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6-2

 セレナ・フォン・エルディスは貸部屋の中で、ひとり椅子に腰掛けていた。整った顔立ちに、淡い銀色の髪。まるで絵画から抜け出したかのような、おしとやかな少女だ。だが、その瞳の奥には、静かな意志が宿っている。


 テーブルには、丁寧に淹れた紅茶と、焼きたての手作り菓子が並べられている。香りは十分すぎるほどに立っているが、それを迎える客の姿はない。


 部屋にいるのは、彼女と──そのすぐ背後に控える一人の侍女だけだった。


 イレーネ。褐色の肌に、長い黒髪をそのまま下ろした背の高い女性だ。まだ若さの残る顔立ちだが、切れ長の目元は鋭く、表情に余計な感情は浮かばない。ただ、その立ち姿には、自然と周囲を寄せつけない落ち着きがあった。ただの侍女ではない。王女付きの護衛として、常に影のように仕えてきた存在だった。


(……やっぱり、今日も来ない)


 分かっていたことだった。それでも、万が一を期待して茶を淹れ、菓子を焼いた。交流棟のあちこちから聞こえていた賑やかな声も、今では遠ざかりつつある。


「イレーネ」

「はい、殿下」


「今日はもう、いいわ。……一緒に食べましょう」

「……かしこまりました」


 イレーネは一礼し、テーブルの向かいに静かに腰を下ろす。湯を注ぐ途中、ふと手を止める。立ちのぼる香りを、静かに確かめるように一呼吸。


「……この茶葉、たいへん良い香りがいたします。いつもの茶葉とは、格が違いますね」

「ええ。少し前に、王都の茶舗で仕入れたの」


 セレナは小さく笑う。


「……もっとも、自分では買えなかったのだけれど」

「殿下?」

「変な人がいたの。お店で、ずいぶん騒いでいて……つい、助け舟を出してしまって」


 王女の身分を伏せて外出した日のこと。ほんの偶然の出会いだったはずなのに、不思議と記憶に残っている。思い出すように、セレナは続けた。


「その人、紹介状もない平民なのに高級茶葉を山ほど買っていったのよ。あんな量、普通は無理でしょう?」


 イレーネは相槌も挟まず、黙って耳を傾けていたが、やがて少し困ったように目を伏せた。

「殿下……今後は、外出の際には必ずお声がけを」

「あ……ごめんなさい」


 セレナは、ばつが悪そうに小さく頷いた。気を取り直すように、彼女は菓子に手を伸ばす。


(来客はゼロ。でも……)


 ひとくち食べると、ほどよい甘みと焼き加減が舌に広がる。手間をかけた甲斐があったと、無意識に頷いていた。


「……うん。ちゃんと、美味しい」

「ええ。味のまとまりも、焼き加減も見事です。殿下は、本当にお上手になられました」


 その言葉に、セレナは一瞬だけ目を見開き──そして、ゆっくりと微笑んだ。


「ありがとう。……あなたにそう言われると、嬉しいわ」


 第四王女という立場。王宮では、常に一歩引いた場所に置かれてきた。学校でも、その距離は変わらない。与えられる予算は限られ、格式ある菓子店に注文を入れることもできない。


 だからこそ、彼女は自分で焼いた。


 趣味と実益を兼ねて、少しずつ、少しずつ技術を磨いてきた。


(あの人は……変だったけど)


 どこか場違いで、誰にも臆せず、好きなものを堂々と選んで。賑やかすぎて迷惑な存在だったはずなのに、今も彼の姿が少し、胸に残っている気がした。


 セレナは、もう一度菓子に手を伸ばした。


    ◆


 一週間後。僕たちは再び交流棟へ足を運んでいた。エイン君は「今度こそ美味しいお菓子を!」と意気揚々だったけれど、その期待はあっさり裏切られた。


「この紅茶は、あなた達のお口には合わないと思うわ」

「じゃあお菓子だけ食べるよ」

「このあと用事があってね。悪いけど、また後日にしてくれないか」

「それなら余ったお菓子を持ち帰らせてくれ」

「茶葉が切れてしまって……ごめんなさいね」

「お菓子だけでも!」


 どこへ行っても歓迎されないのは当然だろう。エイン君は言外に「出て行け」と言われてるのに気づく様子もなく、毎回のように居座ろうとする。彼を部屋から引き戻すのは、大変な重労働だった。というか君、どれだけお菓子に執着してるんだ。


