静かに瞑想をしている。しかし、肝心のエイン君はまだ来ない。問題ないと自信満々に語っていたけれど、本当に大丈夫だろうか……?


 そうこうしているうちに十九時を過ぎたが、彼は現れない。五分後、観客はざわめきだし、王子の眉間には皺が寄っていた。十分後、場は完全に緩み、王子の顔には怒気が滲み始めていた。


「エイン君、どこにいるんだ……」


 迷子にでもなったのだろうか? それともまた別の騒動を起こしているんじゃないだろうか──そんな可能性を考えていたとき、ふと昼間のお茶会での会話が蘇った。


 ──『ここのお菓子も微妙だったなぁ。次こそ美味しいお菓子が出るといいんだが……』

 ──『エイン君そんなに食べてちゃって夕食は大丈夫? 今日は楽しみにしてたハンバーグなんでしょ?』

 ──『大丈夫だって、ヘーキヘーキ。ほらよく言うじゃん甘いものは別腹って』

 ──『……先に食べても別腹って言うのかなぁ』


「まさか……」


 胸に浮かんだ予感が、確信に変わった。僕は観客でごった返す訓練場を抜け出し、寮へ向かって駆け出した。


    ◆


 食堂に飛び込んだ瞬間、香ばしいソースの匂いが鼻を突いた。いつもなら空腹を刺激するはずの匂いなのに、今日は妙に重たい。騒がしいはずの空間に、人の気配がない。静まり返っていた。


 厨房の奥──ひときわ丸い背中が、黙々と鍋をかき混ぜている。


「おばちゃん……」


 声をかけようとして、喉で止まった。鉄鍋を混ぜる音の合間に、微かに、何かをすするような音が混じった気がした。


 ……いや、気のせいだ。そう思い込もうとしている自分が、はっきりと分かった。


 視線を戻すと、エインはそんな空気もどこ吹く風で、食堂の中央に陣取り、一人ハンバーグと向き合っていた。


「あ、フレッド。お前どこ行ってたんだよ。ほら、一緒に飯食おうぜ。お前もハンバーグ好きだったろ」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 決闘は!? 決闘はどうしたの!?」

「えっ、誰の?」


 本気で分かっていない顔だった。危機感という概念が、どこかに置き忘れられている。


「君のだよ! ベイル王子との!」

「……え、俺?」


 エイン君は首を傾げたまま、フォークを伸ばし、ハンバーグに突き込んだ。


「うん……この焦げ目、完璧だな」

「今それ関係ないから! 君が決闘申し込まれたんだよ! というかハンバーグ置いて! 一旦!」

 詰め寄っても、彼はなおも首を傾げるばかりだった。


「でも俺、決闘受けるなんて言ってないけど」

「えっ……でも……」


 一瞬、言葉に詰まった。そんなはずはない、と反射的に思う。決闘だ。第一王子だ。言い渡された時点で、もう始まっているものじゃないのか。


 ──いや。


「……あれ、待って?」


 胸の奥に、説明のつかない違和感が引っかかった。


 たしか入学前のガイダンスで聞いた言葉が、遅れて脳裏に浮かぶ。


 ──『決闘は、双方の合意があってはじめて成立する』


 それってつまり、今回の件は……。


「そもそも決闘なんか成立してないだろ?」


 彼が、悪びれもせず言い放つ。


「そ、そういうこと……?」


 肩から力が抜け、僕はその場に崩れ落ちそうになった。


「それにしても今日は誰も食堂にいないけど、みんなどこ行ったんだ? フレッドもどこ行ってたんだよ?」

「そ、それは……訓練場で君を待ってるんだよ!」


「え、なんで?」

「みんな決闘があるもんだと思ってるんだよ!」


 貴族社会では、よほど理不尽な条件でない限り、決闘を断るのは恥とされている。だから、ベイルが決闘を宣言した時点で、周囲はそれが成立したものだと疑いもしなかったのだ。


「とにかく、今すぐ訓練場に行って決闘を断ってこようよ!」

「う~ん、面倒くさいなあ。飯食い終わってから行くわ」


 エイン君は視線を再びハンバーグに落とし、食事を再開する気満々だった。


「みんな待ってるんだよ! 待たせちゃ悪いよ!」

「いや俺は悪くないだろ」

「えっ、それは……」


「俺はちゃんと断るつもりだったのに、返事を聞く前に勝手に帰ったのは向こうだ。勝手に待ってるのはあいつの問題だろ? おばちゃんを泣かせるほうがよっぽど悪い!!」


 確かにエイン君の言うことも正しい……気がした。


 ──厨房の奥で、今も背を向けたままの、あの背中が、どうしても脳裏から離れなかった。


 そのとき、隣で椅子を引く音がして、エイン君が立ち上がった。


「おばちゃん! だからな、皆がおばちゃんの料理を嫌いになったわけじゃないんだ! 誰も来なかったのは、決闘があるって勝手に思い込んでただけだ! 安心してくれ!」


 一瞬、おばちゃんは口を開けたまま動きを止めた。だが次の瞬間、目元がくしゃりと歪み、ふっと力の抜けた笑みが浮かぶ。照れたようで、どこか申し訳なさそうで、それでも心底ほっとしたような笑顔だった。目尻に溜まった一粒の涙を、手の甲でそっと拭いながら、


