不可視の塔(パーソナル・ラビリンス)
西暦2026年 令和8年 2月 3日
いつも通っている図書館で、面白いかも、と思う本に出会った。いや、正確にはその本の中に、面白い内容が書かれていたので、それを忘れないようにここに記す。
その本があったのは哲学書の棚だった。タイトルは覚えていない。世界の様々な哲学者を紹介する本だった。
その本に出てくる哲学者は、大体が他の本にも出てくるような有名な哲学者たちだったが、マイナーな哲学者も、その者がどのような分野に対して哲学的思考を行ったかが紹介されていた。
そんなマイナーな哲学者(名前は忘れた)は、努力と成長に対して哲学的に己の理論を展開していた。
努力と成長と言えば、普通は山に例えられる。困難な山を登った先に成長と言う結果が手に入る。と言うのが一般的な認識だろう。が、俺はこれに対して、常々疑問に思っていた。体験として、努力し続けても成長が感じられず、かと思えば、いきなり前を塞いでいた壁が砕けて、一気に成長したのを実感した事が、何度となくあったからだ。
これに対して、その哲学者は、人間は生まれた瞬間から、パーソナル・ラビリンスと言う不可視の塔、所謂概念世界に放り込まれる。と表現していた。
不可視の塔は一人一人その形が違い、そしてその攻略法もまた違うのだと言う。
不可視の塔の内部は、正しく迷宮で、十字路、丁字路、突き当たりと、どこへいけば正確かは誰にも分からない。そんな塔に放り込まれた人間は、その迷宮の中で様々な経験をする事で、扉が現れるのだと言う。扉は一つ一つ形が違い、一つとして同じ形は存在しない。
扉の先に進むと、入ってきた扉は閉じられ、戻る事は許されない。そんな扉の先には階段がある。しかしその階段が上り階段なのか、下り階段なのかは、扉を開いて見なければ分からず、また、塔は不可視である為、自分が足を踏み入れた階段が上っているのか下っているのかも分からない。
しかし指標がまるでない訳ではない。迷宮内での経験だ。経験とは、出会いと努力だ。出会いとは人だけでなく、芸術や料理、本、暴力、娯楽、果ては自然など様々であり、努力とは、勉学であったり、運動であったり、他の何かでも、熱中する事を差す。
経験によって齎される様々な選択肢が提示され、あなたの選択次第で通路は分岐して、そしてまた、違う経験、違う選択肢が現れる。何をどう選択するかは、塔を進むあなた自身の判断だ。
他者と出会い、扉の先の階段に足を踏み入れたと思っても、それは下り階段かも知れない。娯楽に興じたとして、それが下り階段だとは言い切れない。
勉学や運動に励めば、その先の扉は確かに上り階段だろう。だが、その先のフロアは、あなたにとって有益であったり有利なフロアだとは限らない。上る程に迷宮は複雑となり、次のフロアに上るのは困難となる。そう、成長を感じられなくなるのだ。
そんなフロアには、あなたを堕落させる経験が待っている。遊び友達との出会いの先は、下り階段かも知れない。娯楽に逃げれば成長はないかも知れない。
だが、人間とはそう言う生き物なのだ。いつも経験の先に現れるのが上り階段だとは限らず、時に下り階段を下る選択をしなければならない時がある。
そうやって、不可視の塔の迷宮を、上ったり下ったりしながら、人間は生きていくのだ。
遊び友達との出会いが下り階段だと決まっている訳じゃない。その先で恋人に出会う事だってある。結婚と言う新たな階段が現れるかも知れない。
娯楽に逃げる事が下り階段に繋がると決まっている訳じゃない。その娯楽の一流のプロフェッショナルになるかも知れない。その娯楽を頒布させる側になるかも知れない。
不可視の塔は複雑怪奇な迷宮であり、経験の先にある扉、その扉の先にある階段、それは時に上る事で停滞するかも知れない。下る事が成長に繋がるかも知れない。
言えるのは、どんな経験と遭遇しても、その経験を大切にして、日々を生きると言う事だ。
この哲学者の考えを、下らないと断じるもまた人生の判断だろう。ただ俺は、これに少し共感しただけだ。




