二話 奥方様は考える
フリューリング王国は大陸の西側に位置している。温暖な気候に恵まれ、険しい山脈が続く一部地域を除いてはほとんどが平原や丘陵。国のど真ん中を大河川が流れ、支流も多い。
交通の便がよく、物資も豊富。
そういうわけで大陸でも指折りの大国として地位を盤石なものにしている。
中でも海岸線沿いに広がる王都は、特に人が集まる場所だった。港があるうえ、近隣にダンジョンがいくつか存在し、数多の商人や冒険者などが世界中からやってくる。
王都最大の市場には、この世のすべてが集うと噂されるほどだ。
だがしかし、光が強くなればなるほど、影は当然濃さを増す。
王都では昔から事件が絶えなかった。
人同士のいざこざから詐欺、恐喝、殺人、非合法な品の売買……例を挙げれば枚挙にいとまがない。今このときも、王都の裏では様々な悪人たちが暗躍している。
そうした影に立ち向かうのが、フリューリング王国騎士団なのである。
◇
王都はずれの高級住宅街。
その中でもひときわ目立つ大きな屋敷があった。
よく手入れされた庭には花が咲き乱れ、多くの蝶が舞う。穏やかな陽光に照らされて、どこもかしこもキラキラしていた。
その庭先のガーデンチェアにて、アリアは小さな唸り声を上げた。
「うーん……」
「おや」
すぐそばでお茶を入れていた初老の男性が手を止める。
年の頃は六十代。
白髪交じりで顔には深いしわが刻まれているものの、モノクル奥の双眸は強い光をたたえていた。しわひとつない執事服で優雅に腰を折り、アリアの顔をのぞきこむ。
「アリア様、いかがしました」
「あ、すみません。セバスさん。刺繍をしていたんですが……」
アリアは手元の布をそっと開く。
刺繍枠の中には、今し方出来上がったばかりの作品が鎮座していた。
「忌憚のないご意見を聞かせてください。いかがでしょうか」
「えー……そうですな」
セバスは顔を近付けてそれを凝視し、しばし悩んだ末に笑顔を向ける。
「たいへん可愛らしい犬でございます。お上手です」
「お庭の花を刺したつもりだったんですが……」
「…………そう言われてみれば、野に咲く可憐な出で立ちに見えてまいりましたぞ」
「お気遣いありがとうございます」
アリアは苦笑して、裁縫道具を片付けた。
何度練習してもこれである。刺繍はセンスが壊滅的だし、ボタンを付けることも苦手。熟練の家庭教師ですら匙を投げたものだ。
才能がないことは分かっている。
分かってはいたが、アリアの口からこぼれ出るのは小さなため息だった。
「やっぱりダメですね。私ったら、針物すらまともにできないなんて奥さん失格です」
「自分を過剰に責めるのはおやめください、アリア様」
間髪入れずにセバスが断言し、慣れた手つきでお茶を入れてくれる。
ふんわり立ち上る香りは、東国から渡ってきたサクラという花のものだろう。
この屋敷に来て初めて出された銘柄で、それからずっとアリアのお気に入りだ。
紅茶をふうふう冷ますアリアに、セバスは柔和に微笑みかける。
「誰しも得手不得手がございます。針仕事が苦手なら、得意な者に任せればいい。そのかわりに他の誰かの苦手なことを引き受ける。世の中そうして回っているものですよ」
「それはそうかもしれませんけど……」
アリアは紅茶を一口飲んでから、おずおずとセバスに問う。
「このお屋敷、使用人ってセバスさんおひとりですよね」
「ええ。求人を出しておりますが、なかなかいい人材が来ませんので。私もそろそろ年ですし、引退を考えてはいるのですがねえ」
セバスはやれやれとかぶりを振る。
ここ、シュトザイン家の本邸は大きな屋敷と広い庭、そして小さな林を有する。セバスはそのすべてをひとりで管理しているのだ。執事に料理長、御者や庭師長などを兼任している。
アリアの実家はここの三分の一ほどの敷地しかないが、使用人を何人も抱えていた。
叔父兼当主のハイザン卿が見栄っ張りということもあったが……それにしたって、セバスの仕事量は常軌を逸している。
「万能じゃないですか。不得手があってもいいなんて、説得力がないですよ」
「おや、この私にも苦手なもののひとつやふたつありますとも」
「本当ですか……?」
疑わしげな目で見つめると、セバスはそっとアリアに耳打ちする。
「ここだけの話、酒が苦手です」
「あらら、意外です」
「ええ、昔は酒豪でならしたものですがね」
セバスはやれやれと肩をすくめ、どこか遠い目をして続ける。
「かつては飲み勝負でドワーフや鬼人族らを打ち負かしたものですが、今は酒瓶五本が関の山です。いやはや、寄る年波には勝てませんな」
「それは十分にお強いのでは……?」
アリアが胡乱な目を向けると、セバスは茶目っ気たっぷりにウィンクする。