「……そうかい。それを聞いて、安心したよ……」


 そう言って、おばちゃんはエプロンの裾で目元を拭き、いつもの調子で、にっこりと笑った。


「さぁ、フレッド君もたくさん食べとくれ。今日はおかわり自由さ!」


 涙の名残を残したまま向けられたその笑顔に、流石に断る勇気はなかった。

「いただきます……」


ハンバーグはとても美味しくて、僕もエイン君もついつい3皿も食べてしまった。お腹がパンパンだ……。


「……そういえば、遅れた言い訳するの? 王子相手に」

「〝体調不良でドクターストップ〟とかどう? ほら、お腹いっぱいで」


    ◆


 食事を終えた僕たちは、ハンバーグを手土産に訓練場へ向かった。


 観客でごった返す場内には、熱気というよりも倦怠の空気が漂っていた。そして中央では、ベイルは変わらず待機を──いや、明らかに変わっている。顔は真っ赤で、その表情も隠しきれない怒りが浮かんでいる。あ、こっち見た。


「エイン―――!!! 貴様ァ―――!!! 今まで何をしていた―――!!!」


 爆発するような怒声が訓練場に響き渡る。


 ベイルがエイン君を見つけ、感情のままに怒鳴りつける。だがエインは気圧される様子もなく、観客の視線を一身に浴びながら、のんびりと中央へ歩み出る。


「ベイル! 話がある!」

「なんだァ―――!!! 今更怖じ気付いたかァ――!!!」

「俺は決闘を断るつもりだったんだよ!」

「貴様ァ! この期に及んでェ!」

「この期も何も、俺はハナから決闘を受けるなんて言ってねーよ! 断るつもりだったのに、返事をする前に勝手に帰りやがって! 勝手に決闘する気になってんじゃねーよ!」

「な、何!?」


 観客席に、明確なざわめきが走った。


「どういうことだ?」

「決闘なんてなかったってことか?」

「いやでも、王子が申し込んだのを近くで聞いたぞ」

「それを今断りに来たってことだろ」

「じゃあ俺たち、ずっと勘違いしてたのか?」

「それならなんでベイル王子はここに?」

「スピーチの時といい、殿下も人騒がせだよな」

「ちょっとちょっと! 何事ですか、これは! 説明を!」


 鋭い声とともに、観客の合間から一人の女性教師が姿を現した。三年の学年主任、スザンナ教授だ。

エイン君が簡潔に、しかし遠慮なく経緯を説明する。話を聞き終えた教授は、こめかみに指を当て、

しばし天を仰いだあと、ゆっくりと頷いた。


「ベイル君。今のエイン君の説明に、事実と異なる点はありますか?」

「……」

「ベイル君」


 促され、ベイルは歯噛みするように視線を逸らしたまま、短く答えた。


「……ありません」

「そうですか」


 スザンナ教授は一度だけ目を閉じ、こめかみを軽く押さえた。


「あなたが侮辱されたと感じ、憤ったこと。その結果として決闘を申し込んだこと。どちらも、感情としては理解できます」


 そこまで言ってから、声の調子を変える。


「ですが決闘は、王国法で定められた正式な制度です。互いの名誉を懸ける以上、感情のままに踏み越えていいものではありません。だからこそ、定められた手順は厳格に守られなければならないのです」


 公衆の面前での正論に、ベイルは肩を強張らせ、唇を噛んだ。羞恥と怒りが、隠しきれずに滲み出

ている。


「以上です。では皆さん解散して──」


「まあ待てよ」

 場の空気を割って、軽い声が割り込んだ。

「言っただろ?断るつもり()()()って。だけどそれは過去の話だ」


「受けてやるよ、決闘。理由ができちまったからな」


嘘だろ!?なんで今更!?


「……なんだ、その理由というのは?」


「それはな、ベイル……お前が、食堂のおばちゃんを泣かせたからだ!俺はそれを許さねぇ!」


 なぜかノリノリなエイン君。

 そういえば彼は前に「女の涙のために戦うのはロマンだ」みたいなことを真顔で言ってたけど……

 まさかその女性が“食堂のおばちゃん”になるとは、誰が想像しただろうか。


 彼の宣言に観客たちがさらに騒がしくなる。


「食堂のおばちゃん?」「あぁ、平民寮で飯を作ってる人だ」「うまいんだよな、おばちゃんの料理」「俺も貴族寮抜け出して、たまに食べに行ってるよ」「そもそも、なんでベイル王子が食堂のおばちゃんを泣かせるんだ?」「……もしかして、そういう関係?」「え、ベイル王子って熟女趣味だったのか?」「ベイル様、私という婚約者がありながら……っ!」「だっさw 派閥抜けるわw」「第一王子が平民の熟女と恋仲になりながら一方的に切り捨てたってマジなのですか?」「いくら殿下でも乙女の心を弄ぶなんて許せませんわ!」