「いやー、食った食った! どこも甘すぎるけど、次は……第四王女、セレナ・フォン・エルディスのところだな」


 冷たい視線を浴びながらも、菓子だけは根性で平らげてきたエイン君は、まるで酒場を渡り歩いたみたいな満足顔だった。


 夕飯時も近づくころ、僕たちはセレナ王女の貸部屋の前まで来ていた。エイン君が扉に手を伸ばそうとした、その瞬間、視界の端に影が差し、鋭い視線が突き刺さった。


「お待ちなさい。ここは王女殿下の貸部屋です。無断で近づくのはお控えください」


 現れたのは一人の侍女だった。声は低く、落ち着いているのに、空気が一段冷える。鋭い眼差し、無駄のない立ち姿。どう見ても、ただの侍女じゃない。


「お茶会に参加したくて来たんだけど」


 エイン君がまるで知人の家に遊びに来たようなノリで言うと、侍女の目が細くなった。


「……あなた、首席のエインとかいう平民ですね。先日の訓練で〝拷問魔法〟を使用した、極めて危険な人物だと聞いています」


 めちゃくちゃ警戒されてる。まあ、話だけ聞けば当然だと思うけど……それにしてもストレートすぎる。


「違うんだって! 俺はただ、うまいものを味わって学ぶっていう、教育的意図で来てるだけだから! 本当にそれだけ!」

「王女殿下に万が一があっては困ります。お引き取りを」


 彼女は一歩も引かない。というか、まったく信用してない。それでもエイン君はめげずに、


「もういい、正直に言う! おいしい菓子が食べたい! それだけだ!」


 ──ついに本音を全開にした。もう言い訳すら、放棄したらしい。それでもなお何かを口にしようとする彼を、侍女が慌てて押しとどめた、その時だった。


「おやめなさい、イレーネ」


 閉じた部屋の中から、凜とした声が響いた。次いで扉が静かに開き、一人の少女が姿を現した。


「殿下……!」


 イレーネと呼ばれた侍女が、即座に背筋を伸ばす。その少女は、セレナ王女だった。控えめな佇まいなのに、そこに立っただけで場の空気が整う。


「騒がしかったので、何事かと思いましたが……その方なら知っています。問題ありません」

「……あっ! お茶屋さんで会った!」


 エイン君が、思い出したように一点を示した。王女相手に、指差すんじゃない。……それにしても、まさか王女様と面識があったとは。……いや、今まで彼が知らなかっただけか。


「ですが、警護の観点からは……」

「大丈夫です、イレーネ。中でお茶を淹れましょう」


 短い指示だった。イレーネは眉をひそめたが、やがて一歩退く。セレナ王女は僕たちに向き直り、柔らかく微笑んだ。


「お待たせしました。よろしければ、お二人とも中へどうぞ」


 通された部屋は、派手さこそないが、落ち着いた空気に満ちていた。丁寧に整えられた調度。


「どうぞ、召し上がってください」


 テーブルに並ぶ焼き菓子は素朴な見た目だったが、一口食べた瞬間、思わず声が漏れた。


「……これ、すごく美味しいです!」


 エイン君も一緒になって「うまい!」と目を輝かせる。セレナ王女は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに控えめに微笑んだ。


「あの……その、お口に合ってよかったです。私が焼いたものなので……」


 王族の手作り、という意外性よりも、味そのものが雄弁だった。繊細で、誠実で、手間を惜しんでいない味。エイン君は無言で菓子を食べ続け、セレナ王女はそれを、どこか安心した表情で見ていた。


 たぶん今日のお茶会は、僕たちにとって一番、静かで、居心地のいい時間だった。


 そうして楽しい時間が過ぎていき、お茶会は自然とお開きとなった。僕たちは席を立ち、貸部屋の扉を開けて外に出る──その瞬間だった。


「──これはこれは。実に興味深い組み合わせだな」


    ◆


 廊下の奥から現れたのは、第一王子ベイル・ドラン・エルディスだった。その足取りは静かで、音を立てているのは革靴ではなく、場に満ちた空気そのものだった。彼が一歩進むたび、廊下に張りつめた感覚が軋むように広がっていく。