「ははは。ともかく、今の自分にできることを成すだけですよ」
「私にできること……ですか」
「ええ。どうかご自身のことをもっとお認めになってください」
セバスは力強くうなずき、こう続けた。
「坊ちゃんを支えることができるのは、アリア様だけで……おや、噂をすれば」
ちょうどそのとき、玄関の方から馬の嘶きが轟いた。どうやら馬車が止まったらしい。
そのあとすぐ扉が開いた音がしたかと思えば、勢いのある足音がこちらに近づいてくる。
「帰ったぞ、アリア!」
「まあ!」
歓喜の声とともに現れたのはこの屋敷の主、ロベルトだった。
職場からそのまま帰ってきたのか銀に輝く鎧のままである。
突然のご帰宅にアリアは目を丸くしてしまうが、すぐにハッとして腰を上げ、急いで彼を出迎えに行った。
「お帰りなさいませ、ロベルト様」
「うぐおっ……!?」
「ロベルト様!?」
微笑みかけたその瞬間、ロベルトが膝を折ってくずおれた。
「大丈夫ですかロベルト様!」
「平気だとも……」
おろおろするアリアの手を取り、ロベルトは膝を突いたままかぶりを振る。
そうしてそっとアリアの顔を見上げたあと、目元を抑えてうっと呻いた。
「三日ぶりに会うあなたは刺激が強いな……あなたが放つ光に比べれば、閃光魔法なんぞ子供の花火に過ぎん……まぶしすぎる……」
「あの、早くお休みになった方がよろしいですよ。特に目を重点的にケアしていただいて」
「仮眠ならたっぷり取ってきたとも。騎士団詰め所の執務机でな」
ロベルトは事もなげに言う。
とうてい安らげそうもない寝床だが、顔色はいたって健康的だった。
そんなロベルトに、セバスはくすりと笑う。
「第一騎士団長殿ともあろうお方が、奥方様にはかたなしですな」
「そうだとも。俺が敵わないのはこの世でアリアだけだ! なにしろ、今も腰が抜けて立ち上がれないのだからな!」
「堂々とおっしゃることではないと思うんですけど……」
やけにきっぱりと言い放つロベルトに、アリアはうろたえるしかない。
騎士団にはいくつもの部隊がある。
中でも第一騎士団といえば、エリート中のエリート集団だ。
犯罪捜査や魔物被害などを一手に引き受けており、ロベルトはその団長を務めている。
多くの悪人たちをお縄につけた立て役者であり、いわば正義の代弁者だ。
街を歩けば幾度となく市民から声を掛けられるくらいには顔が知れ、広く慕われている。
そんな彼が新妻のアリアを溺愛してやまず、完全メロメロの骨抜きになっていることを知るものは極めて少ない。今のところは。
アリアは戸惑いつつも、そっとロベルトの手を放す。
「私がおそばにいると立ち上がれないのでしたら、少し離れて――」
「なっ……待ってくれ!」
アリアの手を慌てて掴み、ロベルトは気力を振り絞るようにして立ち上がる。
膝はまだ震えていたが、それでも彼は真面目な顔で続けた。
「あなたを守るためなら俺は何度でも立ち上がる。だから、どうか俺のそばにいてくれないか」
「ロベルト様……」
「いやはや、お熱い限りで何よりですな」
セバスはのほほんと笑いながら、ロベルトの鎧に付いた枯れ葉などを払い落としていった。
春先の庭にはあふれんばかりの花々が咲き乱れ、見つめ合うアリアとロベルトのことを祝福しているようだった。真上に輝く太陽も、舞台のスポットライトのように燦々と自分たちを照らしている。
(本当に夢みたい。私にこんな素敵な旦那様ができるなんて)
実のところ『やっぱりあのときのお水が悪かったんじゃ……』だの『ロベルト様には他に愛する方がいて、その隠れ蓑としてのお飾り奥さんなのでは……?』だのと疑念は尽きなかった。
だが熱烈な告白を受けて半年。
結婚式を挙げてからは一ヶ月あまり。
たったそれだけの時間で、くだらない疑念はきれいさっぱり払拭されていた。
アリアはそっとロベルトの顔を覗き込み、くすりと笑う。
「ロベルト様は本当に私のことがお好きなんですね」
「当たり前だろう」
ロベルトは重々しくうなずいて、握る手に力を込める。
「あなたと出会って、俺の世界は一変した。愛しているよ、アリア」
「ロベルト様……」
ロベルトは顔を合わせる度、こんなふうに大真面目に愛を囁いてくれた。
最初は戸惑っていたアリアも、その本気度が伝わるにつれて心の壁がみるみるうちに溶かされていくのを感じた。今ではもうすっかり、アリアも旦那様の虜だ。
手を握り返し、アリアはつっかえながらも言葉を紡ぐ。
「私もその……あ、愛しております。旦那様」
「がはっっ!!」
「ロベルト様ーーー!?」
とうとう膝が限界に達し、愛しの旦那様が今度こそ地面に倒れ伏してしまった。