 なんかものすごい誤解が広がっているような……。


「お前は何を訳のわからんことを言っている」

 だが、当の本人はそんな喧騒を切り離すように、ただ真っすぐエイン君を見据えていた。


「だが、貴様が決闘を受けると言った以上、話は単純だ」


 わずかに息を整え、声音を改める。


「まずは賭けの内容を決めよう。形式どおりにな」

「えっ、賭け!?」


 再び、スザンナ教授の深いため息が落ちた。


 「エイン君。決闘を行う際、賭けを交わすのは常識です。ガイダンスでそう教えましたよね。内容の交渉もせずに、決闘を受けないでください」


 続けて、教授は視線を鋭くする。


 「ベイル君、あなたもです。相手は平民です。決闘の慣習に不慣れなのは分かっているでしょう。申し込む側の礼儀として、誤解が生じないよう、きちんと説明してください」


「「はい……」」


 二人は揃って、しょんぼりと肩を落とした。だがすぐに、場の空気は再び張りつめていく。


 ベイルは一歩前に出て、胸を張った。


「……私が決闘を申し込んだ理由は一つ。貴様の不敬を裁くためだ」


 まるで文書を読み上げるような口調で、淡々と続ける。


「私が勝った場合、貴様にはこの学校から即刻退学してもらう。王家を侮辱する者が、王立の学び舎にいるなど、断じて許されん」


 エイン君が目を細めるのを横目に、ベイルは小さく鼻を鳴らした。


「万が一にもないが……規則だからな。一応は決めておこう。もし貴様が勝った場合──」


 言いかけて、露骨に興味を失ったように視線を逸らす。


「そのときに決めろ。どんな要求でも受け入れてやる。……ありえんがな」


 観客席が低くざわついた。スザンナ教授が、思わず眉をひそめる。


「ベイル君、その条件は流石に──」

「所詮は一年の平民だ。私が負ける道理などない。むしろ、この程度の賭けを用意してやらねば、相手が哀れだろう」


 その言葉には、揺るぎない自信と傲慢さがあった。それが根拠のない自信ではないことを知っている者たちは、黙って頷いている。


 沈黙のなか、スザンナ教授は視線だけでエイン君に意思を問う。


「……分かりました。エイン君も、この条件でよろしいですか?」


 エイン君は肩をすくめ、あっさりと答えた。


「ああ、いいぜ。俺が勝ったらおばちゃんに土下座して謝ってもらおうか!」


 スザンナ教授は少しだけ目を伏せて深くため息をつくと、落ち着いた声で告げた。


「……分かりました。では時間も遅いのですぐに始めてください。審判は私が務めます。二人とも、位置について──」


 と言いかけたところで、スザンナ教授がぴたりと足を止め、一歩だけ前に出る。その鋭い視線が、正面からエイン君を射貫いた。


「いえ、その前に、一つだけ釘を刺しておきます。──決闘で使う魔法について、確認しておきましょうか」

「ん?」

「王国法に基づく決闘の規定では──〝致命傷の恐れがある攻撃〟、〝過度な苦痛を与える攻撃〟、〝精神に深刻な影響を及ぼす術式〟。これらはすべて禁止対象です」


「聞いていますよ、ハーゲン教授から。あなたのこれまでの〝実績〟をね。特に、〝苦痛系〟と〝精神操作系〟──あれは決闘ではありません。ほとんど尋問か拷問です。使えばその時点で即失格。取り返しはつきません」


 スザンナ教授は、じっとエイン君を見据えた。笑みも皮肉もない、その視線だけがすべてを語っている。


「……マジかよ」


 ぽつりと漏れた声には、いつもの軽さがなかった。

 困惑と面倒くささが、隠しようもなく顔に出ている。


「ってことは、俺、何使えばいいんだよ……」


「それは自分で考えてください」

 きっぱりとした声で、教授は言い切った。

「これは正式な決闘です。あなたが選び、あなたが責任を負う」


 それだけ告げると、彼女は小さく息をつき、審判の位置へと戻っていった。


 一部始終を見ていたベイルは、目を細め、わずかに顎を引いた。その横顔は冷静を装っていたが──瞬きの回数だけが、不自然に増えている。


 僕はそんな二人の様子を眺めながら、内心でため息をついた。

 でも──

(それでも勝ってほしい)

 彼の戦いが、単なる気まぐれでも、誰かを救うためのものでも。

 理由が何であれ、この瞬間だけは、心の底から祈っていた。

 ──勝ってくれ、エイン君。

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