 やがて歩みが止まり、見下ろすような視線とともに、冷えきった声音が落とされた。


「平民の首席と、落胤の王女。なるほど、確かにお似合いだ。どちらも本来あるべき場所にいない者同士、よく分かり合えるだろう」


 さらに鼻で笑い、視線を巡らせながら続ける。

「ふん。こんな茶会が〝貴族の社交場〟とは笑わせる。いや、真似事にしてはよく出来ているじゃな

いか」


 フレッドは言いかけた言葉を飲み込み、口をつぐんだ。その隣で、セレナの顔から血の気が引いていく。


 彼女は一瞬だけ視線を逸らし、胸元のブローチにそっと指先を添えた。それは、本人さえ気づかぬほど無意識の動きだった。


 ベイルはさらに数歩近づき、セレナを見下ろす。


「それにしても、セレナ。平民から施しを受けたと耳にしたが……まことか?」


 その一言で、セレナの表情から、さきほどまでの柔らかさが抜け落ちる。彼女は俯き、唇を固く引き結ぶだけで、言葉を返せなかった。


「王家の者が平民に借りを作るなど、王族としての品位を疑う」


 低く抑えられた声だったが、その響きは刃のように鋭く、逃げ場を与えない。


 セレナの隣で、イレーネがほんのわずかに身じろぎする。しかし前に出ることはなく、従者としての立場を崩さぬまま沈黙を守っていた。


 張りつめた空気の中で、ただ一人、エインだけが場の重さを気にも留めず口を開いた。


「別にいいじゃねぇか。こうして美味しいお茶も菓子も飲み食いできたんだから」


 その無遠慮な言葉が、凍りついた空気を鈍く揺らした。


 セレナが息を呑む。


 ベイルの眉が、視線がゆっくりとエインへ向く。その瞳には、先ほどまでとは質の異なる冷えが宿っている。


「平民よ、入学式の時もそうだが、お前は何がしたいのだ? 王家を侮辱したかと思えば、今度は王族に楯突く。一度目は平民の愚かな嫉妬と見逃してやったが、どうやら勘違いをしていたらしい。ただの馬鹿だったか」


 ベイルは感情を抑えたまま鼻で笑った。


「それに、セレナの手慰みが一番だと? お前がただの馬鹿なら、その舌もただの馬鹿舌だ。平民が知ったような口を利くな」


 そして視線をセレナへ戻し、冷えた声音で続ける。


「そもそも王族が手ずから料理をするなど、品位も何もあったものではない。落胤とはいえ王族は王族だ。他国との関係を繋ぐ『駒』として、嫁ぎ手としての利用価値はある。その価値を損なうような、最低限の品位もない振る舞いは許されん」


 その言葉は、どんな罵声よりも冷たく、セレナの心を抉った。自分という存在は、ただそれだけなのだと、改めて現実を突きつけられる。


 重く沈んだ空気の中で、エインが言葉を挟んだ。


「駒だの価値だの……随分面倒くさいな、王族って。その点俺は平民で良かったよ。何やっても自由で、誰にも文句言われないからな」


 軽い調子で放たれたその言葉は、独り言に近かった。しかしそれを聞いた瞬間、ベイルの表情が一段と引き締まる。


「勘違いするな、平民──いや、王国の民よ」


 低く抑えられた声が、廊下の空気に沈むように落とされた。


「王族とは、己の都合で生きる存在ではない。上に立つ者は、選択肢を持たぬ。最初から、果たすべき役割が定められている」


 そこに激情はない。怒りでも弁明でもなく、王族として身につけてきた価値観を前提として述べているだけだった。


「それを不自由だと感じるのは、責務を負わぬ者の視点だ。統べる立場にある者にとって、それは前提に過ぎん」


 ベイルの声音は低く、静かで、揺るぎない。


「王族とは、先に示す者だ。その姿勢こそが、人を導き、国を支える。それが、王族としての誇りだ」


 そう言って、ベイルは改めてセレナへ視線を向けた。


「セレナよ、王族が私的な満足で振る舞うことは許されない。菓子作りなど、誰にでも出来る。だが、お前に求められているのは、それではない。それを理解しろ」


「じゃあさ、王女様も俺みたいに平民になればいいじゃん。王族なんか辞めちまえよ。そうすれば、菓子焼こうが何しようが、誰にも文句は言われない」


 唐突だが、その口調はいつもと変わらない軽いものだった。


「王族の誇りとか、役割とか、兄貴の意見とか、そんなくだらないものに従う必要なんかないだろ」


 その言葉に、セレナの瞳が揺れた。恐怖なのか救いなのか、自分でも分からない。ただ胸の奥が熱を帯び、頬に血が上るのを抑えられなかった。


 場の空気が張りつめる。


 ベイルはすぐには声を荒らげなかった。エインを見据えたその視線は、凍りついたように冷えている。


「『くだらない』……だと?」


 低く押し殺した声音だった。


「そんなに、そいつの菓子が気に入ったか?」


 嘲るように言葉を重ねる。


「それとも──我が愚妹の扱いが、よほど気に食わないか?」


 ベイルの口元が、冷笑を形作る。


「それこそが、くだらない」


 抑えていた感情が、言葉となって噴き出した。


「そんな事のために、王族の誇りを『くだらないもの』と! この国の礎を、秩序そのものを否定するか! その傲慢、その不敬……! 貴様の思想こそが、国を乱す元凶だ! 王の存在を否定する不届き者め……!」


 そして、ベイルは決定的な言葉を放った。

「決闘以外に、もはや語る余地はない。今夜七時、訓練場に来い。そこが貴様の──死に場所だ」

 それだけ告げて、ベイルは踵を返す。革靴の足音が、カツ、カツと廊下に響き、次第に遠ざかっていく。

 誰も動かず、誰も言葉を発さない。ただ、その音だけが冷えた空気の中を支配していた。

 やがて足音が完全に消えても、セレナはその場に立ち尽くし、廊下の奥を見つめていた。胸元のブローチを握りしめた指には、くっきりと赤い跡が残っている。

続きます

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